2015/7/12 Dorothy Little Happy Live Tour 2015 5th Anniversary 〜just move on 〜 Final/ ドロシーリトルハッピーが、アイドルが、人間が「決断」するということ

Dorothy Little Happy Live Tour 2015 5th Anniversary 〜just move on、ツアーファイナル中野公演。現体制の5人としては最後のライブで、このライブを持って3人がドロシーリトルハッピーを卒業することが予告されていた。自分は前日にたまたまチケットが手に入り、5人の最後だしな、という軽い気持ちで中野へ向かった。ドロシーリトルハッピーのことは好きだった。よくいるライトファンだった。しかし、軽い気持ちで入った卒業公演は、壮絶だった。昨日のなんてことはない選択肢次第では、今日の出来事をあとからTwitterで知り、嫌になって「ドロシー」をミュートして見ないふりをして終わっていたかもしれない。しかし、立ち会ってしまった。立ち会ってしまったからには、そこで自分が見たもの、感じたことは、自分の言葉で書き残さなくていけない。これを「ライトファンだから」「受け止めたくないから」という理由で放っておく置くことは許されない。そう思わされれるライブだった。


Dorothy Little Happy。素晴らしいアイドルグループだと常々思っている。青を連想させる、さわやかなイメージ。透き通る歌声と空に響くような楽曲、5人の洗練されたダンス。ドロシー、いいよね。そう公言することにあまり躊躇いはなく、なんとなくアイドルファンの中でもそういう共通認識があるようなイメージ。それは「ドロシー幻想」とでも言うべきものだった気がしている。アイドルの良い所を凝縮したようなグループ。アイドルを見る時に必然的に伴う様々な罪悪感からは無縁のような存在。そういう幻想が、自分だけでなく、少なからずアイドルファンの中に存在していたように思える。
そして自分は殊更、その「ドロシー幻想」を自分の中で維持するために、メンバー個人のことを深く知らないようにしていた。ブログは一度も読んだことがない。リリイベに行っても握手列に並んだことはない。メンバーの名前すら、メインボーカルのまりとビジュアルが目立つみもり、この2人しか顔と名前が一致しない時期が長い間維持されていた。意図的に心がけていた。5人の集合体としてのドロシー。メンバーひとりひとり、個々の人間から切り離された、人間を包む一次元上の概念。
だけれども、それはもちろん幻想にしか過ぎない。それはわかっていた。メンバーとファンのつながりに関するまことしやかな噂がちらりと耳に入っても、心底どうでもいいこととして無視してこれた。5人のうち3人が卒業すると聞いた時も、その幻想を壊したくないという気持ちが正直強かった。5人の意見の相違、事務所やレーベルの意向、そういった内部事情がネットで漏れ聞こえるのをシャットアウトし、ドロシーは5人のままずっと素晴らしい音楽を続けてくれる、そう素朴に思っていたかった。


そういう「ドロシー幻想」とうまく折り合いを付けられないまま、軽い気持ちで入った5人で最後のライブが始まった。
掛け値なしに素晴らしいライブだった。2階最前列通路沿いという運にも恵まれ、爽やかで弾けるような楽曲では立ち上がって自由に音楽に身を任せ、MCやバラードでは椅子に座って聴き入り、自分がこれまで見てきたあまり多くはないがそれぞれが印象深いドロシーのライブの数々や、ドロシーの曲とともに刻まれている個人的な思い出の数々に思いを馳せながら、中野サンプラザでの堂々としたドロシーのステージを楽しみ尽くせた。いつまでもドロシーを見ていたかった。3人が卒業するというのは嘘で、これからもドロシーが続くのではないか。そう願わずにはいられない、最高のライブだった。


そして、アンコール明け、最後のMCが始まった。それまでの本当に他愛のない、あえて卒業には触れないようにしてきたMCとは違い、5人が横一列に並び、張り詰めた空気の中で、最後の挨拶の時間が訪れた。こんなも静寂に包まれて、本当に誰一人余計な声や音を立てずに、5人の言葉を聞き入っているコンサートホールは初めての経験だった。長い沈黙の後、舞台下手の早坂香美から挨拶は始まった。
早坂香美は、夢に向かって頑張る5人をこれからも見届けて欲しいと、1つずつ言葉を選びながら語った。
富永美杜は、自分にはこれまでドロシーしかなかった、そのドロシーという拠り所を失い、夢を叶えるためとはいえ、自分が変化していくのが正直怖い、それでも私を応援して欲しいと、嗚咽混じりに、最後は絞りだすように言い終えると、ステージに膝をついて崩れ落ちた。駆け寄るこうみ、反対側から不安そうに見守るも足を踏み出せないるうな、前を向きつつも、すこししてからフォローに入るまり、まったく動かないかな。
秋元瑠海は、本当はドロシーとしてやって行きたかった、でも事務所が提示するドロシーの今後の未来に乗ることは出来なかった、自分の夢のためにドロシーを離れると語った。
苦しそうに語る3人とは違い、ドロシーに残る決断をした高橋麻里は、ずっと前を向いていた。言葉で語るのはあまり得意ではないのであろう彼女は、3人との別れについて、ステージにあがるものは、自分の意志を持っていなければならない、そういうことなかなと思う、という趣旨の言葉を、驚くほどしっかりと言葉を選ぶことができる他の4人とは比べるとやや拙いながらも、彼女なりに述べ、これからもドロシーのメインボーカルとしてドロシーを引っ張っていくと力強く宣言した。
そして、最後にリーダーの白戸佳奈の順番が訪れた。

今までの4人の話を聞いて、改めて何を話せばいいのかわからなくなった、と少し砕けた言い回しで始まったリーダーの挨拶。最後の最後に、どう締めるのか。中野に集まったファンの中には、不可解ともいえる今回の卒業劇を、彼女なりの言葉で説明して欲しい、総括してほしいと願っていた者も当然いたことだと思う。注目が集まる中ではじまった挨拶の序盤、彼女が放った「5人でドロシーを続けたかった」という何気ない一言。ファンの多くがそう願っていた言葉。おそらく、多くのファンも、建前であってもリーダーの彼女にそう思っていて欲しかったであろう、優等生的な台詞。そこに秋元瑠海が割り込んだ。「嘘を言わないでください」と。

この叫びが耳に入ってきた時、自分は深く目を閉じてしまった。恐れていたことが、始まってしまった。「ドロシー幻想」は、この瞬間に、完膚なきまでに崩れ去った。

舞台最上手の秋元瑠海と、その隣に立つ白戸佳奈は、向き合って思いをぶつけあっていた。いや、思いをぶつけていたのは主に秋元瑠海で、白戸佳奈はそれをなだめるように、必要以上に感情を殺して「回答」をしていたように思える。2人のやりとりが始まったとき、自分にもある種の覚悟ができた。見届けなくてはいけない。それが「ドロシー幻想」に甘えて、都合がいいところだけ搾取してきた自分にできる唯一の責任のとり方だと。どんなに辛くても、この行く先を見届けなくてはいけない。自分にできることは何もない。元々そういうところから可能な限り目を背けてきたのに、最後の最後で立ち会ってしまった。5人で5年間も同じグループで活動してきて、我々には想像もできない喜びや悲しみや苦しみを共有してきた5人が、最後の最後ですれ違ってしまった。その悲しいすれ違いを、ただ見届けるしかないのだと自分に言い聞かせていた。

二人の言い合いは、ここで決着がつく類のものではない。すべて出し切って気持ちよく終えられるものではない。大事な場面で食って掛かったるうなが悪いわけでもないし、5人の気持ちをまとめきれなかったリーダーが悪いわけでもない。反対側で何も出来ずに下を向くしかないこうみが悪いわけでもないし、二人が言い合う声の後ろで小さな嗚咽をずっとマイクに乗せ続けているみもりが悪いわけでもない。そんな二人に目もくれず、ずっと前を向いてマイクは口元から離さず彼女特有の少し足をクロスさせた凛とした立ち姿を崩さず彼女なりの「アイドル」で居続けるまりが悪いわけでもない。事務所やレーベルの「大人の事情」が全て悪い、そう勝手に押し付けて安全に終わることも当然できない、そんな当然行き場のない、誰も責められないこの悲壮な空気を、ただそこに居合わせたものの全てが目をそらさずにいることでしか責任がとれない、重苦しい時間がゆっくりとゆっくりと流れていった。アンコールに点灯するように指示されファンの有志によって配布されていた緑色のサイリウムは、とっくに光を失っていた。


そしてしばらくして、二人の悲しい言葉の応酬にわずかな隙間が生まれたときに、ずっとマイクを口元から離さなかった高橋麻里が、おずおずとぎこちなく割り込んだ。5人の中で1番「言葉」で物事を伝えるのが得意ではないかもしれないと勝手に思っていた彼女が、先ほどの自分の挨拶の時と同じように、拙くもはっきりと、私達は「アイドル」だから、こういうところをファンの皆さんに見せるのは良くないと思う、そう語った。その言葉自体が「正しい」のかどうかは別にして、その言葉は、彼女が自分の挨拶の順番に語った言葉、「ステージに立つものは、自分の意志を持っているということなんだと思う」、まさにそれを体現していた。そしてそれは彼女だけではなく、5人全員に当てはまることだった。5人が5人とも強い意志を持っていたからこそ、今こういう瞬間が訪れてしまったのだし、それがどういう方向を向いていたのか、別々だったとしても、仮に実のところほとんど同じ方向を向いていたのだったのしても、5人がここまでやってきたとてつもなく強い意志、それがいま、悲しい形ではあるものの、立ち現れているということだった。
そして続けてまりはこう語った。「大切なのは、これからどうしていくか、だと思う」。今日1番自分の胸に刺さった言葉だった。



自分がなぜアイドルというものがこんなにも好きなのか、未だによくわからない。仮にその理由をまじめに問われたとしたら、「責任を取らなくていいところ。自分が楽しみたいことだけを勝手に楽しめること。それに対する罪悪感も含めて。」と、まさに「ドロシー幻想」そのものを答えるかもしれない。実際に、それに近い答えをした経験もある。
一方で、自分がある程度物事について思考することができるようになってから、人生において、世の中や自分自身のことについて考えたり、文学や色々なコンテンツのテーマとして強く惹かれるものが、「選択すること」についてだった。人は一度きりの人生を生きる中で、常に様々な決断にさらされていく。何も考えていなくも、なにもしないという無限の選択肢を選び続けている。自分が今日中野サンプラザに居合わせたものの、本当に些細な選択の末だ。そして、些細な選択であれ、人生における重大な選択であれ、人は選ばなければいけない。逃げることは決して出来ない。逃げたとしても、逃げるという選択肢を選びとったということにしか過ぎない。2次元の世界や想像の世界ではないから、人生は不可逆的で、選択の場面に二度と戻ることは出来ない。人間として生きるということは、常に決断し続けるということなのだろう。
そういう前提で、アイドルは、特に女性アイドルは、幼い頃から、常人ではなかなか経験できない、重大な選択にさらされ続けている。そして、彼女たちは選び続けてきた。もしかすると、自分がアイドルを好きな理由の一つに、アイドルが未来を選びとる人間だから、ということがあるのかもしれない。
少し話はそれるが、最近読んだアイドルをテーマにした朝井リョウの小説『武道館』も、アイドルの選択をテーマにした本だったと自分は理解している。そこでは、揺るがない意志で未来を選びとる主人公のアイドルの姿が描かれていた。自分はこの本を読んだ時に、なぜここで描かれている主人公が、その選択肢を、強い意志を持って選び取れるのか、その意志はどこから来るのかがあまり描かれていないように感じ、少し物足りなさを感じた。
だが、今日のドロシーのステージは、彼女たちの選択、彼女たちの意志を、これ以上はない形で見せつけられたように思える。夢に向かう自分たちを応援して欲しいと語る早坂香美。立っていることすら困難なほどに、自らの決断に対する不安を晒し、それでも自分の道を応援して欲しいと吐露する富永美杜。5人での最後のステージにもかかわらず、多くのファンが見ているにもかかわらず、それでも自分の思いをリーダーにぶつけてしまう秋元瑠海。それに対して、必要以上に冷静ふるまおうとしつつも、るうなと同様に他を置き去りにして反論する白戸佳奈。そして、自分が信じる「アイドル」像に対する揺るぎなさを振る舞いだけでなく言葉でも見せようとする高橋麻里。その姿は実に生々しく、彼女たちが幻想に包まれた理想像としてのアイドルではなく、その前にひとりの人間であること、そして、人間として生きていく上で避けられない、「選択する」ということとは一体どういうものなのかを見せてくれたのではないか。それは決して美しくなくても、とても大切なことだと、自分は強く思った。


「大切なのは、これからどうしていくか、だと思う」。彼女たち5人が選んだ道は、たとえそれが別々の道であったとしても、歌うことだった。
そして、本当に5人での最後の曲が始まった。ラストの曲に選んだったのは、『未来へ』。未来を掴み取るための決断、そして意志。


ラスト曲の間、自分は椅子から立ち上がることが出来なかった。座ったまま2階最前列の手すりに手と顔を預け、ステージまで何も遮ることがないという幸運に感謝しながら、5人の姿を目に焼き付けた。曲が終わり、客席が明るくなっても、ファンはアンコールをやめなかった。何度も終演のアナウンスが繰り返され、それに対抗するようにアンコールが続く中、自分はドロシーの、そしてメンバーの人間としての決断する姿の偉大さにあてられ、しばらく動くことが出来なかった。


ただその場に居合わせた自分ができることは、こうやって彼女たちの決断について自分なりに思ったことを書き記すことしかない。そして、今日の彼女たちの決断が、後から振り返って正しかった、これでよかったと5人全員が思えるように、ただ見届けるしかないのだろう。それを応援と呼ぶのかは別にして、ただ見届ける、それしかできない、少なくとも見届けようと、自分なりの小さな意志を胸に抱えている。