私の優しくない先輩/アニメ監督がアイドル映画を撮るということ

私の優しくない先輩」を見た。客層は男:女=9.5:0.5、ほとんどが一人。川島海荷目当てというところだろう。
自分は川島海荷の魅力がいまいちわからないのだが、上に貼ったマジで恋する5秒前のPVを見てこれをフルスクリーンで見るだけで1500円払うのも悪くはないだろうと自分に言い聞かせ、鑑賞。これで観終わったあとに川島海荷のことを以前より好意的に見られるようになっていたらいいなぁ、程度の期待度。
監督のヤマカンこと山本寛氏に対しては、京アニハルヒ、という予備知識があるくらいで、氏及び京アニ作品に対しては良くも悪くも特別な感情は無し。原作は未読。映画の批評・感想も未チェック。
前提条件はこれくらい。

ネタバレ無しの軽い感想。
・期待値が低かったせいか、予想以上に面白かった
川島海荷はやはり微妙だった
竹内まりやは神
・最後に踊れば万事OK
・そのエンディングダンスを見ずに帰った観客の意味がわからない
・友情出演の声優3人+あずまんは残念ながら見逃した 
川島海荷より友人役の眼鏡っ子児玉絹世がやたら可愛く見える
・はんにゃ金田はアリ
・高田パパもアリ
・遊び部分は10回に1回くらいクスッと笑える
・これがヤマカンクオリティ?なのか?あまりハルヒちゃんと見てないからなんとも
・苦しい部分もあるが「実写」をよく頑張った
川島海荷はあんな声だったっけ・・・?評価別れるポイントかも
小野恵令奈起用で神映画だった予感

川島海荷は頑張っていたし、劇中のキャラクター像もなかなか面白く描けていたが、両者がどうにもマッチしていなかったのが残念。

では以下はネタバレ含む感想。


・予告では語られない物語の核心部分まとめ
予告編ではひたすらPOPでキュートなハイテンションラブコメ映画、と思わせておいて、後半ではがらっと演出・雰囲気を転換。その後半では、川島海荷演じる主人公・耶麻子が、恋心を抱いていたあこがれの南先輩(入江甚儀)の情けない現実の姿に直面し、夢見る乙女であることからの脱却を余儀なくされる。それと同時に持病が悪化し、死に至る。死に至る寸前のフラッシュバックで、いままで忌み嫌っていた不破先輩(はんにゃ金田)が、残された時間がわずかである自分のことを大切に思い、耶麻子の思い出づくりのために必死になってくれていたことを知る。そして耶麻子はあれほど嫌っていた不破先輩を「大好き」になる。


・現実/虚構/セカイ系
予告で語られる耶麻子の姿は、いわゆるセカイ系(あまりこの言葉を使いたくないが・・・)、人生の至上目的はあこがれの南先輩とのキスであり、基本的に彼女の世界には「先輩と私」しか存在しない、虚構の世界である。その世界では先輩に会えば爽やかな風が吹くし、幸せな気分で防波堤の上を観鈴ちんの如く歩けば数センチ浮き上がってしまう。自分は重い心臓病を抱えているが、つらいことがあっても、自分を模型の地球を張りぼての宇宙空間から見下ろす存在だと思えば、全ては虚構の世界であり、辛さを感じることはない。
しかし、そこに介入するのは「クサイ・ウザイ・キモイ」不破先輩である。不破先輩のキャラクターはこれまた実に虚構的ではあるものの(後述)、彼の持つ「熱さ」・「汗の匂い」は、5感のうちマンガ・アニメ的世界には登場しない感覚を刺激し、「虚構」である南先輩と対比される「現実」的存在である。
たこ焼き作りなどを通じ、不破先輩との交流により耶麻子は自分も「熱く」て「クサイ」、現実の世界における喜びを知る。しかし、その結果として、虚構の世界にいた南先輩の醜い現実面(タバコを吸い、無責任に約束を破り、耶麻子の告白に対し「タバコのこと黙ってるならいいよ」と返答)を知ってしまう。
耶麻子は自ら遠ざけていたはずの現実に絶望してしまい、「こんな現実ならいらない!」と泣き崩れ、(おそらく)死に至る。
場面は虚構と現実の入り交じった耶麻子の心象世界に移行する。不破先輩に対し、「どこまでが現実なのかわからない」とこぼすと、彼は「お前が信じれば現実だ(大意)」と答える。ここで不破は、夢見る乙女=虚構を否定し「クサイ・ウザイ・キモイ」現実をただ肯定するのではなく、その両方を「良し」とした。たとえ南先輩が自分の想像したよりも情けない人間だったとしても、その彼を思った日々・恋心は無駄ではないし、またそれも真実なのである。
だからこそ耶麻子は、不破・そしておそらくの両者に対して、「私、西表耶麻子は、先輩のことが大大大嫌いで。同時に大大大大大大好きなのです」
と、呼びかける。そして始まるMajiでKoiする5秒前のイントロ・・・



・アニメと実写/キャラクターとアイドル
やはりヤマカンが監督であるからには、随所にアニメ/実写の対比を見て取ることができる。特に後半の祭りのシーンで、揺れるフレームで「炎」を映し続ける、非常に長いカットを導入していてる点など。しかし、その区別は厳密なものでないし、アニメ的な発想を実写に持ち込んだ部分の偶然性による面白さを期待して作っているのかもしれない。
と書いていたら、こんな監督インタビューを見つけた。「偶然性」とまで本人直々に仰っているので(苦笑)、この話は掘り下げないことにする。 
http://closeup-nettube.livedoor.biz/archives/3378178.html


「キャラクター」に絞って考えてみる。
アニメでは「キャラクター」という要素が非常に重要であり、キャラクターが立っていないとアニメは成立しないと言っても良いくらいである。また逆説的に、キャラクターさえ立っていればストーリーその他の要素が不十分でも「アニメ」は成立する。
今回の登場人物達は、どのような「キャラクター」だったのだろうか。
まず、憧れの南先輩。彼は非常に分かりやすい。耶麻子の妄想の中では彼が通れば風が吹くし、いつも爽やかな笑顔を振りまいている。また反面、「裏の顔」も分かりやすく、神社でつるんでタバコを吸ってくれるし、直角に根性の曲がった性格として描かれている。実にアニメ的である。
友人の喜久子もこれまた凄い。低身長、おさげ、眼鏡、暗く、友達は居ない、いじめられっ子で、そして実は可愛く、超金持ちのお嬢様。これまたアニメ的である。
不和先輩は、はんにゃ金田がハマり役。「クサイ・キモイ・ウザイ」事この上ないし、「虚構」の南先輩の対極として「現実」を表す存在として配置されているが、あまりに「超」現実的である。だがその有り余る芝居の「クサさ」をはんにゃ金田が違和感無く演じていて、耶麻子に対する数々の「クサ過ぎる」台詞の数々も反発を感じること無くいい感じに2割くらいさらっと入ってくる。
問題なのは耶麻子。裏表のないベタな不和先輩に対し、耶麻子は自らの心臓病を自覚し、残り少ない人生を有意義に生きるため、「夢見る乙女」を自ら演じて没入し、心の中ではどんくさい喜久子を見下して安心感を得ているような2面性を持つ人間として描かれている。
もしこの作品がアニメであれば、耶麻子はもっと魅力的なキャラクターとして描かれていただろう。しかし、この作品は映画であり、もっと言えば「川島海荷がヒロインである映画」なのである。川島海荷の熱演・努力は認めたいが、如何せん彼女の持つ資質が耶麻子というキャラクターにどうにもマッチしないのである。
夢見る乙女を演じるには、あまりに「無理している」感が強く、また、たびたび指摘されるようにこの映画では全編にわたって川島海荷の内なる声としてナレーションがひたすら挿入され続けるのであるが、彼女のハスキー掛かった声は(失礼な話だが)川島海荷の演技・ビジュアルにマッチしていない。
また、後半になって登場する「本当は最低な私」を演じるには、これまた残念ながら彼女はピュアすぎた。カルピスのCMに代表される彼女の一般的な清楚なイメージを突き崩すには程足りない。「クサイ・キモイ・ウザイ!!」と連呼する声だけ聞くととても良い感じなのだが、やはりここでも彼女のビジュアルが邪魔をしてしまう。声優としての起用だったらよかったのかもしれない。
この2面性のどちらでもないところにいる川島海荷。演技力が足りない、とバッサリ評価してしまうのは、いささか可哀想か。キャスティングミス、ということにしておこう。


川島海荷のハスキーヴォイスを聴いていて、途中から小野恵令奈の顔が浮かんできた。彼女だったら、「キラキラパワー」で夢見る乙女はお手の物、そして喜久子や不破先輩を罵る「本当は最低な私」も上手に演じられたのではないだろうか。


ネット上での反応を見ると、この映画の評判はあまり芳しくないようだが、やはりそれは「川島海荷を魅力的に描けなかった」という一点に集約できるのかもしれない。
上に引用したインタビュー内で監督自ら語るように、映画というものはアニメと違ってすべてを書き込まなくても「偶然撮れてしまう」ことがある。計算して計算しつくして撮ったものが、計算外の効果を持って現れることの方が多い。そしてそれが映画の魅力でもある。
同じことは、アイドルにも言える。アイドルは皆、計算して計算しつくして「私」を作り出すが、ファンが感じる魅力は、その計算・演じられた部分以外・以上のところにある何か、偶然性・神秘性を持った部分にある。
アイドルが映画に出るというのは、つまりそういうことである。この映画では、川島海荷が演じた部分・設定されたキャラクター以上の何かとして現れる川島海荷の魅力を見せることが出来たのだろうか。自分には、そこが欠けていたように思われる。


・アイドルが踊るということ
なんだかんだ言って、耶麻子が父さんも母さんも友達もウザイ先輩も大好きな先輩も現実も虚構もまた良し!!と「すべて」を受け入れ、みんな大好き!と叫んだあとに全員で「MajiでKoiする5秒前」に合わせて踊れば観客も幸せに包まれてあぁよくわかんないけどいい映画だったかもしれない、とある程度納得してしまうものなのである。
ヤマカンといえばハルヒあり、ハルヒといえばハルヒダンス。ヤマカンの映画にしてラストのダンスは必然である。
なぜアイドルは歌い、踊るのだろうか。その結論は、歌って踊ればそれだけで魅力となるから、という答にならないような答えに行き着くしかないようにも思われる。
とにかく、川島海荷がヒロインを務めたこの山本寛監督の映画は、「現実とか虚構とか色々あったけど、歌って踊れば可愛いしそれでOKじゃね?yes多幸感!」という明確なコンセプトのもとで作られたに違いないわけで、端的にその作戦は大成功しているのである。いくら川島海荷の歌が下手だろうと、踊りが下手だろうと、そのような批判は全くの無意味であり、「歌い踊ること」という伝家の宝刀が抜かれてしまった以上、我々はつばを飲み込み「川島海荷かわゆすなぁ」と反応するしか無いのである。


繰り返しになるが、逆に言えば、そこで踊るのは川島海荷でなくてもこの映画は成立するわけであり、川島海荷に必然性を持たせられなかった点で、アイドル映画としては失敗だったのかな、とまた思った。しかし始めにも書いたように、それなりに面白く見れた部分もあったので、山本寛監督の次回作に期待したい。


追記:山本監督の個人ブログhttp://wind.ap.teacup.com/kanku1974/を見て。
正直ヒロインに魅力ないわ、という意見に対し、これアイドル映画じゃないから!って反論はどこまで通用するのか。 アイドル映画とカテゴライズすることが間違っていたとしても、登場人物は魅力的に(ノットイコール可愛い)撮って欲しいものだ、とは思う。