握手について

スマートフォンを買った。HUAWEI nova。SIMフリーで4万円台、初めてのミドルクラス機だけれども流行りより少し小さめの5インチで薄くて安っぽくもないし、サクサク動いてくれるので今のところ気に入っている。
指紋認証がついている。裏面にのくぼみに人差し指を当てると、1秒以下でノーストレスで反応してくれる。すごい。

指紋認証が苦手だ。手のひらに汗をかきやすい体質で、指紋認証が通りにくい。職場のPCはセキュリティの関係上、原則は指紋認証が必要だが、調子が悪いと5回10回では通らないときもある。通らないとどんどん緊張してきて、余計汗が滲み、ますます認証が通らなくなる。ある日なにをやっても20分近く認証が通らず、PCがフリーズしたところで、怒りと諦念にまみれながら社内のセキュリティ担当に連絡して指紋認証を切ってパスワード式に変えてもらった。

指紋認証が通らないと、イライラするというより、どんどん悲しくなってくる。人格を否定された気分になる。指紋認証が通らないということは、自分が自分だと認めてもらえないということだ。だから、新しいスマホを買ったときも指紋認証が怖かった。職場のPCのように、少しでもストレスを感じるのなら、別にロックをかけなくてもいい。というかこれまで使っていた機種にはパスワードをかけていなかったのだから。
そんな気持ちで指紋登録して使ってみたら、最初にも書いたけれど、本当にノーストレスで認証してくれる。正確に言うと、認証しているという感覚もあまりなくて、スマホを持った瞬間に画面が立ち上がるようなイメージだ。人格を認めてくれるというよりも、スマホが身体の一部になった、そんな気持ちになるし、毎日新しいスマホを触るのが、いや、画面が立ち上がるのが楽しい。


新しい技術で、新たな形で自分自身が自分自身であるという新たな確信を得られるようになったという経験を楽しんでいて、ふと、握手という行為について思いを馳せた。
指紋認証は苦手だが、握手はもっと苦手だ。
手のひらに汗が出やすい体質は、昔からずっとコンプレックスだった。小学生の頃から、将来恋人ができたら手を繋ぐときにどうすればいいのだろうかとずっと悩んでいたような気がする。握手をしなくても、何かのきっかけで自分の手のひらが汗ばんでいることを他人から指摘されると、どんどん緊張して、汗ばみは加速していく。悪意の有無にかかわらずそれを指摘されるとひどく落ち込むし、気持ち悪いと直接言われたこともあった。同じような体質の親族は、思春期に悩みに悩み汗を出なくさせる手術を選んだくらいだ。自分もその気持は痛いほどわかる。
そんな思春期を経て、人並み、いや、人より遅かったかもしれないが、それなりの年齢になって恋人ができるようになってからは、手を繋ぐという行為は、自分のすべてをその人にさらけ出すような、命がけに近いものだったし、身体を重ねるよりもよっぽど手を重ねるほうが緊張度が高かった。恋人になる前に身体を重ねることの是非については色々な考えがあるだろうけれど、どんなに性に厳格であっても、恋人になる前に手を重ねることについて眉をひそめる人はなかなか居ないだろう。でも、手を重ねたときに、自分の手が汗ばんでいることを揶揄したり、無神経に(こういうセンシティブなことに対して「無神経」だと判断するハードルはおよそ高々と設定されるものだ)何か言う人は、結局その後恋人になることはなかったように思う。そういえば今思い出したけれど、我が人生の聖書(バイブル)として年に数回は読み返す『彼氏彼女の事情』でも、雪野と有馬は手を繋いだ時に彼氏彼女の関係になったのであった。


さてさて、握手である。このブログに新しいエントリを書くのは久しぶりだが、過去のエントリから見てもわかるように、アイドルが好きだ。好きだった。
アイドルといえば握手会。そんなイメージもあるかもしれない。しかし、幸か不幸か、アイドルが好きなのにも関わらず、握手というものが決定的に苦手なのである。2007年頃にハロプロがきっかけでアイドルヲタクの世界に転がり込んではや10年経ち、ハロプロから地下、地方アイドルとそこそこ広範囲に手を広げてきたにもかかわらず、AKBに決定的な苦手意識があるのはこの握手への苦手意識なのかもしれない。素直にアイドルヲタクとして没頭できず、なぜかアイドル論なるものに興味を持ってしまったのも、握手への苦手意識が行き着くところまでいって、どこか「物理的接触」への恐怖の裏返しとして、ネットの可能性、情報技術のコミュニケーションとメディアとしてのアイドル、というようなキーワードにのめり込んでいったのかもしれない。

AKBグループの握手会には一度も参加したことがなかったけれど、地下アイドルの世界に足を踏み入れたなら、それはそれで握手からは逃れられないものだ。とはいっても、潔癖症のごとく握手を忌避していたというほどでもなく(そんな世界で握手を拒否したらそれはそれで角が立つものだ)、地下アイドル・地方アイドルに足繁く通うようになってから、若干の苦手意識を持ちながらも、物販で握手をすることもそれなりにはあった。
そうやって握手への逆の意味でのこだわりも薄れていったのと並行して、アイドル論なるものへの情熱、そしてアイドルへの情熱も失われていった。それは、かつて好きだったアイドルが次々とキャリアを終えていったという単純な理由もあるだろうし、様々な経験をしていくなかで、アイドルとは何なのか、アイドルを好きになるというの何なのかということを突き詰めていったときに、アイドルは人間である、人間を愛するということである、という何か究極的なところにたどり着いたというか、最初の地点に戻ったというか、人を愛することの難しさや喜び、人間という存在の豊穣性というものの圧倒的な壁を目の前にして、何か恣意的に「アイドル」という主語で恣意的な角度で切り取った言葉遊びに疲れてしまったしばかばかしいと思ったのも事実だ。
アイドルの何が好きなのか分解してみたとき、曲が好き、踊りが好き、ルックスが好き、性格が好き、たぶんいろんな答えがあり、中には馬鹿馬鹿しいと思えるものもあるかもしれないけれど、好きだという気持ちはただただ真実で、アイドルがアイドルであるからという理由でしかないように、人を好きになるということを分解しようとしても、その人がその人であるから好きなのだとしかいいようがないものだ。


3月は節目の季節だ。
先日、ふとしたきっかけで、かつてとても大好きだった地方アイドルグループのメンバーたちの近況を知った。子供が生まれた、子供が生まれそう、来月結婚する。彼女たちは、びっくりするぐらいに人間だった。自分の知らないところで、あの街で、それぞれの人生を歩んでいる。そもそもあのアイドルグループは、アイドル/一般人という区別がバカバカしくなるほど特別感がなかったし、みな自然体で活動していた、生きていたような気がする。そんな自然体なところが大好きで、自分の中で当時彼女たちには恋愛感情はなかったときっぱりと断言したいのだが、あの子が結婚すると聞いてちょっともやっとするのはなぜなのだろうか。自分自身の気持ちは自分ではわからないものだ。


そのグループとはまた別の地方アイドルグループ、いや、そもそもアイドルとは自称していなかったのでなんと呼べばいいのかわからないが、そのグループのとあるメンバーはこの春で高校を卒業して、地元を離れるという。そのグループが解散してからもソロ(たまにバックバンド付き)で歌を歌っていたのだが、そのときにはもはや好きになりすぎて彼女の歌を聞きに行けないような、アイドルとして(繰り返すがそもそもアイドルとは自称していない)好きだったというよりも、異性として、女性として好きだったと認めざるを得ないかもしれないけれど、じゃあアイドルとして好きということと異性として好きということは何が違うのか、そもそも人間として好きというのは何を意味するのか、何が特別なのか、何の制約が生まれるのか、何が自由なのか、すべてがわからなくなってしまう、とにかく好きだっとのだとしか言いようがない、曲も踊りも顔も声も言動もとにかく好きだった、ただひとつわかるのは、自分と彼女は違う人生の道を歩むのだと、それだけはなぜか確信できたのだけれども(そういうところが勝手に彼女に「アイドル」的な何かを押し付けているということなのかもしれない)、そんな彼女が地元で最後に歌うというイベントに先日意を決して足を運んだ。

さて、握手である。人は出会いのときだけでなく、別れるときにも握手をするものだ。
びっくりするくらい長丁場のライブとその後の打ち上げパーティーではほとんど会話をすることもなかったけれど、最後の最後、お見送りの握手の時間がやってきた。自分の番まであと数人、というところからが長い。10分、15分と過ぎていく。もう本当に自分でも笑ってしまうくらいに手汗がとまらないし、ポケットにいつも忍ばせているハンカチももう限界だ。
やっと自分の番がやってきて、今日のイベントがどれだけ特別で素晴らしく、この数年間で何が変わって何が変わらなくてどう感じたのか、ヲタクっぽくきっと早口でまくし立てていたような気がする。ポケットのハンカチを握りしめながら。
その子はそんな自分の話をうんうんと聞きながら、いたずらっぽく笑い、手、出して?と言った。観念してハンカチでは拭いきれない汗をにじませながら手を出すと、きゅっと握られ、知ってるよ、握手苦手なんでしょ、知ってるから!と得意気に彼女は笑った。そんな彼女を見て、確かな手のぬくもりを感じながら、握手は苦手なんだと何度も振りほどこうとするたびに笑って強く握り返されたかつての数々の握手の思い出と一緒に湧き上がってくる、周りが見えなくなり迷惑をかけながら必死に通いつめて本当に辛くて本当に幸せだったあの日々、そこからぱったりと足を運ぶのを止めた空白の日々、あり得たかもしれない人生の可能性、選ばなかった選択肢。今いる自分と今いる目の前の彼女、それは確かにいまお互いに存在していて、別々の人生を歩むということだけはわかっているのに、なぜか握手という形で一瞬だけつながっている。

なんてことはない、ただの握手だったのだけれど、それは指紋認証とはまた違う形で、自分自身がいまここにいることを認めてくれたような気持ちになる、そんな最後の握手だったのだなと、多少汗ばんだ手でもきりっと認証してくれる新しいスマホを握るたびに、自分の新しい人生をみつめていこうと思いながらも、でも少しだけそうやって後ろを振り返りたくなるのである。