つんく♂的「萌え」再考/アイドルと萌えと譜久村聖

『もしも…』

ブスにならない哲学(初回生産限定盤A)(DVD付)

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ハロープロジェクトが全員集合したモベキマスブスにならない哲学』初回限定盤A及び通常盤のカップリングとして収録された『もしも…』は、モベキマス各グループから一人ずつ選ばれた5人の選抜メンバーによって歌われている。そのメンバーとは、berryz工房嗣永桃子℃-ute中島早貴真野恵里菜スマイレージ和田彩花、そしてモーニング娘。譜久村聖である。
メンバーの選ばれ方、パート割、歌詞や曲の雰囲気から察するに、この曲は譜久村聖のために作られた曲である。

つんく♂オフィシャルウェブサイト
http://www.tsunku.net/pw_Music.php

CW「もしも・・・」はモベキマスの選抜メンバーで歌いました。
譜久村 嗣永 中島 真野 和田です。
メロも可愛く、歌詞もリアリティ型なのでちょっとほんわかタイプを抜粋して歌ってもらってます。

"ほんわかタイプ"と形容されているが、とてもほんわかとはいえない個性的なメンバーが揃っている。とくに嗣永・中島・和田は声そのものに特徴があり、甘く甘く歌っても嫌らしくならない。嗣永は2番目にクレジットされているが、キャリア・実力からしても実質この選抜のリーダーであり、不安定になりがちな歌唱のまとめ役にもなっている。嗣永をバランサーとして、普段自らが所属するユニットではなかなかパートがもらえない中島・和田が自由に羽を伸ばしている。真野はソロのため自動的に選抜となるが、なんとこの『もしも...』では真野のソロパートはほとんど用意されておらず、台詞に特化している。そして最後に残されたのがモーニング娘。9期メンバー、譜久村である。音域がやや低いのともともと歌唱力に優れているわけではないが、きわめて重要なパートを任されている。
この『もしも...』において「萌え」というキーワードが意識されていることはほぼ間違いがない。であるならば、モーニング娘。からは道重さゆみが選抜されてもおかしくはなかったはずだ。なぜ譜久村だったのだろうか。それは、ハロープロジェクトにおいてつんく♂の「萌え」を体現するのが譜久村という存在そのものであったからだ。

譜久村聖と「萌え」


NASAの研究によるとこのショットはかなり危険ということですが、処方せん的には「モエツキール」ということです。では、降臨。後ろのチラも必見。 http://t.co/loe96uwsFri Dec 09 15:14:54 via TweetDeck



順番に並んで〜押さないで〜って言ったのにぃ〜。RT @tsunkuboy: では、順番に並んでください。決して人に配ったりしたらダメですよ。押し合いへし合いにならぬように。では降臨「モエチギレール」 http://t.co/xxvdKjvKThu Dec 08 03:08:04 via TweetDeck



では、処方します。「プチモエール」行きまぁ〜す! http://t.co/Q5YFRzLg http://t.co/EpyQmv5kThu Dec 08 02:38:45 via TweetDeck



では、近大到着記念、「萌えシヌール」写真、降臨。R20指定。 #morningmusume http://t.co/Z1FaJ5NsFri Dec 02 02:36:42 via TweetDeck

「萌え」というキーワードは以上のツイートを見ればわかるようにつんく♂のブームである。つんく♂twitter上でアップロードする写真にはモーニング娘。9期・10期メンバーが多く登場し、特に譜久村聖鞘師里保がお気に入りのようである。QuickJapan vol.98のつんく♂インタビューでも「萌え」が言及され、Tokyo MXで放送中の「つんつべ」はまさにアイドルと秋葉原的な意匠にあふれた「萌え」がフィーチャーされたテレビ番組だ。そんなつんく♂が自身の「萌え」への思いをハロープロジェクトという非常に豪華な食材を使って作り出したのが『もしも...』であり、その中心に譜久村聖が置かれていることの意味を勝手に読み込んでいくことにしよう。

「萌え」は死んだ?

そもそも、なぜ2011年の今「萌え」なのだろうか。「萌え」の起源・歴史・用法の変化などを詳細に論ずるのは他所に譲るとして、簡潔にまとめよう。「萌え」はアニメ・ゲーム等のヲタク文化だけのものでなく、00年代後半からメディアにより一般的に浸透した。本来ヲタク文化の中ですら「萌え」への拒否反応は強く、外部から「ヲタクのもの」として侮蔑的なレッテルを貼られるだけでなく、内部からも反発される。今や「萌え」を純粋に叫ぶ勇気・鈍感さを持ち合わせている人々はほぼ存在しない。「萌え」は死んだのだ。
しかし、秋葉原的ヲタクブームがかげりを見せ始め、アイドルという隣接ジャンルではAKB48が「秋葉原」の名を冠していながらアニメ・ゲーム的な「秋葉原」の意匠を取り込むことなく、よりフラットな「AKB」というジャンルを作り出しアイドル界の標準化競争に勝利したのに対し、つんく♂はそのような流れをまるっきり無視して"古きよき"秋葉・ヲタク文化な「萌え」を能天気に叫んでいるように思える。

つんく♂的「萌え」

つんくの「萌え」は"10年遅い"のだろうか。ただでさえ物議を醸す「萌え」というキーワードをなんの思慮もなく使用しているかのような彼の態度に、そのような批判は多い。
しかし、「萌え」は違うだろう・・・と思う一方で、どこか説明できない魅力をつんく♂がいう「萌え」に感じ取っている人も多いのではないだろうか。思い返せば、つんく♂は「萌え」以外にもいくつかのキーワード・概念をハロープロジェクトに持ち込み、物議を醸してきた。「ロック」はその最たるものだろう。だが、反発も大きい一方で、全盛期に比べれば数字や勢いは落ちたものの今なおハロープロジェクトが存続し、さらにこれから盛り返しをファンに期待させるような存在であるのは、つんく♂の感性がそれなりにファンの心をつかんでいる証拠であろう。
「萌え」に関しても同じである。もちろん素直につんくの「萌え」を喜んで受容できる人もいるだろうし、「萌え」というキーワードそのもの、あるいはつんくのいう「萌え」の現れ方に反発心や違和感を感じていても、その結果われわれの前に提示されたハロープロジェクトのアイドルたちや作品に魅力を感じてしまう。
そもそもハロープロジェクトのファンたちはつんく♂に対して屈折した感情を抱いていることが多い。自分たちが大好きなハロープロジェクトの運命を握っている(ように見える)のに、「思いつき」でそれをぶち壊してしまう。一方で、時々信じられないようなパンチを繰り出してきて、その魅力にノックダウンさせられてしまう。どちらの意味でも思い通り・期待通りにいかず、悔しい、けど憎めない。それが高じて、「曲名のがっかり感が高いときほど名曲」というネタ半分本気半分の経験則が生み出されるように、つんく♂の思惑とのは少し外れたところに対して魅力を読み込んでいくという、「ズレを楽しむ」作法が共有されている。
今回の「萌え」も同じであり、「萌え」というキーワードをストレートに受容することはできないが、「つんく♂的萌え」というかっこつきの概念の受容、あるいは「再解釈」により魅力を存分に感じ取っているのではないだろうか。

つんく♂というアイドル

つんく♂の思惑を再解釈するという作法は、そもそも我々がアイドルに対して行っている読み込みの作法に共通する点が多い。アイドル概念を取り巻く構図は複雑で、事務所やプロデュース側の戦略などの環境的要素と、アイドル本人の自意識・容姿・言動等の内在的要素が絡み合い、それをファンが勝手に受容・解釈している。いくらアイドルが「キャラクター」を作っていたとしても、ファンが些細な情報から別のキャラクターとして受容することもあるし、キャラクターの裏にある「ありのままのアイドルの姿」という幻想を勝手に読み込むこともざらである。
ここではいままでつんく♂ハロープロジェクトのプロデューサーとして扱ってきたが、つんく♂本人は一流のアーティストである。さらにいえば、ハロープロジェクトのファンは、つんく♂のプロデューサーとしての手腕を評価する際に、未来を見通す力や綿密な戦略を期待してるのではなく、良くも悪くも想定外のところに着地する点に身を任せたいという怖いもの見たさの期待を含んでいるのではないだろうか。アーティストとして作詞作曲を行うことへの評価も、代わり映えのない「つんく節」や洗練されていない歌詞にうんざりしつつ、諦めかけたころにやってくる想定を超えた作品への期待が含まれている。アーティストとして成功し、アイドルプロデューサーとして成功し、ゲームプロデュース(リズム天国)にも成功してしまう、そういう説明不可能な天性の才能に信頼を置いているのだ。
AKB48秋元康が作詞家・構成作家という分野で成功し、先を見通す能力・戦略性・消費者の欲望を見抜く能力がずば抜けているのと対照的である。
ファンはつんく♂より優位な立ち位置にいる一方で心の奥底で無条件的な崇拝を同時に持ち合わせている。つんく♂の思惑をアイドルを通じて再解釈し、つんく♂自身ををキャラクター化する。つまり、つんく♂自身がアイドル的に受容されている。そうやってハロープロジェクトは愛され、つんく♂は愛されてきたのだ。

アイドルに寄り添う「萌え」

話を「萌え」に戻そう。
いまなお「萌え」というキーワードへの心理的抵抗は大きいとはいえ、実質的に「萌え」という単語が死んでしまったため、「ロック」に比べると抵抗は薄くなる。つんく♂への崇拝や愛を背景にして、カッコつきの「つんく♂的萌え」としてそこで示されている対象の魅力が好意的に再解釈され、トラディショナルな「萌え」とは違う新しい意味を読み込んでいくことも容易に行うことができる。
ここで従来の「萌え」と「つんく♂的萌え」の差異に注目してみたい。従来の「萌え」は正確には「萌え〜」という感動詞的用法の側面が強く、対象への言語化できない感情を表現するものであったが、その後「萌え」のバリエーションが広がり、名詞・形容詞的な用法も多く見られるようになった。そしてつんく♂による「萌え」は、漠然としたイメージだが後者の名詞形容詞的な用法(例:「これは"萌え"ですね〜」「彼女には"萌え"がある」)が多いように思われる。これはヲタクの萌え/一般人の萌えという分類に当てはめることができるかもしれない。
先ほどから「萌えは死んだ」と宣言しているのは、「ブヒる」という単語の出現によるものである。「ブヒる」は本来の意味を失い「言葉狩り」状態にあった「萌え」に変わる単語であり、自らを家畜に例えたものである。「ブヒる」は伝統的な感動詞的用法に近い感情の発露を表す動詞として使用されているものである。また、東浩紀の「動物化」概念をわざわざ持ち出すのが憚られるほど端的にヲタクの動物化を自虐的に表現したものだ。
ここで重要なのは、「ブヒる」がキャラクターの表層的・記号的な部分に先鋭化して反応してしまうこと自覚的であることである。つまり、伝統的なヲタク文化の「萌え」は「ブヒる」に取って代わったが、表層的であからさまな記号への反応に先鋭化した「ブヒる」ではややカバーし辛い、身体性やゆらぎをもったアイドルの魅力を表すのに「萌え」を再び持ってきて再解釈し新たな意味づけを行うのはそれなりに有意義な試みではないだろうか。アイドルに対して「ブヒる」ことに抵抗があるならば、形容詞・名詞的な意味を持った「つんく♂的萌え」を許容すればよいのである。アイドルに対して動物的に反応してしまう自意識の解放に身を任せ、なおかつ自虐的に「ブヒる」ことでささやかな反省のそぶりをみせるのは非常に心地よい。いまつんく♂の「萌え」を許容することは、「萌え」というキーワードそのものへの抵抗感を乗り越える勇気は、アイドルという対象、人間相手にすこしでも寄り添おうとする勇気へと接続されていくのだ。

ハロプロの「萌え」

「つんつべ」を見ていると、つんく♂がアイドルでやりたかったことやつんくの純粋な「萌え」のありようが見えてくる。つんつべ・ナイスガールプロジェクト・ハロープロジェクトを並べてみるとわかりやすいかもしれないが、3つの底に共通に流れている「つんく♂イズム」が読み取れる一方、つんく♂のかかわり具合やプロジェクトの規模、商業的思惑などによってアイドルの表れ方がまったく異なっている。
誤解を恐れずにいうなら、一番つんく♂が自由にやりたいことをやっている「つんつべ」がつんく♂的萌えの「ダメ」なところを一手に引き受けている。地下、地上という比喩で捉えてもいいが、アイドル(バックステージ候補生)のルックス・雰囲気・構造など、様々な点で「ダメ」なのは間違いない。ただ「ダメ」は決して悪いことではなく、「ダメ」具合を愛する人、その中にある輝きを見つけるのが好きな人、つんく♂の一番深いところを味わいたい人などが必ず存在する。
しかし、「萌え」を含めてつんく♂の感性はやはりハロープロジェクトという枠の中でもっとも人々を惹きつける力を発揮する。何千・何万人の中から選ばれ、鍛錬を重ねるプロフェッショナルな集団に所属するアイドルたちは、全員がどこか言葉では説明できないオーラ・魅力を持ち合わせている。そういう集団が、企業として大前提となる商業的利益の追求を求められ、さまざまな制約がある中でつんく♂が「萌え」を持ち出したとき、時に奇跡的なバランスが成立し、受け手の解釈を通じてそこにマスターピースがたち現れるのである。

再度・譜久村聖の「萌え」

最後にもう一度譜久村聖に戻ろう。
今年の初め、譜久村聖モーニング娘。に加入したとき、つんくは譜久村の「色気」を評価していた。ハロプロエッグ時代から譜久村の色気のある魅力はファンの間で共有されており、加入後は『LOVEマシーン』の「み・だ・ら〜♪」という有名なパートを譜久村が任されていることからも譜久村へのそのような期待が読み取れる。

参考:モーニング娘。9期メンバー発表/譜久村聖を<消費>しない覚悟
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20110102/1293990782

そして、「萌え」や「ブヒる」という言葉を考えるならば、お色気要素は避けて通れない。「ブヒる」であればあざといエロ演出に反応するのに幾分適しているといえるが、「萌え」によるエロの扱いはきわめて繊細である。決してエロを拒んでいるわけではない、しかしエロが前面に押し出されているわけでもない。それはまさに身体性という生々しさの中に、聖なる可愛さと性的魅力を同時に孕んでいるアイドルにとっても同じである。ファンはアイドルに対して性的魅力だけをもとめているのではない。だからといって、それは確実に存在するし、自ら目をつぶっているわけではない。
特に譜久村聖は年齢と体つきのギャップから性的魅力が強調されがちであるが、それを彼女自身の言動やハロプロTIMEなどの私服姿から如実に感じ取ることができる上品さで包み隠し奥ゆかしさにあふれている点がまた魅力的である。同性愛的ともアイドルヲタ的とも取れる振る舞いも、上品さとエロに加えもうひとつ別のベクトルに魅力を引き出すものである。
このように、繊細なお色気要素を含み持つようなアイドルの魅力を表す形容詞をひとつ示すならば、やはりそれは「萌え」なのだろう。そのように解釈された「つんく♂的萌え」の完成系、それが譜久村聖なのだ。