監督失格/愛と死の共感不可能性/不可能性を超える物語

監督失格感想。



愛する人ドキュメンタリー映画という手法で撮るというのはどのような感覚なのだろうか。


ドキュメンタリーという手法によってフィルムに映されたものは、普段人が目を背けたりそもそも見えないものであったとしてもカメラを通した瞬間に対象となって不可避的に浮かび上がる。それは裸や秘部といった物理的な暗所だけでなく、快楽や狂気といった精神的な「秘部」を白日の下に照らすAVという手法を補完する手段として最適なのかもしれない。AV女優の素顔、涙、酔いつぶれて吐瀉物にまみれた顔、尿を漏らす姿、「男」や「母」に依存する姿を猥雑にドキュメンタリーカメラは捉えていく。
ドキュメンタリーが暗部や秘部に客観的な光を差しこみそっくりそのままフィルムに焼き付ける訳ではないことはもはや自明であり、そこから溢れ出すカメラの主観性と暴力性といった要素を平野監督は過剰に引き受ける。平野は徹底して由美香に対して常にカメラを回し続ける。映画前半部の北海道への自転車旅は、林由美香そのものを撮るというよりも、由美香と平野の関係性、そして撮影者でもあり出演者でもある平野自身を描いたものであったように思える。

平野はなぜ執拗に由美香に対してカメラを回し続けるのだろうか。映画監督の黒沢清がシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」*1で語っていた言葉を思い出す。彼は「成熟と未成熟」というこのシンポジウムのテーマに関連して、受け手に何かを期待すること、あるいはカメラを回しさえすれば必ず何かが映り込んでしまうという映画の性質そのものが「未成熟」であるかもしれないと語っていた。その意味で、ドキュメンタリーという手法は通常の映画に比べさらに「未成熟」だと言うことが可能であるかもしれない。もちろん、ドキュメンタリーを撮るものであればその「未成熟」性を理解し逆手にとってドキュメンタリーにしかない魅力を創りだしていくことが求められている。

映画前半と内容は重複しているであろう平野監督の過去作『由美香』は、カメラによって無意識的に写りこんだ「何か」への期待、そしてカメラの主観性を過度に強調すること=自らも被写体となることによって、「人と人の関係性」つまり「愛」を描くことを目的としていただろう。
しかし、この映画『監督失格』は、究極的には平野が由美香の死に立ち会ってその瞬間を「撮ってしまった」ことによって成立している。由美香の死をあらかじめ知っている我々観客にとって、由美香と連絡がとれなくなり焦りを感じる平野監督の表情や、決して口には出さないものの由美香の死を予感していることを伺わせるように開かない部屋の郵便受けから室内の「匂いを嗅ぐ」シーンのリアルさは非常に緊迫感のある映像であり、由美香の母から鍵を受け取り室内に突入したあと廊下の床に放置されたカメラから「偶然撮れてしまった」画面の中で悲痛な声で泣き叫ぶ由美香の母や彼女に無邪気にまとわりつく由美香のペットの犬(お腹をすかせていたのであろう、などとつい思ってしまった)の対比の画は観客の身体を凍りつかせる衝撃的なものだった。
本来であるならば、平野監督はカメラを持って由美香が倒れている室内へ侵入すべきだった。過去に由美香から自身と由美香の喧嘩のシーンをカメラに収められず怒られたことになぞらえて平野自身も「監督失格」であると述べている。平野と由美香の間でこの「監督失格」の行いが「恋人失格」と対比されるのかそれとも両立するのかはわからないが、少なくともここでは特別「監督失格」であるとは思えない。なぜならドキュメンタリーにおいて「偶然撮れてしまった」映像も含め監督の功績であり、少なくとも平野がこの場にカメラを持ち込んだことでこの衝撃的な映像が記録されたからである。
しかし、確かに平野は「監督失格」であったように思われる。ドキュメンタリーは真実を切り取る装置ではない。偶然とれてしまった映像であったとしても、意図して撮った映像と同じく、それがカメラを通すことで決定的に「意味付け」が行われる。その意味付けは受け手に託され部分もあるが、もちろん編集その他の効果によって監督がフィルムとして公開する時にある程度の意味付けの方向性を決定する。そして、平野はこの偶然とれてしまった映像そして由美香の「死」に対する意味付けを明確に放棄していた。その意味で平野は「監督失格」であった。

偶然とれてしまった映像に意味付けを行うこと、受け手が意味を読み込むことは、いうなれば「物語」を作ることである。しかし、人の死は究極的には物語化できないもの、共感できないものである。ここで由美香の死を物語化しないことはある意味倫理的な態度だと言える。その倫理が平野と由美香をとりまく世界でも共通するものであるかはわからないし、おそらく逆転していたのではないだろうか。愛は究極的には物語化できないものであり、共感不可能な私的なものである。そんな既存概念を打ち破った新しい愛の形を描くのに成功したのが映画前半及び過去作品『由美香』であったはずだ。北海道への自転車旅という(今見ると)ありふれたモチーフで、正直退屈な映像であった*2が、たとえつまらない(≒共感不可能)ものであっても、本来私的なものでしか成り立たない「愛」を、あえてその逆(カメラによる徹底的な可視化・パブリック化・非物語化)を突き通すことでフィルムの形で成立(反転した物語化)させていた。
 だが、映画後半に訪れた由美香の「死」は究極的に共感不可能な私的なものであるにもかかわらず、目を話した隙に勝手に物語化してしまうものでもある。さらに由美香はAV女優という職業であり、実際当時スポーツ新聞等が彼女の死を「AV女優の怪死」としてセンセーショナルに取り上げたように、意味付けを加速させる。平野はこの死をそのように描くことはもとより、由美香と結びつけることもせず、あらゆる物語化を拒否した。

由美香の死の物語化を頑なに否定するかわりに、平野はもう一つの自身の映画手法を極端に全面化させる。それはカメラの主観性の強調である。主観性の強調及び自身をカメラに対して客体化させることを徹底し、平野は由美香(の死)を描くかわりにひたすら自身自身に没入し、由美香の死そのものでなく由美香の死に向きあう(向き合えない)自分自身を対象化する。ここでは死の共感不可能性に加え、極めて私的な、愛の共感不可能性が描かれることとなる。もはやここでは愛は由美香と平野の関係性ではなく、平野の自意識・エゴでしかない。物語批判と共感不可能性、それが平野の描きたかったものではないだろうか。


しかし、平野が自らの肥大した自意識を露悪的に発現させて愛と死の共感不可能性を描いていても、最初に指摘したようにそれをフィルムに残した時点で平野の自意識や愛は客体化され意味を受容されることは不可避である。そして映画前半の自転車旅行記において由美香が一人で夕焼けを見ながら一人歌を歌うという実に物語的なカットを挿入したように、ラストシーンに平野はカメラの前で一人号泣した後夜中の街へ自転車で飛び出し由美香への愛を叫ぶという実に物語性の強いカットを選んでしまう。共感不可能性の徹底によって浮かび上がる意味を追求するのではなく、安易な自意識を物語化したラストシーンは、ドキュメンタリーという映画手法の構造を台無しにするだけでなく、私的なもの・愛/パブリックなもの・物語という二項対立に縛られること無く『由美香』で達成した奇跡的な愛の形をも破壊していないだろうか。

愛とは究極的には自意識にすぎないのかもしれない。その点について明確に同意/否定するのは難しいが、由美香の「死」及び愛をこれ以上描けなくなった後に、それらを受け継ぐものとして平野の自意識がどこか安易に描かれる点について納得が行かない。
平野にとって林由美香とは結局どのような存在だったのだろうか。
映画を見終わった後、一緒に見に行った友人と感想を語り合った際に、彼はこんなことを言っていた。
オノ・ヨーコジョン・レノンの死後にイマジンの歌詞をニューヨーク・タイムズに広告として載せた。自分の愛する人が死んだ後に、そういうことする?」
ジョン・レノンオノ・ヨーコだったらなんとなく納得してしまうかもしれない。だが、自分の愛する人であればどうだろうか。自分の愛する人は自分がしっかりと心に刻んでおけばそれでいい、「普通」であればそう思うかもしれない。平野にとって林由美香はどのような存在だったのだろうか。平野だけが由美香を心に刻んでおけばそれで足りたのであろうか。否、平野と由美香の愛の形は、AVという形式にせよ『由美香』というロードムービーの形式にせよ、カメラを通じた徹底した可視化の先に到達されるものだったはずだ。
安易な形で「物語化」言い換えれば「アイドル化」されることを拒否してきた/されてきた由美香だったが、カメラを通した由美香の姿は(時に極めて意識的に)不可避的に客体化そしてアイドル化する*3。由美香の死に立ち会った由美香の母親は、「由美香のことを忘れないで欲しい」と願い、5年間に渡って封印されてきた由美香の死を映したフィルムに解禁許可を出す。平野は物語にできないはずの「死」を映画にする=物語化するという初めから不可能な試みに挑戦するが、『由美香』で徹底した可視化により「愛」に寄り添った時と同じように「死」に迫ることは出来ず、結局平野自身の自意識と向き合うことになり、カメラの主観と客観が一致した時に平野は距離感と方向を見失い、封印してきたはずの物語性が安易に復活してしまった。ここで非ー物語的存在の象徴であった由美香は追いやられ、ただ醜い自意識だけが残された。


そもそもこの映画は林由美香を描いたものではない。『監督失格』という題名が表すように、平野の自意識に寄り添った作品である。そして今まで指摘してきたように、徹底した可視化による愛や死の共感不可能性に寄り添えずに物語的な自意識に吐露に逃げてしまった映画の構造的な失敗までも「監督失格」という言葉で先回りされたのでは、非常にやるせない思いが残るだけであった。
平野はなぜカメラを回し続け、カメラを一旦置いた後なぜ再びこの映画を完成させようと思ったのだろうか。カメラを回すことでしか愛を語れず、映画でしか自分を語れないという悲しき男の自意識への「共感不可能性」しか残らないとすれば、あまりに惜しい。

*1:参考:http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100307/1267978834

*2:自分が足を運んだ劇場で響いていたイビキが象徴的だった

*3:AV女優であり、可視化を徹底させる点においてまったくもって正反対なようでいて、その先に浮かび上がる私的なもの/公的なものという二項対立を越えた、カメラ(メディア)を通じてしか成立しない存在である由美香(及び平野との関係性=愛)を「アイドル」にパラレルな存在として読み替えることができるかもしれない。どこまでも「物語」を必要とするアイドルに対して、徹底して「非ー物語」を突き通す由美香。そんな彼女が「死」を迎えた時に、それでも平野がそれを映画化することでに由美香に対して向き合ったことへの期待と、結局死の物語化不可能性を超えること無く自らの自意識を物語化してしまう平野の中途半端さ、そしてそれを「失格」と先回りしてしまう態度に失望した。それはどこかパラレルに「アイドルと死」というテーマに対して敵前逃亡してしまったように思え、余計に自分は苛立ったのかもしれない。