ラジオとアイドル 〜嗣永桃子・田村ゆかり〜

自分にとってラジオというメディアはちょっとだけ特別なところにあって、他のメディアよりもメタ的に見れている部分が少なくて、パーソナリティの「本質」だとか「ぬくもり」だとか「近さ」だとかいう、一般的に言われている「ラジオの力」なんて怪しいものを割と心の奥のほうでマジに感じちゃってる部分があるのです。だから、「アイドル論」などというこれまた怪しいものを書くために目線・文体がメタ的になりがちであるこのブログにラジオの話題を書くことは意図的に避けてきた節があるのですが、
id:berryzhakaseさんの
http://d.hatena.ne.jp/berryzhakase/20100307/1267984469

のエントリや、
id:ealさんの
http://twitter.com/moegino/status/10161568178

のツイートを見て何かを書きたい気分になってしまったので少しだけ書きます。ええ少しだけ。



3/5のSTAR digio痛快!ベリーズ王国」と3/3のレコメン!

前者は今回はじめて聴いたのだが、まず驚いたのは夏焼雅の雰囲気。桃子も最後に指摘して雅本人も嬉しそうに話していたが、とにかく大人びた雰囲気で進行も非常に上手く、感心した。ベリは古くからのファンが多く、父親気分でメンバーの成長を見守るのが通だぜ!という話を良く聞くが、2年ほどしか知らない新参の僕にとってここまで確かな「成長」を感じたのははじめてであり、定番のおバカキャラとは違った一面を見せる彼女に対しいままでで一番の評価を上げたいと思った*1。そこにきてまた「メリーゴーランドでお姫様抱っこは危なくない?」という熊井ちゃんに対しありがとう熊井ちゃんは本当に変わらないねありがとう!と定番の笑いをこれでもかというくらい楽しめてしまう、この多面性もラジオの魅力なのかなぁと。

そして桃子。声がすっかり枯れていていつものぶりぶり声が出せずにやりにくそうにしていたが、その低い声に対して雅が「いつものじゃん笑」とあたかも普段の様子が「キャラ作り」であるかのようにツッコミを入れ、当然桃子は怒る。

エレンさんが

桃子の声は(も)上と下があって、枯れてるんで下のほうしか出てないって感じた。でも、このまま治らなかったら、彼女の本質の部分というか、ぶりっこをそぎ落としたソリッドな感じだと感じるので、実は悪くないと思っている。でも、ぶりぶりがなくなるのは、それはそれで寂しいものです。

と書いていたが、そうだよなぁそうだよなぁと納得してしまった。ただちょっとだけ僕と違うのは、「ぶりっ子」の部分もまた彼女の本質に近いところにあるんじゃないのかな、という点。昨日何の番組だかで小倉優子が「中学生の時って自分を姫って言っちゃう子、いませんでした?私それでした笑 痛いですよね笑」と話していたが、桃子にもそういう部分があるのだろう。ただ、その部分が徐々に変わりつつ(消えつつ?)ある。

その変化を察してか察せずか、Berryzの周りのメンバーは桃子の「ぶりっ子」な部分を流したり過剰に反応してみたり。特に千奈美は桃子との関係でアイドルグループには宿命である不仲説をささやかれたりもしている。レコメンのゲスト出演を聞いても、K太郎氏が桃子に対してデビュー時からの長い付き合いがありラジオパーソナリティとしてさすがだなと思わせるような実にうまい「流し」っぷりを見せていたのに対して*2千奈美はどうも桃子のそういう部分に過剰反応してしまう節があるようだ。しかしラジオを聞く限りそれは「千奈美の性格」的なものの範疇を超えるものではないし、決して嫌な感じはしない。逆にそういう反応が桃子の「おいしさ」にもつながっている部分だってある。僕は彼女たちが本当は不仲かどうかなんていう「真実」は知りたくもないが、ラジオではそういう部分を感じさせないし、むしろ熊井ちゃんのマジレスぶりに対する雅・桃子のフォローなど、円熟した関係性さえ感じさせてくれる。そういう点が、動画にはない、「見えない」ラジオの良さなのかなと思った。


さて最後に。
すっかり一人しゃべりも板についてきた感のある桃子。コーナーの「桃はアイドル?」に代表されるように、「ぶりっ子」といわれる部分、あるいは「プロ」と呼ばれる部分をネタにしてリスナーのツボをしっかり抑えている。メタなのかベタなのかわからない、たぶん本人にもわかっていないだろう、その両方を自在に操る不思議な魅力を、さて僕たちはただネタにして消費するだけでいいのだろうか。僕たちは結局アイドルを消費するするしかない側だけれど、送り手側からネタにすることは果たしていかなる結果を生むのだろうか。

アイドルの芸人化が叫ばれているが、芸人化=身を削ること、つまり身体性を切り売りすることである。前述の小倉優子がかつてのこりん星人・お姫様キャラクターを自ら「痛かった」と自虐的になることで、つまり身体性を切売りすることで芸人化し新たな人気を得ている。もちろん賞味期限の短いグラビアアイドルが芸能界でこれだけ長く活躍できていることは非常に立派だし、彼女自身の持つ様々な魅力がその人気を支えているのだろう。しかし、アイドルが生き残るすべが身体性を切売りすることしか残されていないとしたら(もちろん具体的に脱ぐなどの方法も含めて・・・)、それはとても寂しくはないだろうか。

本業の芸人・柳原可奈子*3はかつて桃子のラジオにゲスト出演した際、桃子に現代女子高生風の正反対なキャラクターを導入することでメタ的な笑いを取れとアドバイスした。
これを聴いたとき僕は非常に感心した。柳原は、桃子が芸人ではなくあくまで「アイドル」として生き残るすべとして、「アイドル=ぶりっ子」を「痛い」として切り捨てるのではなく、「アイドル」という虚像に対するカウンターとしてもう一つ新たに「女子高生キャラクター*4」というこれまた虚像を取り入れることでアイドルの部分を守る、という方法論を提示したのだ。

さらにその後嗣永桃子ぷりぷりプリンセスには、ラジオパーソナリティの手本として田村ゆかりがゲストに招かれた。深くは語らないが、二人は互いに似た部分を感じ取ったことだろう。
田村ゆかりは初期の完全なる姫キャラから見事に転身し、「17歳(あるいは15歳?)」の「ぶりぶりアイドルとしての私」という部分と、「30過ぎ」の「ダウナーでちょっと黒い私」という部分を状況によって見事に使い分ける、彼女特有の世界観・話術・演技力・歌声と相まってカルト的人気を誇るアイドル声優となった。ここにもまた、アイドルの部分を守る方法論が示されている。

しかし、僕が嗣永桃子が目指すのは田村ゆかり的な方法論ではない。田村ゆかりは、自らのキャラクターの方向性の二極化を推し進め過ぎてしまった。典型的なアイドル的なぶりっ子の部分と、ある種伊集院的なダウナー部分との落差は非常に笑えるし本気で素晴らしいと思うのだが、「ゆかり王国」の「国歌」を設定するにまで至ったそのアイドル部分の「設定・世界観」に僕はついていけなくなってしまった。そのラディカルな二極化のせいで、田村ゆかり本人が持つ年相応のアダルトな魅力が霞んでしまったのはとても残念だった*5

そう、嗣永桃子の魅力は繰り返し述べているように、メタとベタのハイブリッドである。どこまで本気なのか、どこからがキャラクターなのか。そんなものはわからない。「キャラ作りじゃない!」。本人がいうのだから、きっと作っていないのだろう。彼女は無意識の内にアイドルなのだ。そんな彼女の魅力であるハイブリッド感を、わざわざ「本当の等身大の私」「ぶりっ子のアイドルとしての私」に切り分ける必要など全くない。
「ぶりっ子のアイドルとしての私」が送り手の側からもネタ化され、今後嗣永桃子自身が自分のキャラクターにどう悩み、どう変化して行くのかは分からない。アイドルだって年をとるし、変わっていく。嗣永桃子は2009年の自分を「適当だった」と評した。でも、その適当さが彼女のハイブリッド感を絶妙なバランスで生み出していた。そして2010年、果たして嗣永桃子はどこへ向かうのか。やはりまだまだ桃子から目が離せそうにない。*6

*1:何を隠そう今までベリの中では雅ちゃんは一番興味が無かったのであります

*2:別の話だが、K太郎氏の「スマイレージは会った事ないけど、それがいいんじゃん!応援したいというか」という発言には大いに賛同したい

*3:皆さんご存知だとは思いますが、柳原可奈子嬢は嗣永桃子の大ファンであります

*4:「だりぃ・・」「まじうぜぇ」的なやつです

*5:僕は密かに田村ゆかりの人気がもっと落ち着いてからトーク半分・飛び曲無しのアダルティーな歌半分のコンサートが開かれるのを待っているのである

*6:言及するつもりの無かった田村ゆかりの名前まで出してしまい、思ったより長くなってしまった。このテーマは(ラジオとアイドル)自分にとってとても重要なものなので、いつか改めて論じ直してみたいとおもう。ちょっと私情入りすぎて論じるも何も・・・という感じだけれども。もう一つ補足。エントリ中で小倉優子田村ゆかりを例に挙げているが、僕が批判したキャラ売りの構図に完全に当てはまることなどもちろん無く、彼女たちも少なからずハイブリッド的な魅力は持ち合わせている。アイドルとはハイブリッドなのだ!