アイドルへの甘えと地下現場

朝礼

朝礼

11月21日はオトメ☆コーポレーションのLIVEに行った。「Apple Bayside Party -SP- Vol.3 presented by mero.jp」場所は赤坂、L@Nakasaka。
この日もオトメ☆コーポレーションがいかに素晴らしかったかを延々と書き尽くしても良いのだが、印象的な出来事があって色々考えることがあったのでそのことについてうだうだと書いてみたい。

この規模のいわゆる地下アイドル(最近この用語の使い方がとても難しいと感じていて、あまり使いたくないが)数組が合同で行う方式のLIVEイベントに行ったのはこれで2回目だった。1回目は初台の「ミ★主催LIVE PoP"n" Jam!! -cinq(サンク)-」。この時はSODA☆POPの幸咲よつばのラストライブであり「卒業」セレモニーがあり、今回はAppleTaleの伊藤朱里の「卒業」ライブがあった。オトメ☆コーポレーションを目当てにライブに行ったらなんと2分の2という驚異的確率で地下アイドルの卒業ライブに出会わせてしまったというわけである。

さてこの規模のアイドルにとって「卒業」とはなんなのか。これがアイドルをやめるということ、アイドルの「終わり」ということでは無いようだ。SODA☆POPの幸咲よつばは本業?であるLiveCafeSODA☆POPのメイド業はもちろん、声優業などの活動を行っているようだし、AppleTaleの伊藤朱里も芸能活動を引退するというわけではないようだ。そもそも彼女の場合ユニットの在籍期間は6ヶ月と非常に短く、他のメンバーもグラビア活動などユニット以外の仕事も多い。ハッキリ言ってこの「卒業」は茶番に過ぎないのではないか。そんな疑問も浮かぶ。

アイドルがメジャーに近づくにつれ、一般的に「卒業」という言葉の重みは増すように思われる。例えば歴代のモーニング娘。のメンバーが卒業する際に多くのファンが嘆き悲しんだことは、僕自身が直接体験したわけではないが今でもその悲しみの痕跡はネットでいくらでも見ることが出来る。
では、モーニング娘。を卒業したもののテレビではまだまだ出番があるし事務所にも依然として所属している安倍なつみ石川梨華といったOGはもはやアイドルではないのだろうか。結婚・出産という衝撃(?)の展開の後、ママドルとして新境地を開拓した辻希美はどうだろうか。依然として新曲をリリースすることもあるしテレビにも出演しディナーショーなど歌を披露する場も残されている松田聖子はどうだろうか。彼女たちをアイドルと定義・線引きすることは可能なのだろうか。あるいはそこになんの意味があるのだろうか。

疑問は次々に浮かぶ。前に挙げた地下アイドルと呼ばれる彼女たちの「卒業」に何の意味があったのだろうか。たとえそれが茶番に過ぎないものだったとしても、ステージ上の彼女たちは、送り出す方も送り出される方も皆一様にとめどもなく涙を流し、嗚咽していた。その涙は一体何なのか。その場の雰囲気だけで涙がこぼれ落ちてきただけなのか。共に過ごした日々・友情を思い返しているのか。そして、何より疑問なのは、その涙に我々ファンはどう対処すればいいのだろうか。
合同ライブでは当然卒業メンバーを輩出したユニット以外のファンも多数詰めかけているわけで(例えば僕)、その者たちにとって彼女の卒業はこれみよがしに流れだした卒業ソングに条件反射的に涙を流せと脳が指令する以外はほとんど何の感情も持ち合わせていない。しかし、アイドル現場というのは数々の「お約束」から成り立っているため、僕たちはお約束として卒業セレモニーに参加し、雰囲気をつくる協力を行う。ただそれだけである。
では、本気で卒業メンバーに入れ込んでおり、悲しみのあまり泣き出してしまうようなファンにとってこの卒業セレモニーは何の意味があるのだろうか。地下現場ではアイドルとファンの距離が非常に近いため、卒業セレモニーでもファン主導の企画が易々と行われるようだ。ハロプロ級でもサイリューム祭りなどの企画が行われることがあるが、一部の例外をのぞいて1対多(あるいはファン全員の集合体)という関係性のもとで行われる。だが、地下現場というものは、アイドルが卒業セレモニーに来てくれるファンの名前をひとりずつ挙げられるような状態でそういう儀式が行われるのだ。卒業するアイドルにとって、我々ファンは明確に個として認識されている。そのような状態で行われる儀式にはまた別の意味性が生まれているのだろうか。そして根本的な疑問として、アイドルにとって「個々」のファンは一体どういう存在なのだろうか。そんな答えの出ない疑問がずっと頭の中をぐるぐるとかけめぐっていた。


今までこの手の疑問には、「我々ファンは集合体としてアイドルに認識され、同時に個々のファンはそれぞれの内面においてアイドルと1対1の関係性を仮想する」という「外面的な1対多の関係性:内面的な1対1の関係性」という図式を持ち込むことで自分を納得させてきた。この図式はなるほど説得力があり、たしかにホールで行われるライブ会場では魑魅魍魎のヲタクたちが様々な形式的な動きを導入することで奇跡的に一体化しステージ上のアイドルが神格化される神秘体験:祝祭性を感じ取ることは何度も経験してきたし、ステージ上のアイドルと目があった(と思い込む)瞬間やメディア上で動くアイドルに対して「僕だけの〇〇」といった心情を持ち合わせることだって当然何度もあった。しかし、そうやって今までアイドル現象を形式的に捉えアイドルを神格化しできるだけ距離を遠ざけることで執拗に否定してきた地下アイドルの現場についに足を踏み入れ、そこでアイドルとファンが完全に認知されている、つまり外面的にも1対1の関係性が成立している世界においても自分の中で「アイドル」と呼べる(推せる)存在があったということに気づいてしまった今、この疑問に再び正面からぶち当たり、悶々と苦悩し続けなくてはならないのだろう。アイドルにとって個々のファンは一体どういう存在なのだろうか。


そんなことを思いながらライブから2日後の23日、今度はオトメ☆コーポレーションのリーダーのなるみさんがパーソナリティを務めているFM長野のechoesという番組のスタジオ観覧に松本まで行った。アイドル現場というくくりで見るのならば2回目の遠征である*1
そこで嫌というほど気付かされたのは、「アイドルへの甘え」である。


おそらく大多数のアイドルファンは、自分のそのアイドルへの思い(人によってその具体的な内容は変わるだろうが)は成就しないことは心の底では理解しているはずである。その上でなおその思いを成就させようと努力するのか、それともアイドルファン活動を「趣味」だと自分に言い聞かせるのか、たいていはその2つの思い*2の中で揺れながら苦悩しているのではないかと思う。
僕は前者の欲望を押さえつけながら後者として立ち振る舞う、アイドルへの思いを「恋愛感情」とは別のものだと必死に弁護しながらアイドルに関わってきた。そこで重要な要素は「エクスキューズ」である。ラジオが上手いアイドルが好き。メタ目線を持って、「プロ」としてアイドル的振る舞いをするアイドルが好き。そうやっていつもいくつかの言い訳を作り、恋愛感情ではなく「推し」としてのアイドルを追いかけていた。オトメ☆コーポレーションにしても以前に言い訳がましく書いたように(参考:http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20101101/1288600201)、数々のエクスキューズが狙ったにせよ偶然にせよ用意されていたことで「推せる」アイドルユニットであった。


スタジオ観覧の同行人から突然「どうして(推しが)なるちゃん*3バランスを取ろうとしている自分がいる。

もはやアイドルを好きになることと恋愛感情の区別がつかなくなりかけてきた今、その二つの違いを考えてみると、アイドルを好きになるということはファンはアイドルに対して甘えるという点である。基本的にファンの行動・好きだという感情は、アイドルによって拒否されることはない。プレゼントを拒否されることもないし、手紙は自由に送れるし、好きだと声をかければきっと「ありがとうございます」と笑顔で返してくれるはずだ。そこでファンの行動は効用を求めるためにエスカレートする。テレビで観ているだけだったのがコンサートに行ってみたり、ブログを見ているだけだったのにコメントをするようになったり。これは自然な行動であり、基本的には自らの投資に比例して受け取る効用は上昇していく。CDを買えば握手が出来たり、入場料を払えばコンサートが聴けたりと、それぞれのレベルで投資とリターンはある程度釣り合っているはずであり、そこでは一定の様式・コードが定められている。握手会では10秒を越えて会話してはならない・コンサートではステージに乱入してはならない・写真をとってはならない・出待ちをしてはならない、など。
地下アイドル現場の特徴は、メジャー現場に比べてこのコードが極めて弱く設定されているということだ。そこではがっついた者勝ち・「やらかし」た者勝ちの世界である。そこで自らの投資に対してNGが出るまでがっついてやる!と思って行動すると肝心のNGが来ないためとてつもない不安に襲われるのである。これを「オイシイ」と取れれば地下アイドル現場に向いている、ということなのだろう。

それなりに経験を積んだアイドルヲタにとって、アイドルを好きになるということはつまりアイドルを信じるということである。アイドルヲタは何よりも「裏切り」を恐れている。アイドルファン活動が恋愛の最も異なる点は、あいてに裏切られる心配がなく、コードに従って投資をすればリターンが返ってくる健全な世界だったはずなのに、向こうから突然「アイドルやーめた」と放り投げられては元も子もない。だから卒業式は「アイドル」をやめるための重要な儀式なのかもしれない。

そして現場のコードが弱い地下アイドル現場では、僕はますます自分の中でのコード=倫理を強く持たないと何かがダメになってしまうだろう。地下に流れる=もっと自由で過激なファン活動を行うことだと思われているはずなのに、逆に自制心を持とうとして苦悩している。ドライな気持ちでとことん甘えていいはずなのに*4、もし明日オトメ☆コーポレーションが解散したらどうしようかなどといらぬ心配をしている。まったく何をやっているのか自分でもよくわからないが、きっと地下現場に流れてきた人の中にも「とにかくアイドルと近くなりたい」という即物的な欲望だけでここにいるのではなく、僕のように、苦悩しつつもこの危なっかしい魅力に囚われているような人もいるのかもしれない*5


結局何が言いたかったのかまったくまとまっていないのだが、それもまぁいつものことだと思って諦めてこのエントリに区切りをつけようと思う。

*1:初めてだと思っていたが、これを書いているときにそういえば2年ほど前に観光がてら京都まで田村ゆかりのコンサートを見に行ったことを思い出した

*2:DD/マジヲタというくくりが好きな方はその文脈で捉えてくださっても結構です

*3:オトメ☆コーポレーションのリーダー、「なるみ」さん。僕の推しである))なのかわからない」と尋ねられた。恋人に「私のどこが好きなの!?」と尋ねられた場面であるかのように、僕は丁寧に、ラジオが喋れるアイドルが好きであること/アイドル活動に対して向上心/やる気があり実にエモーショナルである点が魅力であること/仕草が可愛いこと/顔が可愛いことなどを説明した。そしてその瞬間に非常に空虚な感情が襲ってきた。大澤真幸が『恋愛の不可能性について』でクリプキの固有名詞論を援用していたように、人が誰かを好きになる場合、根源的には理由など存在しない。その人がその人であるからこそ好きなのであり、固有名詞は確定記述に置き換えることは出来ないのと同様に「好き」の理由を列挙することは何の解決にもならない。些細なきっかけと偶然、例えば初めてオトメ☆コーポレーションを観に行った横浜タイフェスティバルのステージでたまたま僕を誘ってくれたせきねさんがステージ上手に移動し、その右におずおずと位置取った僕の目の前に、3人の中では上手に立つことが多いリーダーのなるみさんが踊っていて僕と目が合ったから、というたったそれだけの理由が全てだったのかもしれない。エクスキューズがあるからアイドルとして好きになったのか、たいした理由も無く好きになってからエクスキューズを探しているだけなのか。おそらくそれは判断不能なのだろう。 そんなオトメ☆コーポレーションとなるみさんを、アイドルという枠から逸れて心の底から好きになってしまう、それが怖くて色々な「お約束」的な行動に走ってみたりした。ハロプロなどではまず許されない、カメラで写真を撮ることにチャレンジしてみたり、ラジオのスタジオ観覧に行ってスケブでやり取りしてみたり。ハロではほとんど買うことのなかったグッズも買った。お金を払うことが「株主」としてのエクスキューズとなるからである。しかし、オトメ☆コーポレーションには罠があった。僕(ら)が思うオトメ☆コーポレーションの実力に対して現実の評価(ファンの付き方)が低くギャップが生じているため、非常に「オイシイ」現場になっているのだ(何がオイシイのかはここでは説明しない)。ここでその美味しさをそのままホイホイと享受できればある意味立派な趣味人・アイドルヲタなのだが、どうもそううまく行かない。投資以上のリターンがあまりに大きすぎて、それを相手の「無償の愛」的な文脈に置き換えてしまう。それが怖くて、お金を払うこと、つまりグッズを買ったり高い交通費をかけて松本までラジオ番組のスタジオ観覧に行ったりすることで((しかし今となってはその交通費も、その日得られた幸せからすれば安かったな、などと思っているのである。。

*4:一見矛盾しているようだが、この心理が矛盾していないことは分かってもらえるはずである

*5:でもやっぱりいないかもしれない!