「香月孝史『「アイドル」の読み方』」の読み方

アイドルを語る楽しみは人それぞれ自由だが、それをしっかりと「論じる」ようと思うと、とたんにいくつもの困難が待ち受けている。アイドルを語りたいという欲望は、多かれ少なかれ(特定の)アイドルが「好き」だという思いから出発していることが多いが、その「好き」だという思いを表現することと、アイドルを「論じる」ことには多くの場合齟齬が生じてしまう。何かを「論じる」からには、その語りには最低限の客観性や論理性、説得力が備わっていなければならないが、アイドルが「好き」という情熱はそれらの客観性や論理性で説明のつくものではないし、論の切り口(方法論)や、なにより論ずべき対象となっている「アイドル」という存在そのものの輪郭自体があやふやであるという、「アイドル論」が抱える致命的な問題が大きく立ちはだかっている。
また、語りの欲望にアイドルに対する「好き」だという思いがない場合ももちろんあり、それはそれで全く問題はないのだが、アイドル好きな読者からすると「アイドルへのリスペクト・愛がない」、あるいは端的に面白くないという評価を受けがちである。

そうしたいくつかのレベルの異なる困難に対して真っ向からぶつかるべく名乗りを上げたのが、2014年3月に刊行された、香月孝史・著『「アイドル」の読み方』である。副題に「混乱する「語り」を問う」とあるように、また、本文の「はじめに」を引用してみれば、本書の意図は明確である。

(略)この「アイドル」という言葉の意味をここできちんと解きほぐしておきたい。「アイドルとは何か」を決めるのが目的ではない。「アイドル」という、わかりやすそうでわかりにくい言葉について、そのわかりにくさの理由をきちんと整理しておきたいのだ。こうした整理があってこそ、アイドルを語ること、またアイドルの何が楽しまれているのかを捉えることもより容易になるのではないだろうか。これはまた、アイドルをめぐる議論が齟齬を来したまま溝を深くしてしまう状況を回避し、互いの主張を理解しながら生産的な議論の積み重ねができる土壌を用意することにもなるだろう。本書がそのきっかけになればいいと思う。*1

こうした明確な意図のもとで、本書は以下のように議論が展開される。
1章ではまず「アイドル」という言葉そのものについて、その言葉が有している意味合いを、1:偶像崇拝としてのアイドル、2:「魅力」が「実力」に勝るものとしてのアイドル、3:ジャンルとしてのアイドル、という3種類に分類しつつ、1のジャンルとしてのアイドル(←→2・3:存在としてのアイドル)にフォーカスを絞ることが宣言される。2章では「アイドルらしさ」というイメージについて議論が展開され、今日的な「アイドルらしさ」のステレオタイプが醸成されてきた歴史を追うことで、アイドルというジャンルについて「自主性の欠如」がイメージ付けされていることを示し、そこから反転して現代のアイドル及びアイドルを享受する営みの特徴が「アイドルの自意識の発露(の享受)」にあり、現代のアイドルたちがステレオタイプたる「アイドルらしさ」を乗りこなしていることを指摘する。3章ではそれらの特徴を「音楽」という観点から着目し、議論を補強する。
4章では、ここまでの章で整理した前提をもとに、自意識の発露を全人格的に享受できる/されてしまう、というアイドルの有り様をインターネットやSNSなどの情報技術の発展が支えていることを指摘しつつ、それらの情報環境のもとで行われるファンとアイドルの間のコミュニケーションの往来の特徴を「まだいろいろなものが未分の状態におかれている」という意味を持つ「饗宴」という歌舞伎*2評論での用語を用いつつ解きほぐし、虚/実といった二項対立では切り分けられないアイドルの「饗宴的」な性格が生み出す楽しさを示すとともに、同時に垣間見える危うさについても指摘する。
そして最後の5章ではこれまでの議論を総括するとともに、饗宴的な性格を持つアイドルという存在を「場」として捉え直している。

本書の特徴をいくつか指摘してみたい。
まず挙げるべきは、とにかく議論が丁寧である点だ。本書の目的が「アイドルの議論を解きほぐす」ことである以上、本書での議論が丁寧であることは絶対条件となる。「アイドル論」自体の弱みである、その蓄積が圧倒的に足りず空中戦になってしまいがちであることについて痛いほど自覚しているであろう香月は、多種多様な一次資料を引用する。それはあたかも学術論文のようである一方で、引用される資料自体がアイドルのインタビューであったりポップな雑誌の記事であったりするために読みやすく、トピックもアイドルにある程度の関心のある者であればニヤリとさせられるものばかりである。特に1章から3章までは、アイドルの歴史を丁寧に紐解き、香月の個人的な「思い」や「情熱」が議論を空疎なものにしないように慎重な手さばきで解体作業を進めていく。
その特徴がもっともよく現れている点の一つが、「アイドルらしからぬ」をめぐる議論である。音楽雑誌の編集長や音楽ライターがももいろクローバーZでんぱ組.incといった人気のアイドルについて、(既存のアイドルと違って)自主性を持っている点で卓越性があると浮ついた言葉で語ることについて、香月は自身の言葉で断罪を行ったり、矛盾を指摘することはしない。それが水掛け論や空中戦になってしまうリスクの考慮の上であろう。香月は、そこで称揚されているでんぱ組.incのメンバーである夢眠ねむ自身がその卓越性を相対化する発言を行っているインタビューの引用を対置することで、「語りの混乱」が自壊するように操作する。ともすればいやらしさすら感じる徹底っぷりである。
また、香月は問題となる議論を解きほぐす際に、決してそれらの議論を単純化することで解決を行おうとはしない。これはある種の読みにくさにもつながってしまうのだが、例えばテレビの時代とネットの時代のアイドルの在り方について、

(略)テレビメディアによって「選ばれる」”必要”はなく、自らアイドルになることを「選びとる」ことが”可能”なのは、こうした「現場」の性質による*3

と述べるように、単純にテレビとネットを二項対立として捉えるのではなく、「必要」「可能」といった言葉が慎重に選択されている。もちろん、アイドルの虚/実など様々な要素が二項対立で切り分けられないことについてはなんども本書の中で述べられている通りである。他にも、「アイドルらしさ」のステレオタイプという“基準”を示した後に、「アイドルらしくなさ」を競う差異化闘争が現代のアイドルの特徴であると簡単にまとめてしまうのではなく、差異化の出発点であった「アイドルらしさ」を自らのものとして乗りこなしてしまう可能性を持っている、という論の運びは、饗宴としてのアイドルの特徴の良し悪しを指摘した後にその悪い面すらも乗りこなす可能性を秘めるという論の運びに通じる部分があるが、丁寧であるゆえに非常に難解な部分であろう。


香月の「丁寧であるゆえにわかりにくい」という特徴について参考になるのが、本書の刊行記念トークイベント*4が4月2日に行われた際に、香月の対談相手となった評論家・宇野常寛の投げかけだろう。
宇野は香月に対し、「香月は優しすぎる。香月はなぜアイドルを特権視するのか。アイドルとファンの関係性は、単なる社会関係であり、他の商行為や家族・友人間の関係性と特段変わるものではない」と挑発的な議論を設定する。宇野はこの手の問題設定方法(二項対立で”敵”を作る方法)に非常に長けているという印象があり、今回もトークショーというイベントの性質を考慮したのだろう、宇野イズムを上手に押し出していた。宇野はアイドルを機能に分解して語り、社会関係の一つとして大きくそのシステムを捉え直す。「身近な人々とのコミュニケーションが最もコンテンツ力に長けている」「ステージでのライブもコミュニケーションのネタに過ぎない」と迷いなく語る宇野のロジックは非常に強力だ。
この問いかけに対して、香月は多くのアイドルが未成年で義務教育過程にあることなどを挙げて回答していたが、宇野の強力なロジックを揺らがせるまでには至らなかった。しかし、「香月がなぜアイドルを特権視するのか」という宇野の問いかけは本書にとって極めてクリティカルであったと考える。香月がトークショーでこの点についてクリアに回答できなかったのは、香月が実力不足であったというよりも、そもそも答えることが不能な、そこより上に遡ることが不可能な問いであったのではないだろうか。
そのヒントは、第5章に隠されている。本書の目的は、何度も言うように、混乱するアイドルに関する議論を解きほぐすことである。そうすると、第5章で書かれている「恋愛禁止」や「疑似恋愛」について、本来であれば本書で踏み込む必要はないはずである。そのことについてはもちろん香月自身も自覚的であり、アイドルと恋愛に関する議論は以下に引用する文章によって始まっている。

本書の主眼は、このような社会一般のイメージと実態とをめぐる議論にあったので、ここまでの考察と指摘で論考をまとめることも可能かもしれない。しかし、旧来のイメージにまつわる考察をしながら、「アイドル」というジャンルが未だに理不尽なステレオタイプから自由ではなく、強く拘束されているように見える部分が存在することが引っかかっていた。その点について、ここまで本書はふれてこなかった。あるいはその点に踏み込むと、ここまでの考察についてのさしあたりの完結が遠のいてしまい、ジャンルとしての「アイドル」が内包する歪さを持て余すことになるかもしれない。とはいえ、それはアイドルが語られる上での古典的かつ論争的な一大トピックであり、それに向き合わなければ重大な積み残しをしてしまうことにもなるだろう。論の終盤にあたり、ここではそのことについて考えておきたい。すなわち、アイドルと恋愛に関する問題である。*5

なぜ香月はアイドルと恋愛について語らねばならなかったのか。一言で言えば、それは香月の「アイドルというジャンルへの愛」故に、であろう。香月も危惧するように、本書でアイドルと恋愛の問題について踏み込むことは本書にとってのリスク・弱みになってしまう可能性があった。アイドルと恋愛に関する議論の中身はここでは触れず、ぜひ本書を手にとって確認していただきたいが、もちろんその議論の中身自体が論理を捨て情念に基づく言葉で紡がれているということでは決してない。議論は本書の流れに沿うものであり、「余談」でありつつもしっかりと一冊の議論の重要なパーツとして納まっている。だが、そのようなリスクを取ってでも、アイドルと恋愛の問題がアイドルというジャンルを脅かす危惧を孕んでおり、それを特別に取り上げて何かしらの見通しを立てなければならぬと香月が強く感じていたから*6こそ、ここで「余談」とも言える議論が挿入されたのだろう。
そして、「アイドルというジャンルへの愛」は、宇野の問いかけへの回答としても同様に妥当するものである。アイドルを特権視しているようにみえる香月の態度は、アイドルをめぐる現象をどこまで機能に還元して記述・考察すべきかという問題についてのある種「矜持」のようなものであり、その還元のレベルが宇野と香月の差として現れていたのかもしれない*7



というように、「『アイドルの読み方』の読み方」として、今回はやや過剰に本書を「アイドル論的」ではなく「アイドル的」に読んでみたのが、今回のエントリの内容である。本書では、アイドルを論じる際に底にある「アイドルが好き」という思いが、「アイドルというジャンルへの愛」として、議論の中身そのものではなく「アイドルと恋愛」についての議論に触れてしまった、触れざるを得なかった点をもって現れているのだ。

もちろん、このような読み方が「正しい」わけではなく、もっといろいろな解釈が可能であるし、あるいは変に深読みせず議論を丁寧に追うことで非常に多くの示唆が得られる素晴らしい一冊であると思う。本書が私のようなアイドル好きの人間だけではなく、さまざまなバックグラウンドや考え方をもった人々の手に届き、「饗宴」の場となることを願っている。


アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.5
アイドル領域Vol.4*8

*1:9-10ページ。

*2:香月は歌舞伎研究者である

*3:137ページ。ダブルクォーテーションは引用者による

*4:宇野常寛×香月孝史「アイドル的想像力をアップデートする!」http://www.seikyusha.co.jp/wp/news/event20140402.html

*5:184-185ページ。

*6:トークショーの中で、宇野がアイドルというジャンルの存続について楽観的であり、AKBに関する恋愛禁止の問題については「恋愛禁止条例なんてなくなればいい」と簡単に切って捨ててみせたのとは大きな違いが見えた

*7:というのも、宇野と香月はアイドルをめぐる様々な事象について、基本的な考えの方向性はおおよそ一致しているように見える

*8:本書の参考として、香月が寄稿しているアイドル評論誌『アイドル領域』を紹介する。vol.4では「アイドルらしさ」と「アイドルらしからぬ」の問題について書かれた論考「アイドルらしさという幻想-拡散する"アイドルらしからぬ"言説」が、vol.5ではアイドルの自意識の発露が全人格的に享受されることが孕む問題について書かれた論考「アイドルの双方向性コミュニケーションに眠る暴力-舞台『クレイジーハニー』が描く極端な悪意と負の可能性-」が掲載されている。vol.6が最新号。