クール・ジャパノロジーの可能性 コンテクストとアイドル

東工大で行われたシンポジウムに行って参りました。



国際シンポジウム 「クール・ジャパノロジーの可能性」3/5
もう一つの日本学−批評、社会学、文化研究

パネリスト
 東浩紀東京工業大学
 宮台真司首都大学東京
 毛利嘉孝東京藝術大学

コメンテイター
 大塚英志神戸芸術工科大学
 ジョナサン・エイブルペンシルバニア州立大学)
 ヘザー・ボーウェン=ストライク(ロヨラ大学)
 シュテフィ・リヒター(ライプツィヒ大学

モデレイター
 クッキ・チュー(シンガポール国立大学


さて、ストライクたんが美人だったとかあずまんが東工大シンポお約束ということで大塚さんやら毛利さんやらに噛み付いていたとかそういうことはさておき、簡単に感想を。

ジョナサン・エイブル氏は「cool」という単語の起源・意味をJAZZ文化に見出し、非政治的・非暴力的なクールジャパンのあり方を模索する。
東氏は動ポモが書かれた意味を、pop cultureの国内・国外での断絶状況を統合する狙いで執筆したと明かす。
ヘザー・ボーウェン=ストライク氏は戦後の日本を「lost&found」という観点から、またシュテフィ・リヒター氏はハイカルチャー主義・日常生活的消費文化・ポストモダン情報サービス社会という枠組みで明治以降の日本を分析、クールジャパン出現の背景を検討した。
宮台氏の発表は流石というべきか非常に説得力のあるもので、1992年以降*1の日本サブカル・史意味論変遷を分析し、日本的サブカルチャーがいかに社会的文脈を無関連化するかを説明した。
少し詳しく説明する。
70年代後半以降、現実の評価の物差しは「自己のホメオスタシスの可能性」がキーワードになり、現実をゲーム化して生きるナンパ系/ゲームをあたかも現実のようにみなすオタク系が出現した。95年のオウムは自己のホメオスタシスのために現実を改変するという顕著な例であり、それ以降は虚構と現実を等価値に置くいわゆるセカイ系/宇野常寛的なバトルロワイヤル系が出現した。
このセカイ系/バトルロワイヤル系の対立はもう15年近く続くものであり、ある意味安定した状態ということができる。この現実と虚構を等価に置き、互いが入れ子構造となっているこの状態は極めて強力な自己維持ツールであり、現実の差異を自己から無関連化するという点で、今日の複雑な社会において実に有効であり、この点においてジャパンポップカルチャーは有用性を持つcoolなものではないのか、と主張した。
一方大塚氏は独特の視点を投げかけた。
日本のアニメ・ゲーム・美意識の根源は、1920年モダニズムの「やんちゃな部分」に現れている。ロシアアバンギャルドプロパガンダ的な)とハリウッド(ディズニー的な)のハイブリッドがその本質であり、ポストモダンとの結びつきには懐疑的である、とした。


さて第二部の討論では、第一部にもまして様々な論点が飛び交い議論は迷走したのだが、個人的に興味深い論点、あるいは「アイドル論」という観点から興味深い点をピックアップしてみたい。

「文化とコンテクスト」について。
第二部では基本的にpop culture=アニメに絞って議論が展開されていたが、日本のpop culrure(アニメ)にはストライク氏・リヒター氏・宮台氏が第一部で説明したように日本独自のコンテクストが存在する。そのコンテクストは他国にも出現しうるのか、またコンテクストから無関係たりうるのか。
司会のクッキ氏を含め、海外の研究者は「アニメ受容は必ずしも、というよりほとんど(アニメ以外の)日本への興味へと結びつかない」と指摘する。彼ら(海外アニメファン)の大多数はアニメ以外の日本文化、つまりコンテクストを理解すること無くアニメを受容していると。
さらに大塚氏は(実際には直接議論がつながっているわけではなかったが)自らの原作作品『多重人格探偵サイコ』を例に挙げ、翻訳したいと連絡してきたアメリカ人とよくよく話をしてみると、彼の多重人格の認識は数々の人格を玉ねぎの皮のように剥いていくと最後にはidentityが残る、というものであり、大塚氏がそんなものはない、と反論すると「ナニソレ、ZEN?サリンジャー??」*2と驚かれ、そこから大塚氏が酒鬼薔薇聖斗が作品のモチーフであるという日本のコンテクストを説明し、アメリカ人は9.11を例にあげてアイデンティティについて反論し、6時間程度話しあったところでお互い納得したという話をしていた。
この話はオタクとしての連帯、identity politics、transnationalなどのキーワードにつながっていくのだが、ここではその話には立ち入らないことにする。

さて宮台氏はここでジャパンポップカルチャーが単に海外で消費されること自体ではなく、その先、「どのように受容されるか」を考える必要もあると指摘する。氏はここで先程の自説を繰り返し、日本的なコンテクストが必要とされている状況、つまり社会的無関連化を望む人々が海外においてもアニメをはじめとする日本的ポップカルチャーを受容しているのではないかと。さらに海外においてアニメを好む人々の中には、(特定はしなかったが)ある社会構造の中で特有の位置(社会的無関連化を望むという意味で)にいるカテゴリの人々が多いという例も挙げていた。

この宮台氏の説に対して、(また違う文脈での話ではあるが)アニメへの動員力について大塚氏が語ったことを見て行きたい。
大塚氏はクリエイターとしての立場、また現在の教員という立場から、「どのような方法論で、多数の人々を動員するアニメを作るか」という観点を提示した。大塚氏によると、第一部でも語られた日本の歴史的文脈、つまりロシアアバンギャルドの「プロパガンダとしてのメディア」や美意識に動員力が秘められているという。ここから「形式」を使った動員がnationalismに利用される危険性へと話は飛ぶのだが、例によってこの方向性は横に置く。
形式、という用語に対して、宮台氏は自らの娘さん(3歳)の話を取り上げ、宮台氏がジブリ作品やウルトラマンを見せてそのイデオロギー・話の背景にある寓話性を教えても、娘さんは特定の「アイテム*3」や「動き」に興味を示すだけである、と語る。つまり視聴者は思想ではなく形式・構造に反応しているだけではないのかと。ここで東氏もそれはいわゆる「動物性」であると加え、また、「形式」というのは表現の方法論であり、そこにはテクニックの積み重ねや歴史があり、その点でのコンテクストは考慮する必要がある、と宮台氏によってまとめられた。

さてここまでの議論を「アイドル」というジャパンポップカルチャーについて当てはめて考えてみたい。海外のアイドルファンは、コンテクストを(無意識の内にでも)理解しているのか。そもそも日本のアイドルファンは、アイドルをどのように受容しているのか。大塚氏・東氏のいうように、アニメと同じく「形式」に動物的に反応しているだけなのか。

4時間にも及ぶシンポジウムの中では、一瞬だけアイドルについて言及されていた。それは司会のクッキ氏によるもので、「日本では人気の無いアイドルが海外では局地的に人気と成っている例もある」とのこと。アジアで大人気のジャニーズや、海外でも日本並の報道が行われたという酒井法子などの例は自分はあまり詳しくないのが残念だが、タイでBerryz工房が謎の人気だったり(まぁタイは様々な海外アイドルが人気なので参考にはならないかもしれないが・・・参考url http://www.machineworks.co.uk/whg/2007/12/berryz8.html http://www.machineworks.co.uk/whg/2010/01/berryz_37.html)という例もある。
ここでアイドルの「コンテクスト」が何を指すのかが難しいが、ルックス・楽曲・ダンスといったマスに受ける要素よりも、「オタク」に受ける要素として、トーク力、さらには「物語性」を挙げることができるだろう。海外のアイドルオタク(果たして彼らがどれほど存在するのか定かではないが)におよそこのようなコンテクストが理解されているとは思えない。海外のファンから見れば、日本人からは見えない特別な「何か」が存在しているのだろうか。シンポジウムではアニメについて言われていたが、海外からの評価を待ちたいと思う。

そして、消費者(あるいはオタク)というのは「形式」を「動物的に」愛す、というメッセージをアイドルというジャンルで明確に打ち出しているのが秋元康AKB48である。
2009年12月25日のHNK 追跡!AtoZでは「アキバアイドルを輸出せよ」と題してAKB48秋元康がクローズアップされた。
http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/list/091205.html
ここでは彼はアイドルをビジネスモデルと捉え、AKB48のシステムを海外にフォーマット販売するという手法を取った。

秋元が取った戦略が「フォーマット販売」だ。フォーマット販売とは、AKB48のアイデアやスタイルを、権利として売る方法だ。(中略)フォーマットの主な内容は以下のようになった。AKB48は「チームA」、「チームK」、「チームB」という3つから成り立つ。これに乗っ取り、定員16人の3チーム制を敷く。3チームの下に研究生を置き、昇格や卒業など、サバイバル競争を行う。制服を着用し、楽曲はすべて秋元康のものを使用する。名前は「○○○48」とする。劇場での公演をベースとした「会いに行けるアイドル」というコンセプトを持つ。

つまり、秋元康はアイドルとは所詮交換可能な商品であり、メディアのバックアップとフォーマットさえあれば肝心のアイドルはどんな素人だろうとかまわない、ということだ。そして残念ながらそれは「握手」というフォーマットさえあればただの合唱曲ですら20万枚を超えるヒットが生まれてしまうという事実によって見事に証明された。

僕たちアイドルファンはこの状況に対してどのような態度をとるべきなのだろうか。
スーパーフラット」を唱え海外に脱出した村上隆は「自分はオタクになりきれないから」と言いながら日本のオタク文化を現代美術と名付け数々の作品を確信犯的に(誤用の意で)生み出し続けている。そしてそのような村上隆に対し、日本のアニメファン・オタクたちは「そんなのオタク文化でもなんでもねえよ!」と反発している。
秋元康はそのような意味では村上隆よりも強力である*4。「アイドル」文化を徹底的にフラットに置き換え破壊し、なおかつ「コンテクストの捏造」を行う。彼はコンテクストの重要性は十分に理解している。おそらく僕が思うに、アイドルとは究極的には「何か頑張っている少女・女の子」である。そこにコンテクスト・物語性・意味が付与されることによって「アイドル」が完成する。ルックス歌唱力ダンス力等は二の次である。つまり秋元康は「アイドルにもっとも重要なコンテクスト・物語性というものはフォーマット(加えて彼自身の思いつき*5)によって簡単に生み出すことができる」と言っているのである。その点で僕はAKB48を好きになれないし、初期のモーニング娘。よりも、プロフェッショナル化した現在の娘。やBerryz工房などのハロプロ勢を好むのだろう。

もちろん、フォーマット・形式のすべてを批判しているわけではない。それらは必要なことだし、大成功しているジャニーズにもハロプロにも「フォーマット」は存在する。第一ビジネスにならなければアイドルは成り立たない。
しかし、アイドルにとっても最も根幹部の「物語性」をフォーマットに落とし込める姿勢は果たしてファン・オタクからして肯定出来るものなのだろうか。秋元康のフォーマット販売による海外進出がこれから成功するかどうかは定かではないが、少なくとも「cool」ではない、と僕は思う。アイドルの持つ身体的な魅力をもっと重視したいし、そしてそこに密接に絡みつく物語の意味を読み込み・作り出す作業はファンの側に残して置いて欲しい、というより最低限の願いではあるが、ファンの側に残してあるようかのように振舞って欲しい・作為を隠蔽して欲しいと願っている。


明日はシンポジウム二日目、村上隆氏を迎えて「日本的未成熟をめぐって」というテーマが設定されている。
未成熟なもの=少女=アイドルという連想が容易に可能であり、どのような議論が交わされるのかこちらもまた非常に興味深い。

*1:宮台氏の著書『サブカルチャー神話解体』が発表されたのが1993年であり、それ以降の分析。

*2:会場大爆笑

*3:宮台氏の娘さん的には剣がお気に入りだとか

*4:ハロプロのプロデューサーのつんく氏もASAYANを始め秋元氏と似たような振る舞いを行うのだが、やはり本業の歌手/作詞家という違いからか、あるいはつんく氏のどこかある意味天才的(論理より発想)な部分、そしてどこか抜けている部分がファンにとって救いでもあるし、もどかしいところでもあるのだ

*5:総選挙・珠理奈追加・最近では峯岸のバク転が「安易な物語」と指摘できるだろう