デリダ -脱構築- /日本国憲法の脱構築

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

流石にここまできたらデリダは読まないとまずかろう、ということで高橋哲哉先生のデリダ入門書を約一週間かけて読む。
デリダは難解、と聞いていたが、入門書とはいえ本書もなかなかの内容、かなり苦戦した。
本書を読む以前はディスコンラクション(脱構築)について「西洋形而上学の二項対立概念を分解するもの」という漠然としたイメージしか持ち合わせていなかったが、プラトンの『パイドロス』テクスト分析から始まる第二章「形而上学とはなにか」により大きく理解を進めることができたのは嬉しかった。


第二章のメモ。
パロール-エクリチュールの境界線は決定不可能であり、両義性・決定不能性を持った「パルマコン」は原エクリチュールパロール(内部)の内部に存在する。この内部に外部性を持ち込む決定不能性の運動がdifferance(差延)である。


さて、自明と思われていた様々な二項対立概念・規範を打ち砕いたところで、ニヒリズムに陥るのではなく、デリダは決定不能性の中での決定(脱構築的決定)を提唱する。続いて第三章のメモ。

プラトン主義形而上学は他者排除の暴力(決定)であるが、脱構築的決定にも、原エクリチュールがもつ「根源的暴力」が含まれる(「名付け」の暴力)。非暴力の追求が暴力となる構造を「暴力のエコノミー」と名付け、純粋非暴力を否定する。であるからして、暴力を自覚し、最小の暴力を持って暴力と戦わなければならない。
脱構築的決定の責任は、「まったき他者」への応答可能性でもある。
「マーク」としての経験一般は反復可能性を必然的に持ち、主体・オリジナルは脱構築され同一性は失われる。マークは他者と触れ合い、差異の反復が発生し、この「まったき他者の侵入」に「決定不可能なもの」の経験の「決定」の可能性を見る。マークが他者に開かれ自己に回帰しないこと=「散種」=他者への贈与を肯定する。
あらゆる言語に先立つ、応答可能性としての「ウィ」。決定、そして「責任」とは自律的なものではなく、常に他者への「応答可能性」である。


第四章では脱構築のテーマが「言語」から「法」へと移る。自分にとってデリダはテクスト分析に長けた哲学者というイメージがあったので、「法」について真正面から論じていることがとても意外で、法学部の自分は「はっ」とさせられてしまった。デリダは「脱構築的探究の最もふさわしいフィールドは法と正義のそれである」と語る。では例によってメモ。

法の、合法性の、正統性の脱構築可能性が、脱構築を可能にする。政治の脱構築不可能性もまた、脱構築を可能にする。脱構築は、正義の不可能性と、法や正当化する権威あるいは正当化される権威の脱構築可能性とを分かつ間隙に生起する。
あらゆる法の起源には、自ら正当化出来ない無根拠な暴力(力の一撃)がある。ある方は「法の支配」の元で合法的であり得るが、「法の支配」それ自体は合法的では有り得ない。「法の支配」は自らの起源の原暴力を隠蔽する。
法が正義と完全に一致することは決してない。法は一般形式であるが、正義は特異な者=まったきの他者に関わるものである。正義は法の脱構築そのもの、まったきの他者への応答・肯定である*1
正義と法は分離不能であるが、特異性と普遍性の両立の不可能性それこそに正義の可能性を見る。不可能性の経験は正義の経験そのものである(アポリアとしての正義*2)。正義の条件は責任の条件でもあり、アポリア的正義への責任は「破壊不可能な責任」である。責任ある決定(脱構築的決定)とは、常に特異な状況に応える有限的な決定である*3。正義は計算不可能なものを計算に入れなければならない。

この第四章は僕にとって衝撃であった。法学を勉強するにあたって僕は法の正統性・法は規範を要請するのか、はたまた倫理を要請するのかといった疑問を常に抱えていたので、「法は正義では有り得ない」「法の起源には無根拠な暴力が存在する」というデリダの指摘に感激してしまったのだ。
デリダは法の起源の無根拠な暴力(力の一撃)についてアメリカ独立宣言を例に挙げているが、今学期僕が日本国憲法を学んできた中にも数々の「力の一撃」を指摘できる。
たとえば日本国憲法の制定経過について。
日本国憲法は、形式上は明治憲法73条の改正手続によって成立したが、これには大きな問題がある。明治憲法天皇主権の欽定憲法であるが、日本国憲法は全文にもあるように国民に主権が存する民定憲法である。憲法の性質上、憲法改正でもその基本原理である主権のあり方を変更することは法的に不可能ではないか、という指摘が可能である。
これに対し宮沢俊義が唱えた「八月革命説」と呼ばれる有力な学説は、確かに日本国憲法明治憲法の改正手続によって成立したが、ポツダム宣言受諾により一種の「革命」が法的に擬制され主権が天皇から国民に移行し、主権者である国民の手で日本国憲法は制定され、改正手続はあくまで形式的なものに過ぎない、というものである。
はっきり言ってこのような苦し紛れの解釈はいくらでも批判が可能であり*4全く意味が無いなと思っていたのだが、これこそデリダのいう「力の一撃」の典型例に挙げることができよう。
また、ケルゼンが唱えた純粋法学では、憲法は一切の実体法の最上位に位置しそれぞれの「妥当性」の根拠となり、憲法の根拠となる概念として、「思惟の上で前提とされた規範」(???)としての「根本規範」が存在するとされたが、この根本規範も意味不明な定義をすることなく「力の一撃」と理解すれば事足りる。
さらにいえば基本的人権の尊重・平和主義・国民主権の三原則を見ても、西洋諸革命の精神・意義を継承して設定された基本的人権が「自然法*5を名乗りしかも25条はプログラム規定ですと突っぱねるわ、交戦権・戦力の保持を否定しておきながら政府解釈で極限の自衛隊運用を図るわと怪しい事だらけである。そして残念ながらここまで書いたところで何が言いたいのかわからなくなってきてしまったのでもうこの件については切り上げることにする。


第五章では「イサク奉献」を例にあげて、倫理的な責任を肯定しつつ犠牲にすることで、倫理的責任を超越しつつ不可分な存在としての絶対的責任*6を挙げ、すべての他者は唯一絶対の「まったきの他者」であるとしてレヴィナスが絶対唯一の存在とする「神」をまったきの他者と同等とみなし倫理と宗教の区別、さらには特異な他者に普遍的に応えるという不可能性において宗教・倫理・法・政治すべてに妥当する「絶対的責任」を説く。
ここから最後に「メシア的なもの」が説明されるのだが、最終章のこの部分は特に難解であり、自分にはちょっと理解出来なかった。残念。


先日東京大学駒場キャンパスで行われた「『クォンタム・ファミリーズ』から『存在論的、郵便的』へ──東浩紀の11年間と哲学」に行ってきたのだが、*7、「まったきの他者」への応答可能性、という観点からQFを再読しても面白そうである。そして恥ずかしいことにシンポジウム名にも含まれている『存在論的、郵便的』を読んでいないのでこちらも近いうちに読んでみたい。


さてこのエントリを書きながら、日本国憲法憲法制定権力をめぐってナシオン主権・プープル主権の解釈が対立した樋口・杉原論争を思い出しながら、イデオロギー批判としての主権・国家権力の民主化にむけて憲法解釈としての主権という対立を、憲法脱構築という観点から考えていたのだが、*8そもそも脱構築という概念が難解であり、エントリとして書き残すほど思考がまとまらないので、これは今後の課題としてひとまずおいて置くこととする。


本書で一番疑問だったのは「正義」と「まったきの他者」という脱構築不可能な外部性の導入だが、先日のシンポジウムによるとどうやら東氏はこの外部性に注目してデリダを乗り越える作業を『存在論的、郵便的』でおこなっているらしい(?)ので、期待している。

*1:他者との関係としての正義、という思想はレヴィナスからくるものだが、レヴィナスが特異な他者との関係を倫理として考え、正義は一般的な第三者との関係を法と結びつけて考えたのに対し、デリダは法が一般性に対応し、正義はそれを越えた特異な他者との関係と結びつけた点で異なる

*2:1、規則のエポケー 2、決定不可能なものに取りつかれること 3、切迫が知の地平を遮断する

*3:決定の瞬間は一種の狂気である!byキルケゴール

*4:例えば憲法を制定したのは実質的にはGHQと松本委員会じゃないか、とか

*5:デリダ的には「自然法」ほど怪しい法概念も無いな

*6:法と正義の関係

*7:ここでの千葉雅也氏によるマラブー東浩紀デリダ論比較が全く理解出来なかったのも本書を読んだきっかけだったり

*8:樋口先生のイデオロギー批判はもちろんマルクスの影響だが、デリダマルクスにも言及している