前田憂佳引退/ゆうかりんがゆうかりんでなくなるということ
ハロプロそしてアイドルを見始めてそれほど長い年月が経ったわけではないが、トップアイドルから地下アイドルまで様々なアイドルの卒業・引退を見てきた。そして、前田憂佳のことを特別好きで応援していたわけではないが、彼女の引退の知らせは、その中でも最も衝撃的だった。
アイドルにとって卒業・引退が「死」と同義語なのか、それとものちの復帰も含めカジュアルなものであるのか、新たな人生のスタートとして前向きに捉えるべきであるものなのかはわからない。ただ、それがどのような経緯・理由であったとしても、彼女自身で決めたことならば我々はそれを尊重し受け入れなければならないのは間違いない。
なぜ自分にとって前田憂佳の引退発表が衝撃的だったのか。まさに青天の霹靂であったのだが、それ以上に、なにかアイドルに対する根本が揺り動かされたような気がした。
先日公開されたモベキマス『ブスにならない哲学』の2番において全てのハロメンを従えてセンターに立つゆうかりんの姿を見て、久々にシングルVの購入を決意していた。正月ハロコンのブルーレイディスクを購入して、High-Kingの『記憶の迷路』で各先輩グループリーダーを従えてセンターに立ち歌うゆうかりんの姿に神々しさを感じていた。そしてそれは自分の今までのブログエントリからもわかるように一定の距離を置きつつ「あえて」アイドルに「物語」や「意味」を積極的に読み込んでいくという自らのアイドルに対するスタンスとは異なり、極めて無意識的な読み込みであった。ゆうかりんがハロプロに愛され選ばれし子であり、いずれハロプロを背負う存在であるとナイーブに信じていた。それが当然だと思っていた。なまじ自分がアイドルに対して客観的な視点を確保できているという意識があった分、ゆうかりんが特別な存在でありゆうかりんがアイドルであることに何の疑問も抱かなかったという事自体に大きな衝撃を感じ、その前提がたった今崩れたのだということにただただ恐ろしさを抱いた。
アイドルが自らがアイドルであるということことへの自覚を持ち、アイドル的振る舞いを行っていくことと、ファンがアイドルを読み込むことの相乗効果について考えるのが好きだった。自覚しつつも無自覚であることの曖昧な境界、アイドル側から発信していることとファンが読み込んでいることの曖昧な境界のせめぎあいが好きだった。
しかし、ゆうかりんがゆうかりんであることについては、他のどのアイドルに比べたとしても、我々はよく理解できていなかったように思える。それ以上に本人が「ゆうかりんがゆうかりんであること」について理解していないのでは、と思わせてくれた。ゆうかりんはいつまでも無自覚的にゆうかりんなのだから、前田憂佳はずっとゆうかりんであると無邪気に信じていた。このようなよくわからない言葉遊びしかできないほどに、ゆうかりんはいつまでもゆうかりんだと無意識的に信じていた。
しかし、そんなゆうかりんもまたほかのアイドルと同じようにアイドルであることを辞める決意をする時が来た。ゆうかりんが特別なアイドルだと認識されていた分、もっと言えばその「特別」が「当然」だと認識されていた分、そこに託された意味や物語の重圧に人一倍戦ってきたのかもしれない。だがその重圧と必死に戦っている素振りを簡単には見せなかったからこそ、我々はゆうかりんをゆうかりんとして無邪気に戯れることができたのだ。そのことに対して深くゆうかりんに感謝しなければならない。
ゆうかりんがゆうかりんでなくなるということがどういうことなのか、今はまるで理解できていない。しかし、12月31日の引退の日に「前田憂佳」の新しいスタートを心から祝えるように、「ゆうかりん」に残された貴重な時間を大切に少しずついろいろなことを噛み砕いていきたい。
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