クール・ジャパノロジーの可能性 コンテクストとアイドル その2

一昨日に引き続き、昨日も東工大のシンポに行って参りました。

国際シンポジウム 「クール・ジャパノロジーの可能性」 3/6
「日本的未成熟をめぐって」
登壇者
東浩紀(批評家)
黒沢清(映画監督)
宮台真司社会学者)
村上隆現代美術家
キース・ヴィンセント(比較文学者)

東氏を含む参加者の多くが「神シンポだった」と表現したように、僕にとっても、「神」という言葉を使うのがその軽さゆえ躊躇われるくらい素晴らしい、心に残るシンポジウムだった。

キース氏の基調講演は、原爆・アメリカに対する歴史的背景から江藤淳大江健三郎を参照しつつ日本の「未成熟」性と「成熟」への強迫観念を鋭く切り出し、登壇者の村上隆黒沢清の作品から、近代的未成熟/成熟の二項対立を乗り越える形での、多様性の肯定としての成熟、未成熟ゆえの成熟の可能性を見出すという非常に刺激的かつ明快、そして単なる分析にとどまらず可能性を感じさせてくれるハイレベルな講演だった。

村上氏のMr.をめぐる15年がかりのプロデュース計画は、西洋アートシーンへの内部からのハッキングと日本のロリコン文化の紹介という両義性を兼ね備えた決断的で意欲的なものだった。「まず西洋で認知される」ことを目標にブレなく実に戦略的にプロジェクトを遂行し、「何が受けるのか」を実験的にtry&errorを徹底し、ようやくアートシーンで一定の評価を得てからMr.が本当に書きたいものを発表するようになるところまで到達した。Mr.のゴールが「コミケ」であるというその逆転性が実にプロジェクトを象徴するものであった。

黒沢氏は自分の映像の「狙い」と実際の海外での評価され方との落差に焦点を当て、完全に狙いを持って映像を作り込むことが「成熟」であり、受け手に何かを期待すること、あるいはカメラを回しさえすれば必ず何かが映り込んでしまうという映画の性質そのものが「未成熟」であるかもしれないという、クリエイターならではの挑戦的な切り口を披露し、とても驚かされた。

宮台氏は3人の講演で語られた「未成熟」の構図を非常に簡潔にまとめあげ、「カワイイ」の本質が成熟しないまま性に乗り出すことの肯定であるという分析を行った。
宮台氏は、キース氏からは「queerの開放」、村上氏からは「カワイイものの無関連化機能」、黒沢氏からは「off beatの受動性」という日本のポップカルチャーにおける「未成熟」に関わる言説テーマを引き出した。


未成熟ゆえの成熟、そして「カワイイ」以外の成熟の方法があるのではないかという新たな課題/可能性を示してシンポジウムは終わった。
未成熟へのフェティシズムと成熟への強迫観念を持ち合わせているのは日本ポップカルチャーだけではない。まさに僕自身がそうであるし、おそらく会場にいた多くの人が自分の中に図式を見出したのことだろう。
成熟への強迫観念にとらわれること無く、未成熟ゆえの、成熟への新たな可能性。成熟の脱構築可能性をまざまざと見せつけられ、多くのことを考えさせられた。


さてここからは例によってジャパンポップカルチャーの中のひとつ、「アイドル」について考えてみる。

まず今日の講演でも非常に面白かったのは、村上氏・黒沢氏のクリエイター陣がそろって「作品の狙い・コンテクストが(海外で)誤解される」という経験を語ったこと。
この現象に対し、黒沢氏は受け手に対して含み・余剰のある作品作りを行っている自身の姿勢、そしてすべてを書き込まなければならないアニメーションと違いカメラを回せばなにかしらが映り込むという映画の性質自体を「未成熟」だと表現した。
そういう意味ではアイドルというカルチャーは非常に未成熟的なものである。アイドルはドラマ・バラエティに出演したり歌を歌ったりすることはあっても、基本的には「そこにいること」それ自体で成り立つ。あとはファンたちが勝手に物語を読み込んでくれれば良い。
だが僕たちはその余剰部分をファンたちの間で補完することに最も重点を置いている。ライブであれ、その一回限りのライブでは何が起こるは予測不能であり、たとえセットリストが同じであったとしても、全く同一のフィルムが上映・放送される映画やアニメーションには比べものにならないほどに観客(受け手)とアイドル(送り手)の間に相乗効果が発生し偶発的に創発が起こる。
そもそも、その意味では人間というものはすべて未成熟なものなのかもしれない。黒沢氏の言う「アニメ=作りこまれたもの=成熟/映画=余剰が残るもの=未成熟」の図式は、「人間=現実=成熟/(アニメ)キャラクター=虚構=未成熟」という近代的な二項対立の価値の転倒を例示して「成熟」概念の脱構築を狙ったものだと言える。ここでは「アイドル=虚構=未成熟/身の回りの女性or彼女=現実=成熟」という典型的な二項対立は解体され、アイドルは虚構とも現実ともつかない幽霊となり、実に「cool*1」な存在となる。

村上氏については、昨日のエントリで秋元康との比較でわかったような口ぶりで名前を出した事について反省している。
彼は西洋アートシーンを戦略的にハッキングし、資本主義というシステムの内側で今も第一線から脱落し影響力を失わないよう戦っている。そして「スーパーフラット」と題した日本のオタクカルチャーを単に己の成功のために使い捨てるわけでは決して無く、Mr.のプロデュースに見られるように、日本のオタクカルチャーの可能性を信じている。実験でありながら、「カワイイもの」を信じている。マジなのかどうかわからない、それが彼の仕事の魅力なのかもしれない。
僕が日頃からAKB、というより秋元康を批判しているのは、村上隆が確実にオタクカルチャーあるいは「カワイイもの」のoff beat感の「cool」さを信じているのに対し、彼がアイドルの「cool」な部分を信じていないとつい感じてしまうからである。
秋元康はアイドルという現象について日本一理解している人間だ。宮台氏が言う現実の無関連化機能、つまり現実をゲーム的に生きることもゲームを現実とみなすことも等価であると言う点、これをアイドルに置き換えると、現実の女の子をアイドル的に愛すのもアイドルを現実の彼女のように愛すのも等価であるということになる。夕やけニャンニャンでは素人をおニャン子クラブに仕立て上げ、AKBではアイドル・そしてアイドルにとって不可欠な物語をも生み出す「フォーマット」を完成させた。しかしだからといってこのフォーマットをそのまま海外へ輸出するとはどういうことなのだろうか。僕には彼が、アイドル現象の中で忘れてはならない「アイドル本人の魅力」をあまりにも軽視しているように思えてしまう。人間そのものが一番未成熟かつ未知で魅力的なのに。


シンポジウムはあまりに得るものが多く、講演のあとすぐに黒沢清監督の「トウキョウソナタ」を借りてきて鑑賞しこれまた実に素晴らしい映画だったりと、一日他ってもまだ整理しきれていない。


ただこれだけは言える。どこまでマジなのか、あるいはメタなのかわからない。成熟と未成熟のあいだ。未知のものへのあこがれ・フェティシズム。アイドル*2とは実に未成熟で「cool」である。

*1:1日目のエイブル氏の言葉を借りるなら、cool=未知へのあこがれ・フェティシズム

*2:嗣永桃子はすべて当てはまりますね。彼女こそ現代のアイドルの申し子ではないでしょうか。桃子cool!!