小西彩乃・東京女子流卒業/小西彩乃を愛するということ

2015年12月30日、小西彩乃さんは、2日前に公式サイトでアナウンスされていた、東京女子流を卒業し芸能界を引退することを、自身の名を冠したラジオ番組で自ら語りました。東京女子流の1stシングル『キラリ☆』がBGMとして流れるなか、小西彩乃は「ばいばーい」と軽やかに締め、我々の前から去って行きました。


自分が最初に東京女子流を見たのは2011年の夏、定期公演season2の渋谷gladでした。女子流を知ってからかなり時間がたっていましたが、「満を持して」定期公演を見に行こうと思っていたのをよく覚えています。
女子流がデビューしてからすぐは、「いよいよあのエイベックスが何度目かの波が訪れかけていたアイドル界に参入したか」「5人の(推定)小学生か、なるほど」といった評論家目線で少し距離をおいて眺めていたように思います。また、自身が中高生の頃に活動していたSweetSが好きだったので、「エイベックスがSweetSをもう一度やってくれる存在」として注目していたという、やはり今考えるとかなり舐めた目線での期待は持っていた時期でした。CDを借りてきて、デビュー曲の『キラリ☆』はいいけど『頑張っていつだって信じてる』は当時はかなり落胆したり、『鼓動の秘密』で再評価したり、『Love like candy floss』で(やっぱりSweetSの原曲のほうが良いな・・・)とまた落胆したり。この頃はまだメンバーの顔も個別認識していませんでした。
そんな自分が東京女子流を見に行こうと強く思ったきっかけは、『Limited addiction』のMVでした。いままでの曲とは異なり、明確に新井ひとみ・小西彩乃のツインボーカルをソロで際立たせ、松井寛が手掛ける女子流の音楽性をこれまでになく強く打ち出したLAの虜になり、何度もMVを見返し、メンバーを覚え、初めて見るならちゃんとしたライブで女子流を見たい!とハードルを高く設定して機会を待ちました。
そして訪れたのが、9月の定期公演でした。そこで見た東京女子流は、事前に設定した高いハードルを易々と超えて行きました。そして小西彩乃という一人のメンバーに衝撃を受け、一発で虜になりました。
自分はそれまでアイドルを見てきて、「歌がすごい」という理由でアイドルを好きになったことはなかったし、個々のメンバーを好きになったことももちろんありませんでした。それまでの人生でほとんどまともに音楽を聞いたことがなく、東京女子流が評価されているその音楽性についても、どこどこがルーツだとか、その系譜やその「良さ」がなんなのか、自分はいまでも全く語ることが出来ないです。それ故、例えばハロプロの曲について「フックがある」「脳にくる」と何かわかったようなことを言うことはできても、「まっとうにいい音楽」を「まっとうにいい」と言うことにひどくコンプレックスがありました。アイドルグループのメンバーに対して、「歌がいい」と真正面から評価したり、それが理由で好きになることなど考えられませんでした。しかし、そんな「音楽」や「歌」への無教養からくるコンプレックスを跳ね返してくれたのが小西彩乃でした。
初めて見た定期公演で、それまで「5人の区別が前髪があるかないかでしかわからねえ」とか冗談のように言っていたのが恥ずかしいくらい小西彩乃の歌声の持つパワーは凄まじく、圧倒的なオーラをまとっていました。歌へのスイッチが入った瞬間、一人だけ世界が変わっていく姿を見て、これが歌姫という存在なのか、とひどく納得しました。その日、小西彩乃を愛するアスタライトが生まれました。


東京女子流を見に行きだした頃は、自分は地下アイドルの沼にもどっぷり浸かり込んでいた時期でした。なにかしらのステージスキルを全く感じなくても好きなアイドルはたくさんいたし、物販にお金を落としてコミュニケーションすることが楽しい時期でもありました。しかし、東京女子流に対しては、小西彩乃に対しては、物販に行ったり、なにかコミュニケーションを求めようという気持ちがまったくありませんでした。その頃から自分の中でアイドルに求めるものや楽しみ方が地下/地上という枠組みで二極化が激しく、これほどまでに「歌」というものに衝撃を受けた出会いをしたのならば、ステージ上での神々しさを担保するために、自分の振る舞いも律したほうが絶対に楽しいだろうという気持ちから、コミュニケーションの断絶を自らに誓いました。
ただし一方で小西彩乃さんはそのキャラクターやルックスもかなり自分の好みで、彼女を媒介してヲタクとコミュニケーションしたり、彼女をネット上で「解釈」していくという楽しみ方は「現実」のコミュニケーション断絶とリンクしているかのように増長していきました。彼女たちは決して「アイドル」とは名乗らず、「ダンス&ボーカルグループ」と名乗っていましたが、そんなことはお構いなしに、自分の東京女子流に対する受容形態は2つの極に分裂しつつも極端にアイドル的でした。


楽曲コンプレックスを払拭しつつキャラクターの解釈とステージの神格化という2極で受容し尽くすという東京女子流パラダイスは、しかし、長くは続きませんでした。最後のラジオでも語ったように、小西彩乃は、自身の成長とともに、その最大の武器であった「歌」を失いつつありました。
小西彩乃の歌が不調になってから、自分は東京女子流とどう向き合えば良いのか、東京女子流をどう受け止めれば良いのか全くわからなくなってしまいました。明らかに歌が不調であっても、当時はそれが身体的なものなのか精神的なものなのかもただのファンからすればよくわからず、もちろんそれを直接本人に尋ねるわけにもいかず、「元に戻る」ということがありうるのか、それともそれは「異変」ではなく「変化」なのか、彼女に対して何を望めば良いのかわからず、とにかく苦しく、ただのファンなのに苦しいなどと思っている事自体苦しい、と負のスパイラルに陥っていました。キャラクターを解釈していく遊びとステージの神格化という元々歪んだ2極を楽しむという元々無茶な受容の仕方は、その一方が崩れると、もう一方の受容の仕方に異様な負荷をかけていたように今思います。小西彩乃という存在をキャラクターとして楽しむのではなく、全人格的に肯定してあげたい、その全てを愛してあげたいといつしか思うようになりました。

アイドルを愛するということ。人を愛するということ。いつだって我々は、好きな人、大切な人を愛してあげたいと思っているはずです。ただ、愛というのは難しい。ほんとうに難しい。愛とは何なのか。愛は難しいし、アイドルを愛するということはもっと難しい。普通の人(ここでは「アイドルではない」というくらいの意味で)を愛するときの踏み込み方だって未だによくわからないし、アイドルに対しては果たしてそもそも愛することが可能なのだろうか、などと考え始めるときりがありません。さらにいえば、東京女子流は「アイドル」ですらない(ということになっている)。2015年のはじめに「アーティスト宣言」まで行った東京女子流に対して、昔のように歌に自身が持てない小西彩乃を全人格的に肯定してあげることは果たして愛なのだろうか、それはアイドルとしては「是」とされるとしても、「アーティスト宣言」を行ったものに対してはまったく愛のある態度とはいえないのではないだろうか。

2014年の終わりに秋葉カルチャーズ劇場で隔週で開催された小西彩乃のソロイベントシリーズ『小西の音楽祭』のことは、今でも忘れられません。小西彩乃がソロで徹底的に歌と向き合う姿を、100人ちょっとのファンが息を呑んで見守る、重苦しく、そして幸せな空間。『小西の音楽祭』では小西彩乃がいかに真摯に「歌」というものに向き合っているかをまざまざと見せつけられました。小西彩乃という存在を愛するというのはどういうことなのか、ただそこで小西彩乃の苦しみやその先にある光を共に感じ取ればいいのか、いや、もはや小西彩乃と同化しているかのような、それも一つの愛の形・・・?などとちょっとおかしな世界に入ってしまうような体験でした。ただそこでもう一つ強烈に印象に残っているのは、何回目かの開催で公開収録があった回に、入場待ちの際に書かされたアンケートメッセージを収録中にいくつか選んで会場のファンに読ませるという企画があり、多くが古くからのファンによる慣れ合い半分のメッセージが選ばれる中、まさか自分自身で読まされるとは思ってもみずに書いた「「うえっへっへっへっへ」という笑い方が好きです。」という自分のメッセージが選ばれてしまい、本人にニヤニヤと見つめられる中、前から3列目のあたりに座りながら公開告白をした挙句、「嬉しいです笑、(あなたのこと)覚えますね!」と言われた瞬間、ああそういうことじゃないんだ、むしろ一生覚えないでいてほしかったし、そんなこと言われたくなかったという深い絶望と、愛がどうこうとか言っておきながらそれはそれでものすごいエゴだなというもうひとつ向こう側からくる自分自身への哀しみに襲われたという体験でした。それこそまさに自分勝手に苦しみを共有はおろか同一化の幻想まで抱いていたところに、真っ向から「他者」であることを投げかけられたのは、それこそ「愛」の名のもとに結局は自分勝手な思い込みを彼女に投影しているだけにすぎないと改めて気付かされる出来事でした。


話がいよいよ混迷を極めてきましたが、最初に戻ると、小西彩乃は得意だった歌が思うように歌えなくなり、気持ちの面でも、前に進んでいく東京女子流の足を引っ張りたくないという理由で東京女子流を卒業しました。それをラジオで本人の口からしっかり聞いて、やっぱり小西彩乃は歌に対して人一倍真摯なんだなと納得しやはりそれは彼女の尊敬できるところだなと改めて思いました。小西彩乃が最後の場所として選んだ(?)のがラジオ番組だったというのは、個人的にとても良かったなと思っています。自分はこのラジオ番組が大好きで他のメンバーが代打で登場するまではほぼ毎週かかさず聞いていたし、とにかく声や笑い方が好きでそれを聞けるだけで満足だったし、もちろん彼女のキャラクター的な面白さ・愛らしさを堪能することもでしたし、なによりこのラジオという基本的に一方的な、ほんの少しだけ双方向的なメディアの特質が自分自身の小西彩乃に対する距離感として1番心地よかったからです。

結局のところ彼女の卒業に際して何を言いたかったのかは全然整理できていないし、時間がたっても多分整理できないと思うのですが、「ラジオという距離感が一番心地よい」と言っているような奴がそれでも彼女のことを愛してあげられたのか、自分がいう「愛したい」とはなんなのかをもう一度ぼんやり考えてみると、やはり今回の彼女の決断を尊重してあげるほかないし、これからの長い人生で一人の人間として幸せに暮らしていけるよう、さらにほんの少しだけ欲を言うならば、「歌」というものがこれからも彼女の人生の中で特別なものであり続けられるよう、ささやかな祈りを捧げる、という意味くらいでなら、これからも彼女のことを愛していたいと思います。

ラジオ番組の最後に流れた『キラリ☆』は「物語は永遠に続く」と歌いました。昔はアイドルの紡ぐ幻想や物語ばかり追いかけていたけれど、最近はそんな「物語」に辟易することも多いです。東京女子流の物語はおそらくこれからも続くだろうけど、小西彩乃ばかりおいかけてきた自分には東京女子流の物語はよくわからなくて、強いて言えば新井ひとみの世界の辿り着く先は見てみたいと思うけれど小西の居ない物語が続くことを力強く肯定しようという気分ではあまりないです。もちろん否定するつもりもないです。

ただ、小西彩乃の人生はこれからも間違いなく続きます。愛というよくわからない名のもとに、小西彩乃のこれからの人生にささやかな祈りを捧げるのであれば、ラジオの距離感が心地いいなどと言う奴にとっては、物語という言葉を人生という言葉に積極的に誤読していくくらいのふてぶてしさで、とにかくこれからも続いていくものに祝福をしてあげればいいのかなと、ぼんやりと感じています。とんだ勘違い野郎なので、それくらいの勘違いなら許されるでしょうか。