アイドルの条件/平野綾/嗣永桃子

ちょうど「アイドルの条件」と題して寄稿した同人誌を宣伝した日に、考えさせられる出来事が起きた。平野綾嬢のグータンヌーボ出演である。

ネット上の反応は様々だ。嘆く者。平野綾嬢を非難する者。それに乗じて騒ぐ者。ファンの態度を非難する者。
「アイドル」はどうあるべきなのか。「アイドルヲタク」はどうあるべきなのか。

平野綾は一般的には「アイドル声優」にカテゴライズされるが、そもそもここ数年いわゆる「ドル売り」をおこなっていなかった。もともと子役出身であるし、自らを「声優」と位置づけることも、もちろん「アイドル声優」と位置づけることはしていなかったように思われる。また、彼女がしばし「ビッチ」という用語と共に語られることが多かったように、いわゆる「清純系」で売っているわけでも、そう捉えられているわけでもなかった。

だが、声優として名が売れ出した当初は、黒髪でとても愛らしいルックスを武器に「ドル売り」をしていた時期もあり、彼女のファンの中にはネタ的に「ビッチ」と揶揄する一方で、その裏にある「純粋系」「処女性」といったアイドル的なイメージを見出していた人々も多かったのではないかと思われる。

なんにせよ、「アイドル」を求めるファンと「脱アイドル」を目指す本人・事務所のギャップは確かに存在していた。その状況で、彼女は民放の人気テレビ番組においてアイドルにおいて一般的にNGとなっている恋愛事情を公表し、「脱アイドル」を宣言したのだった。


平野綾嬢を責める気にはなれない。前述のように、彼女・事務所は「脱アイドル」を目指していたのだ。このブログでも何度か言及したように、アイドルという存在は、ファンとアイドルの共犯関係によって成立する。その意味では彼女を「アイドル」と定義することはできない。

しかし、彼女のファンの中には、彼女の姿にアイドル像を見出す者が多かった。彼女の意思とは別の部分で、きっと彼女は天性のアイドル性を兼ね備えていたのだろう。ファンもその矛盾にきっと気づいていたはずだ。ファンは確かに愚かだったかもしれない。このような結末は見えていたはずだ。だが、それでもなおそこにアイドル像を見てしまった彼らを鼻で笑うことなど到底出来はしない。


平野綾嬢が今後どのような方向へ進むのはわからない。声優、歌手、女優。この事件を機に、彼女はステップアップを遂げるかもしれない。
しかし、殺人予告をしでかすような者は論外としても、彼女は多くのファンを失望させてしまったという点で、仮に「アイドル」という職業ではなかったにせよファンによって支えられる仕事をしていく以上、プロフェッショナルではなかったと思う。今後、彼女が今までのファン・そしてこれから獲得するファンを納得・魅了する活躍ができることを願うばかりである。



僕たちはどのような「アイドル」を好きになれば幸せが待っているのだろうか。


日芸能界には様々なアイドルで溢れている。その多様なアイドルのおぼろげな共通点をひとつ挙げるとすると、アイドル性の自己言及、「メタ・アイドル」性を少なからず帯びているという点であろうか。その証拠として、「アイドル好き」を公言するアイドルをよく見かける。例えば典型的なのがAKBの指原莉乃。AKBには他にもアイドル好きのメンバーは多い。モーニング娘。であれば道重さゆみなどが挙げられるだろう。「アイドル好き」を公言することで、ファンとの一種の連帯感を想起させることができるし、自分がアイドルがなんたるかを理解している点をアピールすることでファンに安心感を与えることができる。


たしかにこのようなアイドルは、いわゆる「等身大の女の子」をアピールするアイドルよりも「裏切られる」心配は少ないかもしれない。だが、どうにもつまらない。ついそんなことを感じてしまう。


Berryz工房嗣永桃子。僕が彼女と出会ったのは2年前、2008年、彼女は16歳だった。その頃には「プロ」というあだ名が示すように、アイドルとして非常に模範的で、メタ・アイドル的なキャラクターが完成されていた。ルックスも可愛らしく、僕はその時「この子ならあと2年は戦える」と感じたのを今でも覚えている。
それから2年経った。
実はここに来て「嗣永プロ」は方向性を変えた、と度々指摘される。大学進学が報告されると、戸惑いを覚えるファンも少なくなかった。
嗣永桃子は、ここ最近「大学生アイドル」を名乗っている。僕はそのことに対して非常に強く好感を抱いた。大学生という一見アイドルの王道ルートから外れた、「一個人としての生き方」を前面に押し出す一方で、それでもなお「アイドル」を自称する。
彼女は「アイドル好き」を公言しない。しかし、「アイドルとしての自分自身」が好きであることは常に公言している。また、「ぶりっ子」「○○キャラ」等の「演じている・作られたキャラクター」であることを指摘されても、必ず否定する。


これが「本当の」アイドルである、と言う気はさらさらないが、彼女のように、「自分は自分」であり、あくまで「一人の人間」であることと、それでもなお「アイドル」であること、その二つを同時に力強く肯定してくれる姿は美しく、ひたすら強い。
我が道を行く。それがアイドル道である。そんな少女、いや、もう少女ではないかもしれないが、そのようなアイドルを応援できることは幸せなのではないだろうか。


彼女も近い将来引退し、結婚するときが来るだろう。しかしその時は少し涙を流しつつ、「おめでとう」と声をかけてあげたい。
嗣永桃子に限らず、世の中のアイドル・アイドルファンがそうあればどんなに幸せだろうか。アイドルを愛する者に幸あれ。