フーコーの権力論と自由論

フーコーの権力論と自由論―その政治哲学的構成

フーコーの権力論と自由論―その政治哲学的構成

読みました。いつぞやに友人に勧められたので。

さてざっと感想。この本、著者の関良徳氏は一橋の法学研究科の方でありまして、バリバリの法学系研究者です。ですから前半にフーコーの提示する規律権力・生権力をざっと説明し、中盤以降では「法と権利の問題」をフーコーの権力論の視点から問う、という構成になっており、法学部のわたくしにはとても興味深い視点で読み終えることが出来ました。

僕は規律権力が法的権力の及ばないところで力を発揮するものである、という基本認識を持っていたため、規律権力を法的権力から切り離された存在だと思っているようなところがあったのですが、本書ではその視線に批判を投げかけていてはっとさせられました。
法は規律権力に依存しているが、規律権力の正統性自体は、その「反=法律」的機能にも関わらず「下位の法律」という犠牲的外見によって賦与されたものである。

最終章ではマイノリティが「個別的真理」の権利を訴える問題化するプロセスを、監獄制度改革の中に具体的に見ています。筆者はそのような問題は本来は民主主義の立法プロセスの中で解決されるべきだが、現在の民主主義では規律権力によってマイノリティが抑圧され解決の可能性がほぼ無いため、その解決を司法(裁判所)に見るという策を示しています。ここでは伝統的訴訟モデルが調和の回復を目的とし、裁判所の正当性は政治権力からの独立にあるとしているのに対し、現代型の訴訟モデルでは、公共的価値の見直しと新制度・政策の形成を目的とし、裁判所は政治権力の一部であり、その正当性は公共的価値の実現にあるとされています。


さて、日本の裁判所では、裁判官というのは公共的普遍的で同一の価値観を持ち、ある問題に対してその普遍的価値観を適用し、だれが裁判官でも同じ結論を導くという特徴があるのに対し、米国では一人一人の裁判官には個性・異なる価値観があり、ある問題に対して違った結論を導くこともありうるという特徴があります。そして、統計データによると日本に比べて米国の方が一般人の裁判官・裁判システムに対する信頼度は高い傾向があります。また、日本の裁判所は高度な政治の問題に言及するのを避けたがる傾向があり、また米国以上に判例を重視し過去の最高裁判所判例はよほどでない限り覆ることはありません。

日本型・米国型のどちらの裁判システムが「正しい」のかはわかりませんが、筆者が主張する裁判所による法/制度創造・価値実現はアメリカ型の裁判所を意識していると言えるでしょう。
ただしここで注意しなければならないのは、裁判所も決して規律権力から独立ではない、ということです。裁判官の指名権は内閣が持っているし、実際にも過去には佐藤内閣において最高裁判所の裁判長の指名に対し保守的な人物を指名するよう圧力がかかったという告発例もあります。アメリカでは裁判官の顔・人物像がクリアな分、その人物に対する干渉(権力関係!)も必然的に激しいものとなるでしょう。法/制度創造を裁判所に任せるにせよ、規律権力の影響からは逃れられないし、その点を常に意識し改善して行くことがなにより大切なのかもしれません。

と、法学部の法社会学の授業内容を思い出しながらふむふむと楽しく読みました。ぼくは法社会学が好きなのかもしれませんね。試験は放棄しましたが。


アイドル論を考えすぎてつかれたので優しくですます調で今日読み終えた本への感想を書いてみました。内容はこちらの方がよっぽどハードな感触ですが、いい感じに和らいだかなぁと。ではでは。