「グループアイドル」の持つ意味

アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで(双書Zero)

アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで(双書Zero)

2つのアイドル『進化論』

今年の1月の下旬にアイドルに関する書籍が続けざまに刊行された。常にジャニーズの一人勝ちだった男性アイドルはさておき、perfume及びAKB48に引っ張られる形で女性アイドルというシーン全体がここ数年で大きく活性化したことを受けて、現代アイドル評論・批評の下地となるべく1960年代以降のアイドル史を「進化論」としてそれぞれ異なる角度から捉え直したのがこの2冊だった。
『アイドル進化論』が社会学の手法でアイドルと日本文化を丁寧に追うスタイルであり非常に読み応えがあるのに対し、『グループアイドル進化論』は対象を女性グループアイドルに絞り、AKB48ももいろクローバーの2組を軸にして多彩な固有名詞をサーっとさらっていく新書らしい読みやすさを重視した本であった。前者の帯が「前人未到の、アイドルの社会学!」であるのに対して、後者は26組(!?)もの女性アイドルグループ名を列挙し、背面に「アイドル戦国時代を制するのは誰だ!」とキャッチコピーが掲げられているのが象徴的であろう。

たしかに女性アイドルグループの活躍は目覚しいが、後者がなぜ分析対象を女性グループアイドルに絞ったのか、その理由は序文には書かれていない。そして「この一冊がアイドル史を更新する」と宣言した割には現状分析とせいぜい1年先のシーンを予測した程度で、何を「更新」したのか甚だ疑問である。第4章でももいろクローバーについて言及する167pのサブタイトルは「チームが勝つためにはこの6人でなければならない」であるが、本書の読者層の大部分が知っているように、本書の刊行直前に早見あかりももいろクローバーからの脱退を宣言した。アイドルシーンがいかに「現場主義」かつ予測不可能であり、アイドル分析・批評というものが単なる後付けに過ぎないことを皮肉にも強烈に示している。
本書では98pでようやく「なぜグループアイドル全盛時代が来たのか」について述べられている。ここでは音楽シーン全体の問題・作り手の問題という2つの理由が挙げられていて、たしかに記述自体は正しいように思われるが、1つ目の理由の説明の際に2010年11月に刊行された津田大介・松村憲一『未来型サバイバル音楽論』をそのまま引用するなど、非常に薄い考察に終わっている点が非常に気になった。

アイドルとキャラクター

アイドルを語る上で「キャラクター」というキーワードを避けて通ることはできない。例えば東浩紀が提唱したデータベース消費の観点から多人数グループアイドルの利点を説明することはもはや前提となっているし、そこから発展させて、アイドルの受け手・ファンのコミュニケーションによりアイドルのキャラクターを読み込み創造する構造を「AKBのn次元のキャラクター生成システム」とした宇野常寛の指摘は非常に的を得ている。
参考URL:政治と文学の再設定 第3章AKB48とn次創作の現在 http://renzaburo.jp/contents/045-uno/045_main_008.html
ファンによるキャラクター生成という要素自体はAKBに限られたことではなく、有名なところでは2chモーニング娘。専用板など、ネット上のコミュニケーションによって積極的に行われてきた。アイドルのキャラクターとしてのレイヤーを消費するにはグループ内でキャラクターに差異化を図ることが必須である。

アイドルのレイヤーとしてのグループ

キャラクタとしてのレイヤーという言葉を使ったが、アイドルという存在をどのようなレイヤーで区切ることが可能であるかという問いは非常に難しい問題である。仮に本人の層/アイドルとしての層(発信側)/キャラクターとしての層(受け手側)などと3つに区切ってみたところで、本当に「本人としての層」たる確固としたものが人間には存在するのかは疑問であるし、アイドルとしての層/キャラクターとしての層は多様なメディアの中で常に揺れ動くものである。発信する側・受け取る側の二分法はすでに有効性を失い、宇野常寛が指摘したようにAKBが目に見えやすい形で戦略として取り入れていること以外にも、あらゆるアイドルにおいて両者は互いに影響を与え流動的で時に反転するものである。
そこでアイドルを捉える上である程度客観的なレイヤーの区分がある。それがグループというレイヤーである。
例えば嗣永桃子というアイドルを例にして考えてみる。嗣永桃子を説明する際、一般的には「Berryz工房嗣永桃子」と形容されるはずである。もっと詳しく見てみると、ハロープロジェクト - Berryz工房 - 嗣永桃子という3つのレイヤーが想定できるし、ハロープロジェクト - Buono! - 嗣永桃子というユニットのラインも存在する。もう一つ例を挙げるなら柏木由紀はどうだろうか。この場合も一般的には「AKB48柏木由紀」であるが、AKB48 - チームB -柏木由紀というように「チーム」という中間項を挟まれていることは極めて重要であるように思われるし、フレンチ・キス - 柏木由紀というユニットのライン、さらにはビスケットエンターティメント - 柏木由紀という事務所のラインで考えることも可能である。
「ソロアイドル」と言われて現在思い浮かぶのは、グラビアアイドルや女優系を除くと、例えば(かつての)松浦亜弥真野恵里菜、ソロデビューを果たした板野友美などであるが、前者はハロープロジェクトという大きな枠組の中に含まれるし、後者も依然としてAKBの一員である。地下アイドルやライブアイドルと呼ばれる範囲まで目線を広げてみると、やっと小桃音まいなどの名前が挙がる程度である。このようなレイヤーで考えてみると、一般的に女性アイドルとして受容される枠組みの中に純粋な「ソロアイドル」と呼べるアイドルはほとんど居ないといえるのが現在の状況である。

グループというレイヤーが規定するもの

我々が「嗣永桃子」「柏木由紀」という固有名詞を考えたとき、いったい彼女たちが所属するグループ名はどういった意味を持つのだろうか。
大澤真幸は『恋愛の不可能性について』の中で、クリプキの固有名詞に関する議論を恋愛の対象に援用する。固有名詞は確定記述の束には還元できない。我々は「Berryz工房に選ばれなかった℃-ute嗣永桃子」も「8期オーディションに合格したモーニング娘。柏木由紀」も想定することが可能であり、事実ファン同士のコミュニケーションにおいてそのようなやりとりは実際になされている。大澤真幸による愛の対象の唯一性と固有名詞の指示対象における世界の確定という議論の後半部は自分にとって非常に難解であるためここでは深入りはしないが、我々がアイドルについて考えるとき、一般的な愛の困難性より遥かに深い困難性を抱えている。我々は嗣永桃子Berryz工房から切り離して考えることが可能なのだろうか。柏木由紀AKB48から、チームBから切り離して考えることが可能なのだろうか。究極的に言えば、「アイドルをやめた嗣永桃子」を愛することが可能なのだろうか。
アイドルを愛の対象として捉える場合、例えば知り合う機会がない・話す機会が限られる・SEX出来ないといった現実的な障害以外にも、アイドルというレイヤーを取り去った姿を愛せるのかという精神的観念的な巨大な障害が待ち受けている。そもそも「アイドル」という漠然としたレイヤーを取り外す作業自体が非常に難解であることはすでに触れた。そこで、ある程度賢明なファンであれば、同じく大澤真幸が言う「アイロニカルな没入」によってアイドルを愛すようになる。現実的・観念的な障害は今さら指摘されるまでもなく理解した上で、それらの諦念を押し殺した上でアイドルという漠然としたレイヤー(大澤真幸の言い方で言うならば「宇宙」)上で彼女を愛することになる。
「推し」という言葉は非常に便利な言葉である。ジャニーズで言うならば「担当」であるが、これらの言葉は「好き」とも「愛している」とも微妙にずれており、あくまで「アイドル」という存在を好きになっていると自分に言い聞かせると共に、周囲に自分の態度を公言することで仲間内のコミュニケーションの中で自分自身の思いを再強化しふと「アイドルを好きになるなんて馬鹿らしい」と我に返ることを防いでいる。アイドルを好きになる場合は極力一人をあくまで「真剣」に好きになることが好ましく(時にそれは「マジヲタ」と呼ばれる)、複数を好きになる場合(DD)でも順位を確定させなければならないというアイドルヲタク界の規範のようなもの存在するが、アイドルをアイドルとして消費するお約束の世界におけるこういった建前に対しても、「推し」という観念は非常に便利である。
そして、この「推し」という概念の前提となっているのがグループというレイヤーではないだろうか。「ゆきりん推し」と言った場合にはあくまで「AKB48」あるいは「チームB」という上位のカテゴリの中から柏木由紀を「選択」しているのである。ソロアイドルでも、「真野ちゃん推し」と言った場合にはハロープロジェクトの中から真野恵里菜を「選択」している。アイドルを「差異化」するためには「グループ」というカテゴリが必要であるように、「推す」ためにはグループという上位レイヤーの存在が前提として読み込まれているのである。他のアイドルにまったく興味がなく、唯一的に真野恵里菜を愛しているのならば、「推し」という言葉を使う必要は全くないのであり、同時にアイドルへの恋愛の不可能性に正面から打ちのめされる悲劇が待ち受けている。
「箱推し」、あるいはAKBでは「チーム推し」という言葉も存在する。Beyyz工房というグループ全体が好き、チームB全体が好きという意味である。ここまでくるとさらに上位のレイヤーを想定する必要はない(それぞれハロープロジェクトAKB48という上位レイヤーは存在するが)。なぜならば「推し」の対象がすでにアイドル=人間ではなくグループというもっと観念的なものであるため、「愛」の内容自体が変わっているために愛の不可能性自体も問題とならないからである。

アイドルの死と卒業 地下現場のソロアイドル

以前のエントリでも同じようなことを書いたことがある。
アイドルへの甘えと地下現場:http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20101125/1290679695
アイドルをアイドルとして愛すお約束の世界では、アイドルは何かしらのグループなどの上位カテゴリに属していなければならず、したがってアイドルの死=グループからの卒業という図式に繋がってくる。卒業の儀式はアイドルの死を弔う儀式である。完全に引退してくれたのならばまだ諦めはつくかもしれないが、例えばアナウンサーとなった紺野あさ美や、あるいはモーニング娘。からは卒業(脱退)したが引退したわけではない加護亜依を「アイドル」として愛すには非常に大きな困難が待ち受けている。そしてモーニング娘。OB陣が再び「モーニング娘。」の名を取り戻さなければならなかったのも悲劇ではあるが「グループ名」がいかに重要なものであるかを示す一例である。
お約束=現場のコードが弱い地下アイドル・ライブアイドルの世界では先ほど名前を挙げた小桃音まいなどのソロアイドルが多く活躍できているのも理由が見えてくる。「まいにゃ推し」と言った場合に、小桃音まいと共に合同でライブを行う同クラスのライブアイドル群の中から小桃音まいをやはり「選択」しているのである。このクラスのアイドルに対しては、メジャーアイドルに比べて、アイドルが「好き」あるいは「推している」という場合でもアイドル自身に対する思いが強いというよりもファンの行動を含む現場の雰囲気・行動様式が楽しいという意味である場合が多いように思われる。現場のコードが弱いため、時にファンはステージのアイドルに背を向け完全にファン同士のコミュニケーションとしての行動(それは時にヲタ芸と呼ばれる)で盛り上がる。厳し言い方だが、ステージにいるのが大人数のグループアイドルであろうがソロアイドルであろうが関係なく「盛り上がればそれで良い」のである。

代替不可能性

最初に宇野常寛の文章を引いてアイドルのキャラクターがファンのコミュニケーションの場となっている状況を示したが、ライブアイドルシーンではステージ=アイドル自体がコミュニケーションの「場」となっている。どちらもアイドルに対する恋愛(、に近い思い)の不可能性から両極に反転していった結果といえる。そして「グループ」というレイヤーの存在がアイドル界のお約束に対する「アイロニカルな没入」や安全な逃避を促す重要なキーワードであることはすでに述べた。
現在では「ハロヲタ」「AKBヲタ」等の用語が一般的であるように、ファンが自らの帰属意識を特定のアイドルとは別にグループ・事務所・レーベルなどの上位カテゴリに対して置くことも一般的である。「ハロプロだから好き」という感情は、本来であれば逆転しているように見えてアイドルを愛す作法としては決して間違っていない。例えばモーニング娘。はメンバーは変われど代替不可能な物語を紡ぐような、「モーニング娘。」というグループ名自体がなに観念的で特別な意味を持ったものであるように思えた。
12/15 モーニング娘。コンサートツアー2010秋 〜ライバル サバイバル〜 亀井絵里・ジュンジュン・リンリン卒業スペシャル@横浜アリーナ/流れ行く時間と必然性の物語:http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20101215/1292436484
グループというものは、アイドルに対して根源的には代替可能な選択肢の一部であると恋愛の不可能性からの逃げ道を作る一方で、物語としての代替不可能性をつむぐ装置であるのかもしれない。AKB48の持つドラマを作るシステムとしての完成度の高さは今さら指摘するまでもなかろう。

ソロアイドルの困難性

ソロアイドルにおいてもハロープロジェクトなどの逃げ道である上位レイヤーが残されているとはいえ、アイドルと生身の人間という二分論の罠に陥りやすいのがソロアイドルである。松浦亜弥の「非あやや宣言」が典型的だが、真野恵里菜や(ジャンルはやや違えど)平野綾など、「私は私」というアイドル側からの態度にファンが過剰反応あるいは困惑するケースが多々見られる。
2011年3月、ハロプロエッグを卒業したきっかこと吉川友ユニバーサルミュージックからソロデビューを果たす。

吉川友はおなじくユニバーサルミュージックからメジャーデビューするぱすぽ☆と対面し、「ハロプロエッグの事を思い出して仲間がいるって本当に心強かったなぁと思いました」と素直な感想を漏らし、ハロープロジェクトの大先輩ソロアイドル松浦亜弥からは「一人だから大丈夫よ のびのびとやってください」とあっけらかんとしたアドバイスを受けていた。
ソロアイドルには様々な意味で困難が待ち受けていることは間違いない。ファンがアイドルを消費することだけでなく、もちろん大前提としてアイドル本人にもソロアイドルがいかに厳しいものであるのかということを忘れてはならないだろう。ソロアイドルという枠組みの中で、アイドルとファンがどうやって幸せな関係を築いていけるのか、もう一度考える必要があるだろう。

他にもコンセプトとグループ名、地方アイドルとグループ名、AKB・SKE・NMBが表すモノ、AKBN0とは、東京女子流が「東京」を背負う意味などについて考えていたが、それはまたの機会に。

きっかけはYOU!(初回限定盤A)

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