江口愛実/アイドルの実存


AKB48知名度が爆発的に上昇するにつれ、アイドルという存在及び周辺現象に対して経済学的あるいは社会学的な分析を試みるケースも多く見かけるようになった。
特に第三回総選挙→謎の新人「江口愛実」登場という流れに対して世間の反応は(良くも悪くも)非常に大きく、「AKB現象語り」も大きく伸びた。その中で特に目についたのが下記のエントリである。

宮司護靖の部屋 "江口愛美の真実 〜メタアイドル〜"
http://hyperbenikujaku.blog45.fc2.com/blog-entry-225.html

著者がtwitter東浩紀氏にリプライを飛ばしてエントリの宣伝を行っているように、東氏の著書「動物化するポストモダン」における「データベース消費」「シミュラークル」といったアニメキャラクター生成における概念を、AKBおよび江口愛実現象に照らして検証するといったエントリである。
東氏のツイートからリンクされた上記のエントリを見たときの正直な感想は「またか」というものであった。東氏の「データベース消費」概念はAKBを語る上で非常に便利なツールであり、この種の評論は幾度と無く見かけてきた。また、上記のエントリの分析対象たるアイドルファンカテゴリに属しているという自覚を少なからず持っており、なおかつアイドル批評に興味のある自分からすれば、昨今のアイドル(現象)批評には不満を感じることが多く、上記のエントリはなまじ「もっともらしく」書けているために一層不満が大きかった。ただ「俺達が好きなアイドルを上から分析してんじゃねぇ!!」「俺達にはアイドルへの「愛」があるのにそういう要素を無視すんな!!」と憤っていても何も生まれないので、できるだけ丁寧に上記のエントリに対して反論を行うことで、今後の「アイドル語り」に何かしらの指標を示すことが出来れば幸いである。



エントリ前半部の物語消費・虚構の消費という話題はアイドル現象批評において頻出されるテーマであり、初音ミクライブという象徴的な話題に触れながら概ねストレートで定番な議論が展開されている。
続いて「社団性」という珍しいキーワードが登場する。

社団性の獲得は、興味深いことに現実社会の社団に関する議論がそのまま当てはまる。すなわち、構成員の存在とは別個に社団独自の存在を観念できること、構成員の変動にもかかわらず、社団として存続しうることである。

という指摘はこれも昨今の"グループ"アイドルブームに対する説明としてしばしば登場する論点であり、筋がとおっている。しかし、次のように

ピンク・レディーキャンディーズだったらこうはいくまい。具体的に誰がどの点で好みか話ができないと会話は成立しないであろう)。

AKB48特有の要素として捉えている理由がよくわからない。ここで想定されているように「AKBって人気ですよね」レベルの薄い世間話であれば「ピンクレディーって人気ですよね」に置き換えても問題なく成立するように思える。

話題は「消費」へと移る。

私がAKB48を享受するとき、メンバー一人を好んで楽しむ(以下、消費するという)とすれば、48通りの楽しみ方しかない。だから理論上は、最大でも48回消費してしまえば終わりである。ソロデビューの限界はここにある。
しかしグループ内ユニットを形成すると、「組み合わせ」を消費するように消費者を誘導することができる。ここで、48人のメンバーから適当に4人選んでユニットを作る作り方は、理論上は約20万通り存在する。実に消費余力が4000倍になるのである。

グループ内ユニットの利点の一面は確かに捉えられているが、メンバーの消費に対する認識が絶望的に甘い。なぜ東浩紀の著書を引用しているのにもかかわらず、「二次創作的なキャラクター消費」という概念が出てこないのだろうか。ファンがアイドルのメンバーを「消費」する際には、アイドルの身体はキャラクター化され、一人の人間がそれこそ無数に「フォーク」して読み込まれる。さらに言えば宇野常寛が指摘したように、AKBのキャラクター消費の特徴は一次情報と二次創作の逆転現象が意図的に生み出されている点であり、プロデュース側とファンの間でマッチポンプ的にキャラクターが書き換えられている。

参考:政治と文学の再設定 3章 AKB48とN次創作の現在
http://renzaburo.jp/contents/045-uno/045_main_007.html

ここでは個別のメンバー消費の限界→ユニット組み合わせ消費の限界という図を書いておいて、最後に江口愛実の登場を革命的に扱いたかったのかもしれないが、

このようなユニット作戦の限界は、ユニットが所詮は元々のメンバーに容易に還元しうることにあると思われる。「なんだ、結局倉持明日香と高城亜紀と柏木由紀じゃないか」ということである。

という指摘は唐突であり、「ユニット作戦の限界」を何ら説明していない。それどころか先に「社団性」というグループアイドルの特徴を指摘した部分との矛盾が生じているようにも思われる。ユニット(グループ)は単なるアイドル個人の組み合わせに留まらず、ユニットがメンバーを規定するという相互作用が存在することを見逃してはならない。
参考:「グループアイドル」が持つ意味
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20110308/1299577157

メンバー個人がキャラクターとして二次創作化されていくように、「結局柏木由紀」であったとしても、AKB48における柏木由紀とチームBにおける柏木由紀フレンチキスにおける柏木由紀はそれぞれ異なる需要のされ方がされているはずである。そもそも最初に筆者が「48通り」の選択肢を示したが、なぜ芸能界あるいはアイドルグループの中から「AKB48」が選択されているのか、その意味を考えなくてはならない。

そしていよいよ本題の江口愛実である。

しかしながら、グループ内ユニットは、最終的にはメンバー「個人」への還元に留まるのに対して、江口愛美はメンバーの「顔のパーツ」まで分解還元できるという点で、後者は前者を一歩進めるものなのである。そもそもの姿であった「メンバー」を一端分解して、そこから新しく消費対象としてのアイドルを再生産すること、そしてそのようにして作り出された半架空(実在の人間をもとに作りながら、非実在の存在であるという意味である)の人間が、CMの中でセンターとして実在のメンバーと並列する存在として扱われうるという点に、我々の常識を超越した現実があるのである。

ここでようやく二次創作の観点が登場する。ここでパーツまで分解還元される点について、

先掲東の言葉を借りれば、アイドル個人に留まることなく、さらに「萌え要素」への分解が起こっているのである。

と指摘されているが、本当に個々のパーツは「萌え要素」として捉えられていたのだろうか。
たしかに、最も推し面メーカーが遊ばれたであろう2chの地下板(AKB板)などでは「〇〇の目を使うと美人になる」といったようにパーツそのものに対する反応も見られたが、それよりも結局出来上がった顔に対して「これ〇〇(既存のメンバー)じゃん笑」「〇〇の鼻目立ちすぎwww」というように、結局パーツは「萌え要素」に分解されず、あくまで既存のメンバーの一部として認識されていたように思える。
そしていよいよ議論も大詰めとなり、

前田敦子も江口愛美も、シミュラークルという点では等価である。前田敦子がオリジナルで、江口愛美がある種のコピーであることは最早大きな意味を持たないのである。

と述べられる。
さんざん批判を加えてきたが、実のところこのセンテンスには非常に共感できる部分がある。それは、ある意味自身もAKB48そして前田敦子という存在を「外部」から覗いているという意識があるからであろう。そしてこの「外部」からアイドル現象を分析しようとする際に陥りやすい問題点がここにある。
アイドルには常に代替可能性という問題がつきまとう。アイドルをキャラクターそしてシミュラークルであると断定するのは非常に容易である。だが、もう少し注意深くアイドル現象を見つめてみればすぐに分かるように、あくまでアイドルはキャラクターであるとともに実存を持った人間として受容されている。
江口愛実の名が発表され、CG説が唱えられてからも、ファンは「江口愛実がCGでもいい」という反応を示しただろうか?そして今江口愛実発表から1ヶ月立っていないが、早くも江口愛実ブームは収束してしまった。AKBとメディア戦略の話にはここでは立ち入らないが、江口愛実という存在をネタ的にではなく本当に「好きだ」と感じているファンが現在一体何人居るのだろうか。
江口愛実という大掛かりなしかけによって示さたれたのは、「結局前田敦子って江口愛実と同じだよね」ではなく「やっぱり前田敦子ってかわいいし思い入れあるよね」という、人間たるアイドルの再評価だったのではないだろうか。
参考意見:

「自分たちが作ろうとする理想像より、既に与えられた現実の生身のアイドルの方がかわいかった、やっぱりAKB最高、最強」ということ。アイドルファンの能動性(自分の理想のアイドルを求める欲望)を利用しながらも、結局のところアイドルの超越性を確保していく、と。これはうまいでしょやっぱり。less than a minute ago via ついっぷる/twipple Favorite Retweet Reply

AKB48の人気メンバーまゆゆこと渡辺麻友はそのルックスから時に「CGのようだ」と語られるが、その土台には例えばアニメオタクといった彼女の人間臭い一面があるからこそルックスが輝くのである。結局のところ、ファンの手によって江口愛実以上に可愛く合成された新たなアイドルが出現し人気を得たわけでもなく、江口愛実初音ミクアイドルマスターのようにキャラクター設定が後付けされていくこともなかった。つまり、江口愛実には「実存」が足りなかったのだ。
東浩紀のデータベース消費およびシミュラークル論を使用してAKBが語られる際には、大抵このアイドルの実存という問題が抜け落ちている。あるいは、非常に厄介な問題なので意図的にそこに触れることを避けている。上記の宇野常寛氏のAKBのN次創作論においても同様である。


いままで行なってきた反論は、すべて「ファン」の目線であり、個別のメンバーにそこまで思い入れのない世間一般的には前田敦子江口愛実も同じように扱われているのだよ、という再反論が可能かもしれない。しかし、引用したエントリの著者はAKB現象を社会学的に捉えようと試みているにもかかわらず、論旨全体としてAKBを消費する母体に対する意識が低い。例えば「あっちゃん」は知っている世間一般レベルなのか、選抜メンバーの半分くらいならわかるレベルなのか、AKBのテレビ番組を好んで見るくらいのライトなファン層なのか、現場に通いつめるもっとコアなAKBオタクなのか、まったくはっきりしない。例えば、

そして今度は、「AKBはお好きですか?」に加えて、「AKBをどう組み合わせてみました?」という世間話が成立することにより、先に述べた緩やかな紐帯はさらに緩やかになる。

と述べられている箇所があるが、メンバーの名前はあまりわからないので「AKBはお好きですか?」というレベルの世間話をする人々が推し面メーカーを使用して「AKBをどう組み合わせてみました?」などという会話することがあり得るだろうか?世間話ではせいぜい「江口愛実ってCGなんでしょ?」レベルであり、萌え要素に分解・再生産するようなハードな消費のされ方はされておらず、一方もっとコアなファンの間でも江口愛実に対して「実存」をかけた消費はされていないのである。


さて、なぜ世間の間でもファンの間でもそろそろ忘れ去られようとしている江口愛実がここまで革命的であるかのようにに扱われたか、その答えは最後の段落にある。

AKB現象も、実在する人間に対するあこがれや好意を惹起するのではなく、寧ろメタアイドル的視点を通じた、非実在との混在、非実在の選択、ひいては現実世界の棄却をもたらしうべき契機をはらんでいると言えよう。
戦争に負け、高度経済が終わり、バブルが崩壊した無宗教、無目的国家日本において、それはある種当然の帰結なのかも知れない。私はそれをいいことであると受け容れられないから、江口愛美現象をきっかけに「現実」自体の再構成を図らねばならないと思うのであるが、緩慢な死へと一歩ずつ踏み出している(と思われる)日本社会にとって、最早後戻りをすることは不可能で、余生を噛み締めて味わうより他ないのであろうか。

結局のところ、エントリの筆者はこの部分が言いたかっただけなのではないだろうか。
繰り返すが、世間一般の江口愛実に対する捉え方の問題はAKBのメディア戦略に関わるものであり、データベース消費およびシミュラークルの議論と直結するものではない。そしてAKBファンの江口愛実に対する捉え方としてデータベース消費とシミュラークルの議論を持ち出すには、「アイドルの実存」=オリジナルという観点に対してあまりに無頓着である。
非実在・非現実を選択することの愚かさを主張したいがために、江口愛実という非実在のアイドルをダシにしてあたかももはやアイドル自体がシミュラークルに過ぎないという暴論を展開するのはいかがなものか。そしてアイドルを題材に日本社会の未来について考えるのであれば、筆者が意図する"「現実」の再構成"なるものがどういうものなのかは知らないが、非現実に入れ込むこと=社会的未成熟と捉えるのではなく、あくまで未成熟への嗜好とうまく折り合いをつけるような「成熟」のあり方を探るのが筋というものではないだろか*1


日本的「未成熟」について
参考:クール・ジャパノロジーの可能性 コンテクストとアイドル その2
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100307/1267978834

*1:しかしこのような物言いは3.11以降通用しなくなってしまったのかもしれない