AKB48選抜総選挙/アイドルの公共性

2012年6月6日に第4回AKB選抜総選挙が行われた。その様子はフジテレビによって午後7時といういわゆるゴールデンタイムに生中継された。メンバーの獲得票数と順位の速報が次々と表示される様子は実際の国政選挙特番さながらであり、AKBが「国民的注目」を浴びていることが番組内でも言及されていた。
それだけに、AKBに対する反発も大きい。昨年の総選挙の時点でも、CDを応募券目当てで複数買いすることの是非や、メンバーを不必要に過酷な状況に追い込むこと、そして格付けすることの是非が議論を呼び、今年もまた同じような糾弾が繰り返されている。また、twitterで津田氏が「別にAKBに恨みはないし、がんばっていただきたいなと思うけど、国民的に大きく報じる話題はほかにもっともっとたくさんありますよねじっさい……。テレビは特に貴重な電波資源使ってるんだし。*1」とAKB総選挙の是非自体への批判ではなく、その取り上げ方に疑問を投げかけていた。この発言をどう捉えるかは別として、AKB総選挙の熱気そのものは認めざるをえない、無視できない存在であることは間違いないようだ。それは「AKBメンバーの顔がわからない」「総選挙なんて興味が無い」などの発言を行うこと自体によってAKBの関係性に巻き込まれてしまう、そのような状況自体への反発がいたるところで見られることからも察することができる。

このような状況では、実際の国政選挙、「大文字の」選挙における投票率の低さや政治的無関心・政治不信という危機と対比して、「実際の選挙でもAKB選挙のようになればいいのになぁ」と素朴な感想を抱く人も多いだろう。また、その裏返しとして、AKBというサブカルチャーを実際の政治と並列に扱うのはけしからん、という指摘ももっともである。
良くも悪くも「AKBと選挙(or政治)」に大きな注目が集まる中、両者の関係を正面から捉えて考えていこうと試みる専門家・知識人が出現しても全くおかしくはないだろう。その中の一人が、情報環境学者の濱野智史氏である。彼は5月31日の朝日新聞「論壇時評」にて、「AKB的「劇場」を政治に」という題でAKB総選挙について「そこには、今この政治低迷にあえぐ日本社会を突破するための、重要なヒントが隠されているように思われる」と述べている。AKBの徹底した「現場主義」を例に上げ、日本の政治に求められているのはこの「劇場」のような場であり、リアルの現場とネットの対話ツールを組み合わせて、スモールスタートを実践し政治家と民衆の間に長期的な信頼関係を取り戻さねばならない、というのが氏の主張だ。この主張には大きな問題点があると思われるが、ひとまずそれは横に置いておこう。また、濱野氏の盟友(?)である評論家の宇野常寛氏も、著書『リトル・ピープルの時代』でも主題となっていた「政治と文学」というテーマに関して、AKBにおける消費形態や「システム」を、現実の選挙制度改革や新しい社会運動のヒントとみなす試みについてたびたび言及している。その第一歩が2011年12月に発売された雑誌『前夜』に掲載された「敦子と優子と僕らの民主主義」であろう。他にも宇野氏はかつて「「祭り」「炎上」(コミュニケーションのためのコミュニケーションの連鎖)のネタが平和なサブカル大国日本だと「初音ミク」のブレイクになり、チュニジアだと独裁政権批判、英だと商店襲撃になり、米だとウォール街占拠になる。つまりそれぞれの社会において「ネタ」が異なっているに過ぎない。*2」というツイートを行なっているが、ここでいう「祭り」は今回のAKB選抜総選挙そのものであろう。宇野氏がAKBと大文字の政治を地続きで捉えていることに異論はないと思われる。

この点について、思想家・評論家の東浩紀氏はかつて宇野・濱野氏に「キャラの力を使って政治に関心をもってもらおう、という話ではダメ」という指摘を行ったことがある。

Togetter:「濱野智史AKB48論を発端とする、東浩紀宇野常寛の平行線上の議論。」
http://togetter.com/li/231197

東氏のこの指摘が宇野・濱野氏の構想へのまっとうな批判として成立していたかと問われると否であるが、それでもやはり直感的に「AKBと政治を直接並べて語るのは安易ではないか」と感じることまでは否めない。そこで、AKBを政治/選挙と並べて語る際の問題点について、もう少し注意深く見ていきたいと思う。

その際に補助線にしたいのが、5月の文学フリマにて頒布したアイドル評論同人誌『アイドル領域vol.4』に寄稿した「ネット社会をサバイブするプラットフォーム・アイドル」という論考である。この論考では、2000年以降、インターネット等のICT技術の発展によって、ファン/アイドル/運営の間で行われるコミュニケーションのあり方の変化とそれに伴うアイドルのあり方の変化にともなって、アイドルの成立基盤そのものに危機が生じている状態を示し、それを乗り越えるための3者のふるまいや、テレビ・映画といった旧来のメディアにおけるアイドル像の変化を指摘した。そして、アイドルを巡る様々な「システム」がプラットフォームとして広くファンに開かれていること、そして個々のアイドル自身が多様なファンの欲望を引き受けるプラットフォームとして機能していること、という「二重のプラットフォーム化」について論じたものである。当論考については骨太のレビューを頂いたのでそちらを参照していただければ幸いである。

ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム - Hello, How Low? (id:ima-inat / @katatemaru)
http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20120525/1337920038

まず第一に、AKBの「システム」について見ていこう。論考ではこの「システム」は「ファン/アイドル/運営のコミュニケーションを生み出す、アイドルの成立基盤となるプラットフォーム」として捉えており、狭義ではgoogle+などのアーキテクチャ、広義ではテレビドラマや映画などのコンテンツを含む概念を指している。「システム」という言葉はAKBを語る上で頻出の用語である。この「システム」は今回のAKB総選挙に代表されるように、機能的で、普遍的なものとして捉えられる傾向にある。経済学者がAKBを経済学の観点から語るときも、AKBを「システム」としてマクロな視点からその機能面に注目していた。2010年にAKB48グッドデザイン賞にノミネートされた時も、多くの人にとってなんとなく頷ける話であったのではないだろうか。
AKBを政治と並列して語るとき、このAKBの「システム」が実際の選挙制度という「システム」のヒントとなる、という発想はごく自然なものである。宇野氏のAKBへの関心も(ファンとしての個人的な感情とは別にして)この点にあると思われる。だが、AKBおよびアイドルの「システム」とは、果たして選挙/政治へのヒントとなるような普遍的なものなのだろうか。
このAKBの「システム」を普遍的なものとしてみなす際には大きな注意を払わなければならない。この「普遍」という概念は、時間軸での普遍、空間としての普遍という側面がある。例えばAKBのシステムについて、宇野氏はAKB48前田敦子が卒業した際に「第二・第三の前田敦子が出てくるような、才能がある子を拾い上げるシステムによって、ある種のスポーツ文化のようにAKBが定着するかどうかのターニングポイントとなる」と語っている。このように、AKB48はまだ発足してから10年も経過しておらず、「システム」と呼べるような巨大な集団となったのはここ数年でしか無いことに注意しなければならない。
空間としての普遍という観点からは、さらなる注意が必要であるように思われる。宇野氏はAKBを「ゲーム」であるとたびたび表現し、実際にファンがAKBというゲームに参加することに面白さがあると述べている。この指摘はある部分までは正しいだろう。論考でも述べたように、AKBファンはSNS2ちゃんねるtwitter、そして握手会などの「現場」でも濃密なコミュニケーションを日々繰り広げており、リアル/ネット、リアル/コンテンツ、あるいはアイドル/ファンという境界を超え相互にオーバーライドしながらアイドルの巡る空間を日々更新してく。だが、このゲームの土台となるプラットフォーム空間は果たしてどこからどこまでが想定されているのだろうか。
確かに、AKBを巡る「ゲーム」を駆動するのは主にネット上で行われる熱心なファンのやり取りである。今回の選抜総選挙でも、それぞれのメンバーのファンはネット上を中心にコミュニケーションを取り合い「選挙対策」を行なっていた。SKEが選抜に大量のメンバーが送り込まれたのも、このSKEファンが「選挙対策」を綿密に行なってきた結果だとも言われている。だが、AKBのファンが全てネット上でこのようなコミュニケーションをとっているかといわれると、もちろんそうではない。確かにAKBファンの多くは若い男性であると思われるが、もちろん女性のファンも多いし、もっとライトな層に目を向ければ、実に様々なファンが存在しているはずだ。このファンのグラデーションがどこまで意識されて「システム」あるいは「プラットフォーム」に取り込まれているものとして語られているのか、注意すべきだろう。宇野氏はしばしば「テレビはネット上のファンのコミュニケーションのブースターにすぎない」と述べる。しかしこれはなにか重要な点を見過ごしている、あるいは見ないふりをしているのではないだろうか。総選挙という「システム」を駆動しているのは一部のファンにすぎないということを。自発的にアクセスしなければ情報を得られないネットと違って、テレビのような受動的なメディアでAKBを楽しむという古典的なアイドル受容体験をしているファンの存在は、決して無視できないものである。それは今回フジテレビが生中継を行ったことに端的に示されている。
アイドルの「システム」あるいはプラットフォームを考えるということは、すなわちアイドルの公共性を考えることでもある。前述の津田氏のツイートの「テレビは特に貴重な電波資源使ってるんだし。」という指摘はこの公共性、つまり政治に関わる問題である。AKBは政治と接続して語られるだけの「公共性」を兼ね備えているのだろうか。
これは実に難しい問題である。もちろん、AKBに公共性などはなから存在しないと切り捨てるのは簡単だ。しかし、既にAKBが我々の生活において無視しようと思っても無視できないほどに巨大なものである事は否定出来ない。だが一方で、ゴールデンタイムに全国放送の民放局のゴールデンタイムに特番が組まれたからといって、それがすなわち公共性をもつものだと断定することももちろんできないことも、現代ではもはや自明である。つまりここで必要なのは、テレビ/ネットあるいはリアル/ネットといった単純な対立で「公共性」について論じるのではなく、また、AKBという「システム」あるいはプラットフォームが一体どれほどの人々に影響を与え駆動しているものなのかという問題にもこの単純な対立を前提に考えてはならないということだ。
もちろんアイドルが公共の目的のために成り立っているものではないということは誰しも理解している。だが、ここでAKBの「システム」あるいはプラットフォームがどこまでの母集団を想定しているのか、またその母集団の中でどの層がシステムを駆動する意思決定を行なっているのかという問題を整理することで、「ステークホルダー・デモクラシー」と呼ばれる政治論と接続することが可能かもしれない。

ステークホルダー・デモクラシーの可能性
http://www.policyspace.com/2010/09/post_736.php

そもそも私たちは、みな何らかの問題についてステークホルダーなのだから、利益政治や利害関係者による政治そのものを否定できないし、否定する必要もない。曖昧で一体性のない「民意」なるものを忖度する政治よりも、多様であるが個別に明確な利害関係者の意思に基づきつつ、個別に合意形成を探りながら問題を解決していく方が、デモクラシーの機能を高めることには役立つだろう。
 このような認識に立つなら、ステークホルダーを中心とする決定を可能にする「ステークホルダー・デモクラシー(利害関係者民主政:SHD)」の実現が目指されることになる。ステークホルダー・デモクラシーとは、治者と被治者の同一性の実現を追求するため、狭義の政治的決定のみならず社会内のあらゆる決定について、当該決定から影響を被り得る全ての利害関係者の参加可能性をできるだけ拡大しようとする民主政モデルである。
 ステークホルダー・デモクラシーの可能性と課題はどこに見出されるだろうか。私たちは社会内の全てのイシューに利害関心を持つわけではないし、利害関心の程度も人それぞれに異なっている。自分が関心を持っていないイシューについては、政治的決定から退出する自由が認められてよいし、より強い関心を持っている人にはより強い政治的影響力が認められてもよいのではないか。人々の利害関心の分布は行政区分やメンバーシップと一致しているわけではないから、イシューごとに異なるステークホルダーたちによる合意形成に基づく決定が為されるなら、既存の境界線を超えた政治が可能になるかもしれない。

ステークホルダー・デモクラシーのあり得る形については、交渉や討議の過程で生じる学習効果や選好の変容が生じる可能性を重視して、単純な費用便益分析だけでは決定を導けない多様なリスクを伴う公共的決定をステークホルダーによる「熟議(deliberation)」に基づかせようとする熟議的解釈と [19]、利害関係を数量化可能で電子的に処理できるものと捉え、例えば政策課題ごとにその度ごとの電子投票を行うなどして最適な解決を導こうとする数理的解釈との2種類が存在する

2つめの引用文中における2種類の解釈を合わせたものが東浩紀氏の一般意志2.0モデルに近いものであると言えるかもしれない。余談だが、宇野氏が政治について討論番組で語った際にも、(東氏と決定的な対立にありながら)この一般意志2.0モデルが認識の前提になっていたようにも感じた。


では第二のプラットフォームに関する問題に移ろう。アイドル個人としてのプラットフォームについてである。
アイドルという存在は、ファンによる多様な解釈によって「キャラ」が変容し、分岐していく。このキャラクターの分岐という特徴に関しては、かつて濱野氏が初音ミクを題材にして、政治との接続を論じたことでも有名である。

初音ミク出馬せよ、について
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20091213/1260722698

しかし、前述のtogetterで東氏が「アイドルは分岐しませんからね。」と指摘しているように、これは至極まっとうな批判である。ここでは東氏、濱野氏ともに正しく、共に間違っているというべきだと思われる。濱野氏がいうように、アイドルのキャラクター解釈はファンの手で様々に分岐していく。しかし、東氏が言うように、アイドルはキャラクターと違って人間であり、当たり前であるがその身体はひとつである。つまり、アイドルは複数のキャラクター解釈=ファンによる欲望を許容し、時にはそのキャラクターをフィードバックしつつ、ひとつの身体でそれらの欲望を受け入れるプラットフォームとして機能しているのだ。この点については『アイドル領域vol.4』の論考において詳しく述べた点でもある。
この点を考慮すると、AKBによる政治という発想は、初音ミクによる政治という発想から後退している点を認めざるをえないだろう。つまり、初音ミクにおいては彼女の身体はバーチャル的なものであり、無限分岐することでそれぞれの初音ミクが政治決定におけるワン・イシューに相当することが可能であった。一つ一つの政策ごとに投票を行い意思決定するという発想に結びつくものだ。
だが、AKBではそうはいかない。論考ではファンによって行われる無限の解釈とそれらを引き受ける一つの身体というアンビバレントな特徴がアイドルの困難であり同時に面白さであると述べたが、政治のシステムに「面白さ」は求められていない。ここではAKB総選挙における面白さにもつながってくる。それぞれのメンバーのファンは、確かに他のファンとコミュニケーションを取りながら「選挙対策」を行い組織的に応援するメンバーの順位を押し上げたかもしれない。しかし、根本的にそれぞれのファンが特定のメンバーを応援する理由は異なるし、彼女が好きな理由も異なる。ファンは応援するアイドルの見たい部分だけを見て、都合がいいように解釈した彼女を応援するために票を投じる。だが、結果として現れるのはそれぞれの思いが「1票」という平等な形式によって積み重なって、それぞれの解釈によって立ち現れるアイドル像ではなく、一つの身体それ自身に票が集約されるのだ。例えが悪いかもしれないが、一番票を多く入れた人とアイドルが付き合えるわけでもないし、そのファンが思う通りの芸能活動を行ってくれるわけでもない。
この矛盾は総選挙という「ゲーム」の面白さとして重要なものだが、これを選挙制度として見ると完全な欠陥である。なんのために意思表示をしたのかがわからないし、間接選挙を行う意味もない。目的と手段が逆転しているのだ*3
また、この問題はネット選挙を考える上で避けては通れない問題を内包している。アメリカの市民政治団体「ムーブオン」理事会長のイーライ・パリサーは、著書『閉じこもるインターネット』でgoogleFacebookの影響で、インターネットがパーソナライゼーションとフィルターバブルによって公共性・普遍性を失い、ユーザーの見たいものを映す偏狭なものに変化しつつあると警告している。彼はこのパーソナライゼーションがネットの政治広告あるいは政治自体にも影響を及ぼし、個別の投票者に対して彼が興味のある細かい論点のみが提示されるようになり、公開の討論が行われなくなると予測している。アイドルという「ファンが見たいものを見たいように映す・解釈される」存在を政治と結びつけて語るとするならば、パーソナライゼーションとフィルタリングの問題、つまりここでも公共性について深く注意を払わなければならないだろう。
だが、ここで濱野氏は「でも、初音ミクでもAKBでもいいのですが、キャラクラシー/アイドルクラシーに可能性が少しでもあるとすれば、それは意見の変容が起きやすい点にある。ニコ動のタグなり、エケペディアのリンクなりを辿っていくうちに、自分の感覚が書き換えられていく。熟議ではない自己変容の可能性。*4」と述べている。もしアイドルに政治のヒントがあるならば、ここに挙げた観点を突き詰めていくことで、伝統的な熟議や公共性といったキーワードをバージョンアップさせる発想の手がかりとなるのかもしれない。これはもちろん前述の一般意志2.0の概念に繋がるものであろう。


アイドルというのは実に多様的な概念で、様々な切り口から薄く刀をいれるだけであらゆる概念と似たものが浮かび上がってくる。政治、宗教、経済、精神分析、スポーツ、いくらでも挙げることができる。だが、表層をなめて類似を指摘し喜ぶだけでなく、アイドルを何かと結びつけて語ることで本当に実りのある議論を行いたいのであれば、アイドルそのものを注意深く観察する必要がある。ファンの情念や実存を捨象し「システム」の機能だけを取り出すのではなく、アイドルを巡る様々な運動がどのような問題点を孕んでいるのかを慎重に見極めなくてはならない。
しかし、そういった「アイドル語り」の様相を角度を変えて見てみると、それこそアイドルが多様な観点から語られるということ自体もアイドルの魅力の一つであると思うし、それはときに「物語」と呼ばれるものに近づいていく。「物語」と「公共性」は一見相容れないように思える。しかし、アイドルを複数の物語を許容するという意味での「システム」そしてプラットフォームと見るのであれば、そこからわずかに「公共性」について見えてくるものがあるのかもしれない。

このエントリがアイドル(AKB)と政治を本気で接続する議論の叩き台となれば幸いである。

アイドル領域Vol.4

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閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

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一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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*1:https://twitter.com/tsuda/status/210265622502842368

*2:https://twitter.com/wakusei2nd/status/147928973010141184

*3:目的と手段が逆転している、つまりここでアイドルへの愛が何よりも先に存在することでアイドルというプラットフォームが成り立っている、というのが『アイドル領域vol.4』で行った指摘である

*4:https://twitter.com/hamano_satoshi/statuses/149557861834424320