アイドル領域vol.6 アイドルとフラッシュ・モブの可能性

2013年12月31日、コミックマーケット85の3日目にて頒布される『アイドル領域 vol.6』に、「アイドルとフラッシュ・モブの可能性」という論考を寄稿しました。



コミックマーケット85
期日:12月31日(火)10〜16時
場所:東京ビッグサイト
ブース:西ほ−35b
サークル名:ムスメラウンジ
『アイドル領域Vol.6』(新刊)
(全108頁、価格:1000円)

ここ数年のアイドルブームの盛り上がりは今更指摘するまでもなく(という出だしで始まる文章を書くのが嫌になるくらいに)、また、それに呼応するように、アイドルを論じる文章を様々な媒体で目にする機会も非常に増えました。
アイドル"を"論じる、といってもその在り方は多種多様です。「アイドル論」なるジャンルは、未だ成熟しているとはいえず、様々な学問や、蓄積のある他ジャンルにおける論の型を使って、アイドルを語る、あるいはアイドルを使って社会を語るパターンが多く見られます。
例えばアイドル論の良きお手本となるであろう、文芸評論の中にある大きなテーマ、「社会と文学」あるいは「政治と文学」にそってアイドルを考えた場合、資本主義・現代情報社会の申し子であるアイドルは、社会(あるいは政治)を語るのにもってこいの題材となります。社会学や経済学については、いうまでもないでしょう。
また、アイドルを語るというとき、個別のアイドルそのものに強くフォーカスをあてるパターンと、ファンや運営を含んだアイドル現象を俯瞰で語るパターンに大きく分類できます。その中でも、アイドル現象については、アイドルそのものよりもその受け手である「アイドルヲタク」の行動様式が非常に特徴的なため、語りを生む大きな原動力になっている印象があります。
特に、ここ数年ではAKB48の「総選挙」がマスメディアでも取り上げられ、アイドル現象の象徴となっていたために、「アイドルと社会」、あるいは「アイドルと政治」に関する多くの語りを生み出しました。その語りの多くが、AKB総選挙に象徴されるアイドル現象を馬鹿らしいものと捉える一方で、一部の語り手からは、人々を動員する力というアイドルの可能性を見出し、これを肯定的に捉えるような視点での語りも登場しました。
参考:
初音ミク出馬せよ、について
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20091213/1260722698
AKB48選抜総選挙/アイドルの公共性
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20120606/1339006616

個人的には、アイドル現象そのものについての考察の蓄積が無いままに、その表面だけを見て(いるように思われてしまう程度のレベルで)アイドルと政治を接続して語ることは、"アイドル論"そのもののレベルの低さが露呈してしまうという観点から危惧の念を抱いていました。
しかし、その危惧は、AKB総選挙の盛り上がりも、それに対する反応や語りも一過性のものに過ぎなかったという、それはそれで失望するような理由で、杞憂に終わろうとしています。
恥ずかしいようですが、それでも自分は、アイドル現象には、何かしらの「可能性」があると漠然と信じています。だからこそ、それを安易にぶちあげて政治を語ってしまうような風潮に、懸念を抱いていたのです。

すこし話が飛びますが、自分には、何かしらの(政治的)可能性があるようで、しかしそれを政治に直に接続して語ることの危うさを感じていた現象があります。それが、フラッシュ・モブです。2011年に発生した東日本大震災及び原発事故以後、反原発のデモが象徴するように、人々の連帯の新しい形がクローズアップされることが増えました。一方で、そこに「新しい可能性がある」と断言することの難しさも、多くの人が同様に抱えているのではないでしょうか。

そういった状況で、アイドルやフラッシュ・モブ(あるいはデモ)をそのまま並列に語ることの欲望と同時に、危惧を抱いているというフラストレーションを常々抱えていました。しかし、非常に個人的な話ですが、今年から社会人として働くということが、改めてこのテーマにチャレンジしてみようと思うきっかけになったのかもしれません。ただし、これらの社会的意義と可能性を語るには、時間も知識も圧倒的に足りません。そこで、辛うじて自分にできること、それは、あくまで「アイドル論」という枠組みの中にとどまるという甘えあるいは制約の下で、「アイドルとフラッシュ・モブの可能性」について、その「楽しさ」にフォーカスを当てることで、それらの社会的意義を語る上での最低限の下地について、何か示唆を示すことではないかという思いから、本論考を執筆しました。

前置きが非常に長くなってしまいましたが、本論考を呼んでくださった方々には、できるだけアイドルとフラッシュ・モブの「楽しさ」が伝わると良いなと思っています。自分の悪い癖ですが、「読みやすさ」に欠ける文章であるのは、反省しなければなりませんが。

多忙さと、貴重な土日をアイドル現場に足を運ぶために使いたいという思いから、ブログの更新も長く途絶えてしまいましたが、『アイドル領域 vol.6』への寄稿をきっかけに、また色々と思ったことを書いていければ良いなと思っておりますので、今後もよろしくお願い致します。

アイドルビジネス論2013・吉田豪×JJ小野 Vol.2 〜アイドルと音楽のシアワセな関係〜/アイドルを「守る」ということ


2013年4月11日に新宿LOFT行われたで行われた『アイドルビジネス論2013・吉田豪×JJ小野 Vol.2 〜アイドルと音楽のシアワセな関係〜』というトークイベントに行ってきた。
http://tackk.com/idolbiz2

自分がtwitterでぼんやりと観測した範囲では、どうやら「元」LinQプロデューサーJJ小野氏が前日にアイドル推し増しTV(http://blog.livedoor.jp/notftv/archives/26370184.html)に特別出演し、数々の楽屋裏話や他陣営のアイドル批判を行いいわゆる「炎上」が発生したらしく、今回のイベントにも注目が高まっていたようだ。自分はこの放送を見ていなかったので氏の発言の詳細や真意は分からないが、一昨日東京カルチャーカルチャーにて行われた『アイドルのいる暮らし』出版記念イベントにもJJ小野氏が出演しており、その場でもオフレコと称して楽屋裏話やアイドル業界の批判を行なっていたので、おそらく昨日も似たような発言があったのだろう。


一昨日、今日のイベントにおいて、JJ小野氏が主に批判していたのはAKB48タワーレコードであった。
AKBへの批判を要約すると、
1:AKBのビジネススキームが非常に優れていることを認めつつ、その利益が既得権益者にしか流れず、アイドル本人に還元されないこと2:(それだけ稼いでいながら、)アイドルに問題が起きたときに、「大人(秋元康)」がメンバーを守ろうとしないこと
という内容であり、タワーレコードへの主な批判は、
1:タワーレコードのビジネススキームが最悪である
2:自分はアイドル(LinQ)のためにこんなに頑張っているのに、タワレコはまったくアイドルを売る努力をしない
というものだった。

今回のトークテーマは「アイドルとビジネス」と題されていて、JJ小野氏もしばしば「金融の人間」としてビジネススキームの話に触れていたが、ビジネスという観点から結局のところ彼が重視しているのは、最終的にどうやって利益をアイドル本人たちに還元するかという点のようだ。また、彼はメンバーたちがアイドルとしての活動が終わったあとの長い人生についても非常に強く意識しており、アイドルをいち社会人として「教育」する重要性についても熱弁していた(他陣営の楽屋裏批判はこの強い意識が反転したものなのだろう)。
イベント終盤にはこれらの批判がヒートアップし、ついに氏が「爆弾」と称していたいわゆる「業界の闇」に切り込んだ際には、その不正を是正し、自らが手がけたアイドルたちが生きる世界を少しでも清くしたいと、非常に熱く、時に涙をこぼしながら自らの思いを語っていた。

JJ小野氏の主張は、ビジネススキームに関してはさておき*1、アイドルに関する理想という点では美しい正論のように聞こえる。だが、自分は一昨日と今日のイベントにおいて彼にまったく共感することが出来なかった。

たしかに、アイドルに対していち社会人としての教育を施すのは必要かもしれない。だが、アイドルファンとしての自分からすれば、アイドルが楽屋裏で業界人に対して挨拶ができようができまいが知ったことではないし、どちらかといえば挨拶が出来ないようなちょっとダメな子がかわいいと感じるかもしれない。もっといえば、社会人として生きていくには色々と問題があるかもしれないが、だからこそ反動としてアイドルとしての才能が輝く子というパターンを想像するとそれはもっと魅力的に映るように思える。このような見方の趣味が悪いのは理解しているが、そのような趣味の悪さをも引き受けるのがアイドルという存在の魅力の一つなのではないだろうか。

もちろん、これはファンからの視点であって、あくまでプロデューサーである氏の立場からは依然として全くの正論であるという反論もあるかもしれない。しかし、プロデューサーという立場だからこそ、より問題視されるべきである点を指摘したい。
それは、一見彼が何よりもアイドルのことを一番に考えているようでいて、しかしながら彼の主張はすべて「俺がアイドルに○○させてやりたい」「俺がアイドルに○○させてやる」という言い方に終始しているのだ。"俺が"アイドルを守ってやりたい、"俺が"アイドルに夢を見させてやりたい、"俺が"アイドルの活動が終えたあとを見据えて社会人としてのスキルを身につけさせたい・・・
彼が昨日の推し増しTVで「意図的に」炎上させてまで切り込みたかった業界の闇は、アイドルが依然として性的に抑圧されているという、意地悪に言えばずっと指摘されてきたものであった。だが、その構図を「俺が壊し」て、アイドルを「俺が守る」と純朴に言い切る彼のマッチョイズムでは、アイドルの性的抑圧を解放するどころか、別の回路でその抑圧を強化してしまうことにもなるのではないだろうか。彼が「プロデューサー」という権力者であればこの点にはより一層慎重になるべきである。しかし、彼はご存知のようにLinQの「元」プロデューサーである。「LinQに火の粉が降りかからないように自らが盾になる」と言いプロデューサー職を降り、昨日の推し増しTVでの発言に対しては

4月10日に行われましたUSTREAMの放送にて、弊社に所属しておりました小野純史氏の発言に関しまして、現在、多くのお客様、ご関係者様よりお問い合わせを頂いております。
これらの発言内容、意図につきましては、小野純史氏個人の見解であり、弊社ジョブ・ネットとは一切の関係の無いものでございます。
小野純史氏は2013年4月1日付けにて弊社を退社しており、現在弊社とは全く関係はございません。
弊社といたしましては前述の発言内容につきましては非常に遺憾であると共に、これらの内容にて多くの方々が不快に思われた部分につきましては、前所属会社として心より皆様にお詫び申し上げる次第でございます。
また、業界、関係者のみなさまには大変ご迷惑、ご心配をおかけいたしまして大変申し訳ございません。

http://ameblo.jp/loveinq/entry-11509602165.html

とまでLinQの現運営に言われている。
しかし、イベントでは依然としてLinQのメンバーを「うちの子たち」と呼び、彼女たちを徹底的に「守る」ことを約束するのであった。これではあまりに身勝手で、彼のエゴではないだろうか。


たしかに、昔から幾度と無く噂されてきたアイドル業界の問題は是正されるべきである。しかし、我々アイドルファンは、そのような問題が存在することを半ば認識しながらも、見て見ぬふりをしてきた。それは、そのような自分たちから見えないところにある不正からアイドルたちを守るどころか、自分たちがアイドルを愛するという行為が少しでも間違えたらアイドルを傷つけることに反転するという恐怖におびえ、時にその背徳感をも楽しんでいる自分自身に常に反省を差し込まずにはいられないからだ。
アイドルを守る、責任を取る。死んでもそんなことは心の底から言えない立場から、プロデューサーという立場にルサンチマンを抱いているだけなのかもしれない。だが、アイドルを守ることができるのは最終的にはやはりプロデューサーだ。心の底からアイドルを守ってほしいからこそ、安直にアイドルを守るだの業界を壊すだのといって単純に正面衝突して自爆という方法をとってほしくないのだ。

だが、今日のイベントではそんなJJ小野氏の信念を相対化するような、出演者のブッキングの妙をみることができた。例えばそれはJJ小野と同じステージ上に座っていた元メロン記念日大谷雅恵さんだ。大谷さんは、ハロープロジェクトという事務所に所属し、10年間というアイドルとして非常に長い年月をメロン記念日として活動した。その期間はJJ小野氏も本人も認めるほどに金銭的に安定した事務所から収入を得て、「麻薬が問題視された時期には警察を呼んで麻薬の講習を受けた」というような裏話が出るように、ある意味事務所に「守られて」いた。
大谷さんはメロン記念日が解散してから、一般人として生きていくのではなく、再びソロ歌手という道を選んだ。正直に言えば、その道は厳しく、決して「成功」しているとはいえない。もはや彼女はハロプロに「守られて」はいない。
だが、レコード会社の流通を「マージンとられるのが痛い」と正直に語りつつも、「ライブを見てくれて、その上で買ってくれるファンの顔が見れるのが良い」と語り、イベント終了後の物販でCD-Rを手売りしていた大谷さんの姿はとにかく力強かった。


また、別の出演者であったトラックメイカーのmichitomo氏が、自らを「クソDD」と呼び、笑いを誘いながら、アップアップガールズの曲作りを比較的自由に任されているのに対し、音楽屋として様々なクライアントの要望になるべく沿いながら曲を作るというプロとしてのあり方を語っていたが、もしかしたらここにも何かのヒントが隠されていたかもしれない。


アイドルをめぐる様々なプレイヤーがどのような意識で行動すればそれぞれ皆が幸せになるのだろうか。アイドルを「守る」とはいったいどういうことなのだろうか。依然としてその答えは出ない。


そのためにも、次回も、第三回目のイベントでその答えをファンを含めた様々な立場の人達が一緒に考えていきたい・・・とは正直思わない。はっきりってビジネスのことなどどうでもよいのだ。しかし、矛盾しているかもしれないが、自分がいちアイドルファンとして何もめんどくさいことを考えないで勝手に行動しているだけでアイドルに関わる皆が幸せになるような仕組みを考えることには興味がある。

それならそれで、ビジネスのことを考えるのが好きな人が勝手にそのような仕組みを考えてくれれば文句はないのだが、どうやらそれほど上手くは行かないようだ。


アイドルのいる暮らし

アイドルのいる暮らし

*1:さておいてみたものの、タワーレコードと組んだシングルリリース時に売上の大部分がイベントの「接触」で得た売上であり店舗売上が恐ろしく少数だったのでタワレコは無能である、タワレコなしでやれる、という話は、よくあるビジネススキームの変化に伴う中抜き論であり、宣伝能力やタワレコのブランド力そしてタワレコがもはやアイドルに関する「場」として非常に強い力を持っているという側面を無視した的外れな批判だと感じたが、私は彼が自称する「金融偏差値が高い」人間ではないのでひとまずはさておいてみた

RYUTist東京初ワンマンライブ/僕たちがRYUTistに見ているもの


アイドルを見始めるようになって5,6年ほどたった。更新頻度は低くなってしまったがこうやってアイドルのことばかり書いているブログも始めたし、アイドル領域というアイドル批評同人誌にも寄稿するようになったし、なによりネット生活の中心であるtwitterは自分のpostもTLの話題も大部分がアイドルのことばかりだ。
アニメやゲーム、声優、そしてアイドルと趣味が変遷してきたが、同じ趣味を持つ仲間と集まるようになったのは最近のことだ。アニメやゲームが好きだった中学生時代こそ同じような趣味を持つ友人は多かったためよくそれを話題にしていたが、高校で声優(田村ゆかり)にハマってからは一人でのめり込んでいったし、ライブにも常に一人で参加していた。2chのスレや統率のとれたライブ現場で匿名の「王国民」たちとゆるやかな連帯を感じることはあったが、今のようにライブ終わりにご飯を食べてその趣味について語り合う仲間は居なかった。

元々そういった慣れ合いはあまり好きではなかったけれど、twitterの登場により、いつのまにかアイドルファンの中でも一緒にご飯を食べるくらいに特に気が合う人が5,6人できていた。今日もRYUTistのライブのあとにその人達とご飯を食べていた。
特に気が合うといっても、好きなアイドル、出身地、年齢、聞いてきた音楽、そして何よりアイドルに対する考え方やスタンスは微妙に違っている。まるっきりバラバラというわけではないが、深く相手のことを知るようになるにつれて、それぞれの小さな差異に気づくようになる。
この仲間たちにかぎらず、twitterである程度の交流がある多くのアイドルファンの人達に関しても同じようなことは言える。アイドル好きという大きな(これはこれで狭い世界だが)共通点はあっても、フォローしている基準は「あまり不快ではない」というラインをクリアしていれば、見ているアイドルもスタンスもバラバラだ。異なる視点を持つ「他者」に出会うことができる、などと仰々しいことを言うつもりはないが、ある程度興味関心が絞られてくればくるほど、その狭い枠の中での小さな差異が大きく見えてくるものだ。


前置きが多少長くなってしまったが、今日はRYUTist初の東京ワンマンライブだった。前回RYUTistを見たのは、この一つ前のエントリにあるように11月に新潟古町でおこなわれたゆりり卒業LIVE。つまり今回が4人になったRYUTistを見るのが初めてだった。RYUTistのホームページのヘッダ画像が4人になってもあまり実感がなく、生で見るまでは4人の動画を見る気にもなれず、それでも新潟に行くタイミングを掴めず(2月に水戸で行われた新潟物産展のようなイベントにRYUTistが出演した時も少し努力すれば見に行ける環境にいたのだが、どうも気乗りしなかった)、あれよあれよという間に時がたち、3月になり東京でワンマンが開催されると知った。東京、ワンマン、その言葉がどれほどの意味を持つのか、意味がなくとも自分がどれほどのやっかいな意味を与えてしまうのかを多少危惧しながらも、発売日の開店10分後にタワーレコード渋谷店に赴き、60番代前半のチケットを手に入れた。


当日になり、整理券順に並ぼうとすると、知り合いが近い場所で待機していた。彼は「MIXが嫌い」と公言していることで有名で(?)、今日は座って静かに見ていたいなどというので、RYUTistはMIX入る曲も盛り上がる曲もありますよ、などと冗談めかして話していた。
MIXというのは散々その是非が論争の的になってきたし、一口にMIXが嫌いといっても様々な理由がある。自分も彼の気持ちが一部理解できるところもあるし、当然わからないところもある。個人的にもMIXは入れてもいい現場と入れてほしくない現場があり、また曲によってもその判断は異なるし、その理由ははっきり言って上手く説明できない。ただ、RYUtistに関しては自分は打たないけど周りが打つ分には気にならない。
また、彼とはRYUTistが東京でライブをする意味についても少し話した。RYUTistは新潟以外の場所でライブをすることは極めて少ない。それがどこまで戦略的なものなのかは分からないが、彼は「RYUTistは東京に安易に出てこないのが良い。地方アイドルはRYUTistを見習うべき」と話していた。それは半分は冗談だが、半分は本気なのだろう。これに関しても自分は全面的に同意することは出来ないが、そういう見方もひとつあることはあるだろう。
それよりも今回「HOME LIVE」と題して行うものを、東京でどうやって見せるのかという点には興味と若干の不安があった。もちろんこんなものは杞憂であって欲しい、そう願っていたが、RYUTistは期待を裏切らず、自分は見る前からなんて馬鹿馬鹿しいことを不安に思っていたんだろうと呆れるくらいにまさに「HOME LIVE」を見せてくれた。

「MIX」や「地方と東京」、そんなことはたからみれば些細な事だが、些細な事だからこそその分野に深く身を投じるものにとっては見過ごせない要素となる。どんなに目の前のアイドルのみを見ようとしても、その裏にあるコンテクストやステージではない「こちら側」の要素をアイドルから切り離せない、自分はそういった人種の中のひとりである。それらのアイドルを取り巻くさまざまなコンテクストが、自分がそのアイドルを「解釈」する上でプラスに働けばよいのだが、マイナスに働いてしまうことも少なくない。そんな自分に嫌気が差しながらも、そういう見方から逃れることが出来ないし、不意にそういったものを断ち切ってただただ目の前の情景に圧倒される奇蹟のような瞬間を待っているとも言える。

前回のエントリにも書いたように、自分にとってRYUTistは、そのようなさまざまなコンテクストにとりかこまれつつも、それをいともたやすく断ち切ってくれる稀有なアイドルだ。そしてRUTistは今回もそのような素晴らしいステージを披露してくれた。


コンテクストを断ち切る、というと語弊があるかも知れない。断ちきるのではなく、RYUTistは我々の我儘な視点をすべて包み込んでくれているように思える。自分にとっては実はRYUTistは新潟という土地とあまり強く結びついていない。前回古町で見たLIVEも、今回東京で行われた「HOME LIVE」も、土地とは切り離された、どこか観念的な「HOME」を感じさせてくれた。自分が新潟に行こうが、RYUTistが東京に来ようが、「<ここ>が約束の場所」なのだ。しかし、前述した友人は後に「新潟のHOME LIVEのパッケージをそのまま持ってきてくれてRYUTistさんありがとう」とtweetしていたし、新潟から遠征してきた新潟のファンはどこか「東京での初ワンマンを絶対に成功させよう」という気合にあふれていたように思える。そんな人それぞれの思いを、RYUTistはまとめて引き受けてくれたのではないだろうか*1

このような例は、楽曲に関しても見受けられる。RYUTistは今回13曲の楽曲を歌ってくれたが、盛り上がる曲、コミカルな曲、バラード、夏の曲、冬の曲と、実にバラエティ豊かなラインナップを揃えている。MIXの例にこだわって申し訳ないが、MIXを打って盛り上がることもできるし、バラードをゆっくり聞いて楽しむこともできる。これは別にRYUTistに限ったことではないが、それにしてもRYUTistの規模でカバー曲含め70曲ほどのレパートリー数を揃えているというのははっきり言って異常であり、各人が様々な角度からRYUTistを楽しめることができるようにという視点はかなり強く意識されているのだろう。それは古町で文字通り老若男女がめいめいのスタイルでLIVEを楽しんでいる姿を思い起こすことでも確認できる。

また、楽曲の中でもそのような特徴が強く出ているのはやはりカバー曲だろう。RYUTistはさまざまなジャンルのカバー曲のレパートリーを揃えていることが度々言及される。特に今回も歌ったRADWIMPSの『有心論』に関して、「アイドルがRADをカバーするとは!」という声を各所から聞いた。
しかし、自分がRYUTistのカバー曲の中でもっとも好きなのは、I'veの『Shooting Star』である。


最初に書いたように、自分はアイドルに興味を持つ以前の中高生時代はアニメやゲームといったジャンルが好きであり、特にI've soundに関してはそれ以外のジャンルを全く聴かなくなるほどに聴き込んでいた。ライブのあとにご飯を食べていても、アイドルファン仲間からはこのShooting Starが良かったという声はあまり聞かなかった。僕たちは通ってきた音楽のジャンルが違うだけで、目の前のアイドルの評価が変わってしまう。今日RYUTistを見た人たちの中でも、この曲に関する感想は異なるだろう。ただ自分にとってこの曲を聞くと、おねがい☆ティーチャーの世界観や、おねがい☆ティーチャーが大好きだった友人との青春の日々、このアニメの舞台となった長野県の木崎湖に数年前に旅行に出かけた思い出が次々と浮かび上がってくる。この曲の間奏でソロダンスを披露するわっかーはまるで木崎湖の白鳥のようだ。
わっかーは木崎湖の白鳥。この曲を歌うRYUTistを見てそんなことを思っている人が他にどれほどいるのかはしらない。ただ、自分がそうやって素晴らしいと感じたこと、そして同じ空間で同じRYUTistを見ている人が自分と全く違った思いをRYUTistを通じて抱いていること、そんな様々な思いがRYUTistという存在から生まれていることにとてつもない感動を覚えるのだ。


アンコール明けのリタルダンドは実は初めて聞いた曲だった。シンプルなピアノの三拍子のリズムの上に乗った歌詞は聞き取りやすく、それはどうやっても昨年に卒業したゆりりのことを思い起こさせるものだった。5曲目に披露したカラフル・ミルクで、ゆりりのカラーを紹介する部分の歌詞が違和感なく4人バージョンに変更されていたことを思い出す。そして最後に舞台下手に目線を送るRYUTistの4人。僕たちの目には、紛れもなくそこにはゆりりの姿が浮かんでいたことだろう。
「5人で東京での初ワンマンを迎えられてよかった。」リーダーののの子さんは、最後のMCで、いつものように穏やかにそう話した。必要以上に今はなき5人目を強調するのではなく、それが普通のことであるかのように。

RYUTistを通じて、僕たちはさまざまな思いを彼女たちに投影する。あるいはその裏にあるものを勝手に読み込んでいく。そんな欲望を彼女たちは受け入れてくれるし、それによって全体としてRYUTistの穏やかな「HOME」が形作られていく。

数ヶ月も間が開いても、見る場所が変わっても、メンバーが卒業してしまっても、そんな幸せな空間は変わらない。こんなRYUTistに自分はこれからも甘えてしまうだろう。

ようやく手に入れた『Beat Goes On!』。ジャケット映る5人、そして光の先に、RYUTistという約束の場所がいつでも僕たちを待っているのだ。

Beat Goes On! ~約束の場所~

Beat Goes On! ~約束の場所~

*1:「様々な人々の欲望を引き受けるアイドル」という構造に対して、特に自分が魅力を感じているということは自覚している。

RYUTist 「ゆりり卒業ライブ20121118 ゆりりがやりたい曲 全部やります!」11/18@古町 LIVEHOUSE 新潟 SHOW!CASE!! /

11月28日に新潟の古町で開催されたRYUTistのライブに行った。メンバーのゆりりこと木村優里の卒業公演である。

RYUTistを初めて知ったのは今年の5月頃、きっかけはYouTubeの動画であり、地元新潟の牛乳をPRするために牛になって歌うというとてもコミカルな曲だった。

\みなさーん!牛になってください!/


笑いながら繰り返し見ていると、なかなかダンスがうまかったり、煽りが上手かったりと面白さだけでない意外な側面に気づき、YouTubeに上がっている曲を色々見ているうちにすっかりはまってしまった。
8月のTIFにRYUTistが参加すると知って、今年のTIFはRYUTistを見ることを目標に決めて、一日目の公演中止などのハプニングを乗り越え全3回のステージをすべて見ることができた。その頃にはRYUTistの評判もアイドルファンの間では徐々に上がっており、自分の周りの在京アイドルファンもTIFでRYUTistの素晴らしさにすっかり虜になっていた記憶がある。

その後10月9月に新潟で行われた「新潟旨さぎっしり博」という物産展イベントで行われたステージで初めて新潟でRYUTistを見に行く事ができ、古町で行われている定期公演に参加するタイミングを伺っていたところ、ゆりり卒業のアナウンスがちょうど2週間前に行われ、このところ毎回売り子として参加している文学フリマを蹴って18日は深夜バスに揺られ眠れないまま新潟に向かった。


RYUTistは何が素晴らしいのか。そう問われれば、幾つかの理由をすらすらと挙げることができるだろう。
ダンスが抜群に上手い。年上2人、年下3人というバランスが良い。代表曲「ラリリレル」がとにかく素晴らしい。歌のレパートリーが多い。カバー曲の選曲が個性的だ。雰囲気が温かい。スタッフの人望がある。牛になりたい。地元新潟の定期ライブの雰囲気も良い。地元以外のライブにあまり出演しないのでレア感がある。地方アイドルなのに色々しっかりしている・・・etc。

少々わざとらしいかもしれないが、後半の評価はRYUTistが「地方アイドル」であるということを前提としたものである。これらの物言いはどのように捉えられるだろうか。
アイドルの評価というのは難しい。最初に挙げたように「ダンスが上手い」と一口にいっても、普通のファンはダンスの細かい技術に精通しているわけではないし、アイドルが行うダンスとその他のジャンルのダンスは見せ方も方法論も全く異なるだろう。そしてダンスが上手ではなくとも、時にはダンスが下手だからこそそれが魅力につながることもある。「可愛い」というキーワードに代表されるように、アイドルの定義やその評価基準は必ずしも一つに定まらないということは、もう多くの人々が気づいていることだろう(だが、ここで「可愛くない」ことこそがアイドルの魅力である、あるいは「可愛い」という評価基準そのものをアイドルは破壊しているのだ、という議論はおよそ説得力を持たないように思われる。ここではこの議論には深入りしないが念のため。)。
「可愛い/可愛くない」「上手い/上手くない」などの客観的な評価が難しいだけでなく、その評価が「優/劣」に直結しないため、アイドルの評価は時に他のアイドルからの比較として語られる場合がある。この手のアイドル語りはとても安易で、一見何か説得力があるように感じられるために、我々はついつい比較を行なってしまう。しかし多くの場合この手の語り口では比較によって一方を持ち上げるのではなく他方を貶めているだけであることに注意が必要である。
そして、先ほど述べた「地方アイドル」というキーワードに関しては、さらなる注意が必要だ。そもそも「地方アイドル」という言葉自体の定義が明確でないにもかかわらず、我々はつい便利なこの言葉で地方に拠点を置くアイドルたちを総称する。他にも「ご当地アイドル」など、いくつか彼女たちを表す名称があるが、それぞれ若干のニュアンスの差はあれども、基本的には「地方/中央」という二項対立ヒエラルキーからは逃れるとこが出来ないように思われる。
地方に拠点をおいている、フラットにそれだけのことなのに、様々な意味が否応無くついて回る、なんとも厄介な概念である。先ほど列挙したRYUTistの評価にしても、後半の方は、「地方アイドル"だから"良い」あるいは「地方アイドル"なのに"良い」というように、"地方"という文脈への参照からは逃れられないように見える。


このような言葉遊びは無意味で、ただ目の前のものを「良い物は良い」と感じればいい、そう切り捨てる人もいるだろう。だが、多かれ少なかれ、我々がアイドルを目の前にして「意味」や「文脈」を無視できないことは明らかである。多くのアイドルファンが嘆き悲しむ「卒業」であれ、アイドル本人が死んでしまうわけでもない。いくら雑誌やライブに出なくなるとはいえ、その子はどこかの街でそれから先の人生を歩んでいくのだから、そこまで悲しむ必要はないということになる。

自分はこのようなブログをもう3年ほど書いているように、アイドルの「意味」を過剰に読み込んでしまうタイプの人間である。そのような自分の性格を理解しつつも、たまにはそういった"めんどくさい"ことに囚われないでアイドルを楽しみたい。そんなことを感じながら新潟行きの深夜バスに揺られていた。「ゆりり卒業」ライブとはいえ、まだ実際のRYUTistは生で2回しか見たことがなかったし、ゆりりとちゃんと話したこともなかった。「ゆりりの卒業」を祝うあるいは悲しむというよりも、5人のRYUtistを古町のホームライブで見てみたい、最初で最後のチャンスだ、という意気込みのほうが強かった。そもそもRYUTistはなぜだか「地方アイドル」という文脈に自分のなかであまり強く結びついていなかった。


朝の6時頃にまだ暗い新潟駅に降り立ち、下調べも予定も何もなかったために1時間ほど駅の周りをぐるぐると歩きまわってからネットカフェに入り、10時頃街が動き始めるまでうたた寝したりYouTubeRYUTistのライブ動画を見たりしていた。10時になり、徒歩で古町方面に向かい歩き始めた。アイドルがいくつか番組を持っているFM PORTの前を通り、強く寒い風が吹きすさぶ萬代橋を渡り、元町・古町商店街を一通り歩き、寿司屋で海鮮ちらし丼を食べ、気づくともう13時を過ぎていた。

FM PORT RYUTistがゲスト出演した番組を関東からもスマホアプリで聞ける時代。


新潟駅と古町を結ぶ萬代橋


小さな巨人里中智。新潟出身の水島新司御大のキャラクターが古町商店街に並んでいる。小さな巨人というのはなんだかRYUTistっぽい(こじつけ)。


自分のなかで「地方アイドル」というもやっとしたものとは結びついていなくとも、RYUTistがどういう街に根付き愛されているのかを見る時間は十分にあった。ホームライブを行うライブハウス「LIVEHOUSE 新潟 SHOW!CASE!!」があるのは、専門学校が集まる小奇麗なビル。商店街の少し離れた場所には演芸場やキャバクラ密集地帯などもあり、雑多な雰囲気がどこか心地よい。
開場時間に入り口につくと、予想を超えたたくさんのファンが。当然男性が多数だが、女性のファンも多く、年齢層も幅広い。ロビーには小さな子供が走り回っていて、よく見るとメンバーにそっくり。妹さんたちだろう。はじめてのホームライブということもありそわそわしていたが、疎外感はない。そして15分押しでいよいよ始まった卒業公演。。


白い冬服衣装に包まれて登場したメンバーたち。しっとりとした『わたしの青い空』から始まり、『夏の魔法』『カラフル・ミルク』と人気曲へつなげる。その後もどちらかと言えばカッコイイ曲やアップテンポの曲が続き、気づけはあっという間に本編は終わってしまった。
アンコールで『Arrivals and Departures』を歌った後、サプライズ出演ということでゆりり以外のメンバー&観客からkiroroの『Best Friend』をゆりりへ送る。そして、最後の最後の曲は、もちろん『ラリリレル』。。。


自分はRYUTistがラリリレルを笑顔で歌っている間、ずっとボロボロと泣いていた。それはもう自分でも引くくらい泣いていた。普段からラリリレルを聞くときは街中で歩いている時でもなんでもすぐ泣きそうになるし、自分は何かあると割りとすぐ泣くタイプなのだが、それでも自分で驚くほど泣いていた。
こう書くとゆりりに失礼かもしれないが、別にゆりりが卒業するから悲しくて泣いていたのではなかった。むしろこの日のライブ中、ゆりりが卒業することはほとんど忘れていた。忘れさせてくれた。とにかく5人のRYUTistが一番立ち慣れている場所で、一番ファンに受け入れられている場所でライブを見れたことが嬉しくて楽しくて仕方がなかった。
『ラリリレル』を歌っているRYUTistは何もかもが素敵だったが、何が良かったのか今思い返してもよく説明できない。古町だから、新潟だから、地方アイドルだから、地方アイドル"なのに"、そういう文脈が全て剥がれて、目の前で歌い踊るRYUTistの姿もちゃんとみえているのだけれども、彼女たちの歌は自分の中の奥深くの自分でも気づいていない繊細な部分に優しく刺さる。泣いたら恥ずかしいとか、卒業なんだから祝福のために逆に泣かないでいようとか、泣いたらメンバーの姿が見えなくなるなとか、そういうことが頭を過ること無くただただ泣いていた。普段からよく泣くくせに、泣くときはそういう事ばかり考えている自分にしては、本当に貴重な体験だった。


ここまで書いてきたものの、最初の地方アイドルだからどうだとか、そのコンテクストがどうだという話を各必要はなかったのかもしれない。ただ、そういうところから逃れられない、逃れられないから楽しいんだと思っている節すらある自分が、地方アイドルは何か、アイドルとはなにか、はたまたRYUTistそのものの個別性みたいなところも越えて、その奥にあるなにかあたたかくて柔らかいものに触れられて涙が止まらなかったんだという経験を書き記しておきたかったのだ。自分は確かに古町でRYUTistをみたはずなのだけれども、『ラリリレル』のときに一体何を見ていたのだろうか。未だによくわからない。



ライブから2日立ち、ようやく落ち着いてきてゆりりが卒業なんだなということを受け止め始めている、とおもいきやその点についても未だによくわかっていない。まぁそれもそれでいいだろう。また古町のホームライブで、新しいRYUTistに会える日を楽しみにしている。


ありがとね ほんとにね
泣きそうだった 楽しくて
またあおね つぎの日曜日
きっとここで過ごそね




ゆりりさん卒業おめでとうございます。「またあおね」。


震災チャリティ企画『「アイドル」はいまなにができるか』「日常と非日常のあいだ/揺らぐアイドルと「現場」」再掲

以下の文章は2011年4月2日に電子書籍販売サービス「パブー」上で東日本大震災へのチャリティを目的として販売された電子書籍同人誌『「アイドル」にいまなにができるか』に寄稿した文章です。
売上が全額寄付されるというパブーの震災チャリティ企画にて発表・販売されたため、現在では読むことができなくなっています。
このまま埋もれてしまうのも惜しいため、アイドル領域vol.5への予告も兼ねて、文学フリマ参加を記念してブログにて再掲します。

震災後ひと月も経たない間に発表されたものであり、今振り返ると拙さの残る点やあの時でしか書けない熱量を感じる点など、なかなか感慨深いものがあります。字体・段落整形を行った以外は、内容は全て当時の原文通りです。


日常と非日常のあいだ/揺らぐアイドルと「現場」

 3月14日月曜日、深夜1時から行われたTBSラジオ伊集院光深夜の馬鹿力は放送が中止になり、地震関連ニュース番組に変更された。しかし開始から約3分間のみ、伊集院光のコメントが生放送された。伊集院は被災者へのお見舞いを述べた後に、いつになく真剣で重々しい口調で、慎重に言葉を選びながら以下のように続けた。

 「個人的にしゃべることを仕事にしている者として葛藤もあります。TBSラジオですとか、僕の個人twitter宛に頂いた、こんなときこそ馬鹿な話を聴きたいという言葉に本当に心が揺さぶられましたが、いまだ頻繁に起こります余震ですとかそれから刻一刻と変わっています原子力発電所の状態ですとか、計画停電などのお知らせですとか、こういったことを正確にいち早くお伝えすることが何より優先であるという考え方には同意いたします。次回の放送までにより面白くよりくだらなくより馬鹿馬鹿しい話が出来るように備えたいと思っています。」
 
 お笑い芸人に出来ること、端的に言えば、それは伊集院も言うように、くだらなく面白い話で人々に笑いをもたらすことであろう。それは地震の影響で疲弊した人々に最も必要な事かもしれないが、同時に「不謹慎」という伝家の宝刀がクリティカルに刺さる場面でもある。この伊集院の言葉には、アイドルという職業あるいは存在に関わる重要な何かが隠されているように思える。
 伊集院は、メディアを介した身体性について非常に敏感で自覚的なタレントである。深夜のラジオをホームグラウンドとして、メディアの種類・番組内容・時間帯などによって自身のキャラクター像を細かく使い分ける。深夜ラジオをホームグラウンドとしている理由は、ラジオというメディアの特性に拠るところが大きいだろう。「声」という制限された情報のみが(主に)リアルタイムで伝達され、はがきやFAX、最近ではメールやHPの番組フォームといったツールによって、古くからタレントとリスナーの間で双方向的な関係が保たれており、心理的な距離が非常に近いメディアであった。
 「双方向的」というキーワードは現在あらゆるメディアにおいて必須の要素と言っても過言ではないが、メディアによって自身の身体性を拡張して情報化し伝達することを生業とするタレントやアーティストそしてアイドルといった人々にとっても、情報の受け手との双方向的なコミュニケーションは当然のようにもっとも重要な要素となった。アイドル界隈ではライブやイベントのことを「現場」と呼ぶが、現代アイドルが「現場主義」であると言われるのは、ライブやイベントのみを大事にするのではなく、さまざまなツールを駆使して密接なコミュニケーションが可能でファンがアイドルの身体性を密度の高い情報として享受できる環境・場を整えることが重要視されている事のあらわれであろう。

 メディアの種類によって異なるのは、情報の密度・コミュニケーションの距離感だけではない。伊集院の身の置き方に見られるように、パブリック/プライベートという基準が考えられる。一般的には、例えばテレビはパブリックなメディアであり、ラジオはプライベート寄り、そしてUstreamやブログはさらにプライベートなメディアである。アイドルという存在は、「アイドル=イコン」としてパブリックで象徴的な存在であることを求められるだけでなく、その性質上一番プライベートな部分は隠されているために、ファンは密度の高いプライベートな情報を欲望することも多い。現在アイドルのプライベート(的な側面)を提供する主なメディアがブログである。そして、先ほど述べた現実世界でのアイドル現場はまさにプライベートな閉鎖空間であり、アイドルの身体性がダイレクトに伝達・共有され、ファンと一体となって祝祭空間=非日常を創り上げる。

 アイドルとファンが創り上げる擬似的な非日常は、正真正銘の非常事態においては、その意味を失い、ブログなどのプライベートな要素と共に「自粛」が求められる。そしてアイドルは「パブリック」な存在であることが強調される。
 伊集院光が「プライベート」な空間として非常に大事にしていた深夜ラジオを断念せざるを得なかった翌日、3月15日火曜日、16時から18時55分までFM長野で生放送された夕方の帯番組『echoes』では、アナウンサーの田中利彦にと共にオトメ☆コーポレーションのなるみがパーソナリティを務めた。オトメ☆コーポレーションは都内のライブハウスを中心として活動する、いわゆる「ライブアイドル」や「地下アイドル」とよばれる部類の3人組のアイドルグループである。リーダーのなるみが長野県伊那市出身のため、オトメ☆コーポレーションしばしば長野県でイベントを行うこともあり、なるみは2010年10月からechoes火曜日の正式なパーソナリティを務めている。echoesはローカルFM内のメインコンテンツかつ情報番組であるため、なるみはアイドルという立場でありながら、ラジオパーソナリティとしてパブリックな側面を期待される場面であった。
 番組は、アナウンサーの田中氏が普段通りあるいは幾分落ち着いたトーンでテンポよく進行する一方で、なるみは明らかに重苦しい雰囲気で、口数も少なかった。番組冒頭で、なるみが11日の震災発生時には東京の自宅にいた事、放送当日に交通網の混乱で東京からFM長野までの移動が非常に困難だったことなどの地震に関するエピソードを恐る恐る語った以外は最低限の仕事をこなしたという印象だった。

 この番組でのなるみの様子はどのように評価されるだろうか。彼女に求められた役割とはなんだったのだろうか。判断は非常に難しい。普段であれば明るく笑いの絶えないアイドルらしさと、交通情報やニュースへつなぐ際に見せる少し固めの「それらしい口調」を使い分ける立派なパーソナリティであるが、このような非常事態化では、何を「自粛」しなければならなかったのだろうか。ましてや全国放送ではなく、基本的には津波等の直接大きな被害はなかった長野県内のみで放送される地方ローカルFM番組である。
 一方、3月21日にBayFMで午後9時頃に放送された『ON8』内の番組『柱NIGHT! with AKB48』では、大島優子高橋みなみ北原里英の3人がAKB48メンバーとして震災後初の生出演を行った。番組内では大島優子が仙台の親戚が被災したことを語り、実家が流され両親が避難生活を送るリスナーからの手紙を読み上げる際に言葉をつまらせ涙し、アイドルにできることとして「歌の力」を強調した。
 この大島優子のラジオでの様子がmixiニュース等で取り上げられると、賛否両論の反応が飛び交った。大島優子の涙や歌のメッセージ性に共感を覚え、元気づけられたと述べる人々と、反対にそれらを「パフォーマンス」であるとみなし、義援金を送る以外はAKB及びアイドルという存在自体を無意味な存在だと吐き捨てる人々。どちらの意見が正しいのか正しくないのか判断はできないが、あえて言うとすれば、後者の人々の拒絶反応は、AKB48冠番組というプライベート的な要素が強い場においてもアイドルに対してパブリックな役割の徹底を求めているために起きた齟齬が引き起こしているのではないだろうか。ラジオ番組の内容が芸能ニュースとして文面のみで伝達された際に情報の質が変化してしまったという点も十分考慮されるべきだろう。

 2つのラジオ番組の様子から浮かび上がってきたのは、アイドルという存在がメディアにおいてパブリックで象徴的な役割が要請されがちな非常事態においても、うろたえる・泣くといったプライベートな側面を見せることも許容される、あるいはむしろプラスの効果を生むことがある、ということが「(若い)女性アイドル」のひとつの特徴ではないかということである。ここでは、アイドルという存在がメディアと共に成立する上で、その身体性のパブリック/プライベートという相異なる要素が混在している様子が見て取れる。
 さて、パブリック/プライベートという要素はどこまで明確に区別できるものなのだろうか。メディアの性質によってある程度規定されるとはいえ、ラジオというメディアの特性を考慮すると一筋縄では行かないように思える。震災時にはラジオは貴重な情報伝達手段として重宝される、非常に公的な性質を持つメディアとなる。しかし、平常時においてはテレビやネットなどのメディアに比べるとラジオのリスナー数は非常に少なく、例えば先ほど伊集院光の例で述べたように深夜放送はパーソナリティのプライベートな空間が形成される。そしてリスナーはパーソナリティとの関係で、二人称と三人称の間を揺れ動く。パーソナリティ同士の会話を第三者として享受することもあり、パーソナリティとの一対一の関係を享受することもあり、そしてリスナーという集合体として一対多の双方向的な関係を享受することもある。

 また、当然のことではあるが、受け手の態度によってもメディアのパブリック/プライベートの区別は易々と破壊される。『echoes』という番組が長野県民をターゲットにし、生活情報・交通情報・ニュースなどのパブリックで「日常」に関わる番組として製作されていたとしても、全てのリスナーによってそのように受容されるとは限らない。パーソナリティである前に「アイドル」であるオトメ☆コーポレーションなるみのファンとして、松本駅近郊に存在するFM長野まで観覧に行き、ガラス張りのスタジオの外からマイクに向かってしゃべるアイドルの姿を見てスケッチブック等でコミュニケーションを図ることは、アイドルのパブリックな姿の裏にある極めてプライベートな姿を受容する、長野以外に在住するファンであるならばちょっとした小旅行も兼ねた「非日常」を求める態度である。そこまでいかなくとも、現在ではLISMO WAVEなどのサービスによって放送エリアの制限なしに関東に居ながら長野のローカルFM放送を聴くことが可能である。関東、関西、あるいは東北に居ながらFM長野を聴く日々を楽しみにしていたファンがいるかもしれない。その行いは果たして日常の一部なのだろうか、それとも非日常の一部なのだろうか。
 再び問おう、『echoes』でオトメ☆コーポレーションなるみに求められた態度とはなんだったのだろうか。『柱NIGHT』でAKB48に求められた態度とはなんだったのだろうか。非常時においてアイドルに期待される「パブリックな側面」とはなんなのだろうか。そもそもアイドルのパブリック/プライベートという側面、あるいはアイドルを受容する中で日常/非日常を峻別することなど可能なのであろうか。


 大震災及び津波原子力発電所の異常事態は、我々の日常を徹底的に破壊した。それは単に日常という状態から非日常に移行しただけのことではなく、日常という”意味”そのものを破壊したように思える。我々はどうしたら日常に戻れるのだろうか。むしろ我々が今まで日常と呼んでいたものはなんだったのだろうか。そのような根本的な問いに向き合い続けなければならない日々が現在でも続いている。

「またみんなでMIX打とうぜ!!」


 これは筆者のtwitterのタイムラインにRTとして流れてきた面識のない(おそらくAKBファンの)アイドルファンのツイートである。
先程「現場」の説明をした際に、アイドル現場は祝祭空間であり非日常的空間であると述べた。宮台真司の言葉を借りるならば「終わり無き日常」とでも言うべき日々の中で、アイドルファンはそこからほんの少し逸脱した「非日常」を求め、アイドル現場へと足を運ぶ。また、様々なツールのおかげで、ネット上にいても拡張された現場とでも言うべきアイドルを介したコミュニケーション空間が成立している。そのような日々を過ごすうちに、アイドルファンの中でアイドルの「非日常性」は次第に日常の一部に回収されていったのではないだろうか。引用したツイートは、「非日常と共にある日常への回帰」を示しているといえる。
 虚構/現実・パブリック/プライベート・キャラクター/身体… 様々な二項対立の間で揺らいでいたはずのアイドルという存在は、厳然たる非常事態を前にして、非常に窮屈で一面的な存在に変わってしまった、あるいはそう振舞うように要請されているように思える。それは我々が日常/非日常という二項対立の中で生きているのではなく、ちょっとした非日常を日常に取り込むことによって成立していた、揺らぎのある日常とでもいうべきカッコつきの<日常>の中に生きていたこと、そしてその揺らぎのある<日常>が圧倒的な非日常によって破壊されてしまったことと対応している。アイドルに限らず、様々な「揺らぎ」のあるものが自粛され我々は硬直した窮屈な世界に閉じ込められている。我々の<日常>は物理的に壊れる一方、様々なものが硬直することで逆説的にまた壊れているように思える。冒頭で挙げた伊集院光の例を考えてみても、伊集院は笑いをある種の「揺らぎ」として捉え、リスナーにとって硬直した世界をほぐれさせようとしていたのではないだろうか。

 したがって、我々が<日常>を取り戻すということは、小さな非日常を取り込んだ「揺らぎ」のある生活を取り戻すことであり、アイドルファンにとっては、アイドルのアイドルらしさを取り戻すということにほかならない。圧倒的な非日常の前で「アイドルに何が出来るか」という問いを突き詰めることで、ついアイドルの「本質」などというものを規定してしまいがちではあるが、アイドルの役割としてパブリックで経済的あるいは精神的に実益のある側面のみに囚われていてはならない。アイドルのアイドルらしさとは、結局のところいくら考えてもよくわからないものであり、様々な二項対立の間で揺れる存在、つまり「揺らぎ」そのものではないだろうか。そして我々アイドルファンはその揺らぎの中に得体のしれない魅惑的な力を見出し、<日常>に思い思いの形で取り込んでいるはずだ。
 たとえばアイドルがラジオ番組を放送することで、その内容・態度がどうであれ、様々な形でリスナーとのコミュニケーションが生まれ、アイドルという存在が揺らぎのある情報としてリスナーに伝達される。冒頭で述べたように、現場を「アイドルとのコミュニケーションによってファンがアイドルの身体性を密度の高い情報として享受できる環境・場」と広く捉えるのならば、ここには「広義の現場」と呼ぶことが可能な空間が存在している。そこでは直接的には正しさも実益もない。ファンがアイドルをどのように受容するかは別問題であり、ただ日常と非日常の間にある空間・場が存在するだけである。

 ラジオ・テレビ・ブログ・ライブ会場。そのすべてを大きく「現場」と呼ぶことができるのならば、マスメディアに乗ることが出来るメジャーアイドルだけでなくたとえファン数の少ないマイナーなアイドルであっても、「アイドルにできること」という特別な問題提起の前に「一般人に出来ること」あるいは「アイドルと一般人の違い」について悩むことはない。アイドルに出来ることは、どんな規模であれ、ファンとのコミュニケーションによって日常と非日常の間にある揺らぎのある空間=「現場」を創り上げることである。
 最も典型的な「現場」では、例えば、規模の小さいライブアイドルの周辺では、ファン同士が直接頻繁に顔を合わせるためにネット上の「クラスタ」と呼ばれる集団よりも更に狭く密接なコミュニティがある種の中間共同体のような形で存在している。このように、アイドルは明確に「第三の場所」としてのコミュニティのハブ的役割を担っている場合もある。そこまで直接的ではないにせよ、アイドルと直接対面する空間あるいはメディアを介して接するあらゆる「現場」において、様々な形に変化するアイドルの身体性を感じ取ること、そして日常と非日常のゆらぎを感じ取ることで、我々アイドルファンはアイドル及び自分自身が「生きていること・いまここにいること」そのものについて考えざるを得ないだろう。遠回りして飛躍を重ねつつ行き着いた最終的な答えとして、アイドルにできることとは、”日常と非日常の間で揺らぐ「現場」=「アイドルファンにとっての<日常>」を取り戻すことによって「生への想像力」を喚起すること”ではないだろうか。


 現代において我々はどこまでも均一化した「郊外的な空間」の中で閉塞感に生きており、失われた<ここではない、どこか>=<非日常>への逃避を願っていると評されることがしばしばある。しかし、これまでの我々の想像力を遥かに超えた圧倒的な非日常が、「東北地方」という多くの日本人にとって現実感を持って実感可能な想像力の範囲内に出現したことで、今一度<ここではない、どこか>よりも<いま、ここにいること>について見つめ直す時が訪れている。アイドルファンがアイドルと向きあう場所を、現実空間だけでなくマスメディアやネット上での情報交換・コミュニケーションを含めて「現場」として空間的に捉えることで、アイドルがもたらすものを<ここではない、どこか>への逃避あるいは単なる情報との戯れとして解釈するに留まるのではなく、人間としての”実存”のありかである<いま、ここ>に関わるものとして捉え直す契機になるはずである。アイドルもアイドルファンも人間である。人間とは不確定な存在であり、まさに「揺らぎ」の中に生きている存在に他ならない。


 以上の文章では、日常/非日常という非常に大きな枠組みのあり方をアイドルのあり方にひきつけて言及したものの、多用された「現場」という用語が示すように、アイドルとアイドルファンという関係性に限定された記述に留まる部分が大半を占めている。もちろん、一部のトップアイドルたちはアイドルファンという枠を越えて働きかける力を持っているかもしれない。しかし、たとえマイナーなアイドルであっても、例えば地方のFMラジオ番組で、またあるときはショッピングモールでの無料ライブで、一般の人々の生活のふとした瞬間に「揺らぎ」をもたらす可能性を持っているかもしれない。そうした日常の中にある小さな非日常によってこそ、逆説的に失われた<日常>が戻ってくるのではないだろうか。
 

 本稿で言及する<日常>は、今回の災害をあくまで「現実として実感可能な想像力の範囲内」として受け止めたに過ぎない身から、アイドルというフィルターを通して見えるものであり、さらには「我々」という単語がどこまでの射程をもつのかという点において非常に心苦しい。
 最後に、圧倒的な非日常を生きている方々、そして生きることすら叶わなかった方々に心からお見舞い申し上げると共に、一日も早い復興と<日常>への回帰をお祈りいたします。

(2011年3月30日)

第15回文学フリマ/アイドル領域vol.4

アイドル批評誌『アイドル領域』にvol.2から毎回寄稿しているのですが、今回も文学フリマに出ます。
新刊はありませんが、vol.4、vol.3を頒布予定です。

以下、主催の斧屋氏のブログから引用
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20121114

同人誌名:『アイドル領域Vol.4』
(全108頁、価格:700円)← amazonで買うより300円もお得!
第15回文学フリマ
日時:11月18日(日)
場所:東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
サークル名:「ムスメラウンジ」
ブース:エ-48(毎回恒例、AKB48と覚えてください!)
文学フリマ詳細についてはこちら→http://bunfree.net/

自分はvol.4に「ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム」、vol.3に「ドキュメンタリーとアイドル〜リアリティと物語を確保する「現場」〜」という文章を書いています。

vol.4の「ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム」に関して、友人の@katatemaruが骨太感想を書いてくれました。
http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20120525/1337920038

また、Amazonでも取り扱っています(文学フリマで買っていただけるとAmazonより安いです)。

アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.3

アイドル領域Vol.3


今回は自分は予定があり売り子はしないのですが、アイドル領域を宜しくお願い致します。


また、冬コミではアイドル領域vol.5が出る予定です。2010年春増刊号からはじまってvol.2、vol.3…と毎回寄稿しているのですが、途中から自分の中で漠然とした一貫したテーマが浮かびつつあり、vol.4ではなんとかその輪郭を示すことができたかなと思っています。

アイドルという存在は実にあやふやで、何かに例えようと思えばたいていどんなものにも関連させてこじつけることができます(過去にはそのようなコンセプトで「アイドル、なんか。」というエッセイ集を頒布しました)。アイドルファンという存在は得てして語りたがりであり、語り口には人それぞれ差こそあれ、アイドルについての思いをあれこれと言葉にします。しかしアイドルというのはまた不思議なもので、口にすればするほど自分自身が思い描いていたアイドル像がわからなくなり、他人が語るアイドル像やアイドル論にケチを付けたくなるものです。そのうちに、口をつぐむことが一番正しい、そう結論づけてしまう人も多いでしょう。
しかし、これまでのアイドル領域に関わってきた人たちは、それでも勇気を出して自分のアイドルに対する思いや考えをどうにかして言葉として残したい、形に残したい、そういう思いを持った人たちだと思います。
そういったジレンマが最も強かったのは、日本人なら誰もが忘れられない「3.11」直後でしょう。ただでさえ口をつぐみたい、現実から目をそらしたい、ましてやアイドルについて語るなどもってのほか。それでもアイドルイベントには行きたいし、ついつい震災に絡めてアイドルのことを考えてしまう。そんななかで立ち上がったのが震災へのチャリティを目的として企画された『「アイドル」にいまなにができるか』という同人誌でした。

『「アイドル」にいまなにができるか』
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20110402/1301766958
アイドル領域としてナンバリングされていませんが、斧屋氏が主催で、領域の書き手や読者の方が多く参加しました。
自分は「日常と非日常のあいだ/揺らぐアイドルと「現場」」という文章を寄稿しました。先ほど述べた漠然とした一貫したテーマはこの頃から浮かび上がりつつあったものです。日常と非日常、ネットとリアル、都会と地方・・・様々な二項対立の間で揺らぐアイドル像について考え続けてきました。
冬コミで頒布予定のvol.5はvol.4ほどの大作とはいかず軽めの文章になると思いますが、自分なりに考えてきたこのテーマの先にあるものなので、vol.5の予告として、自分の原点でもある震災特別企画に起稿した文章を掲載したいと思います。

Berryz工房の4年間 『ジンギスカン』から『cha cha SING』

2012年7月25日にBerryz工房29枚目のシングル『cha cha SING』が発売された。タイの人気歌手・俳優のBIRDことトンチャイ・メーキンタイのカバー曲ということだが、初めて音源を聞いた時に久々に「これだ、これがBerryz工房なんだ!」と得体の知れぬ確信とともに拳を握りしめてしまった。近頃はどこか自分の中でBerryz工房に対する熱意が低下していくのを寂しく思っていたところに、突然Berryz工房が「帰ってきた」感覚。帰ってきたと書くのはおこがましいかもしれない。自分が変わったのか、それともBerryz工房が変わったのか。あるいはその両方か。なにをもって「Berryz工房らしさ」とするのかは人それぞれだが、個人的には、まじめにふざける、バラバラな7人があらゆる方向に飛び散る中一瞬だけ同じ方向を向いてしまった時の爆発感、そんなところに「らしさ」と「良さ」を感じているのだろう。幸運にもその一致した方向に自分もまた向くことができた瞬間の熱狂、そういったものに感動したのかもしれない。

また、この曲を聴いた時にすぐに思い浮かんだのが『ジンギスカン』である。2008年3月12日に発売されたBerryz工房16枚目のシングル。ドイツのアーティストDschinghis Khanが1979年に発表したかの有名な『ジンギスカン』のカバーであり、『cha cha SING』からこの曲を連想する人も多いだろう。これまた個人的な話になるが、自分がBerryz工房が気になり始めたのが2007年末に『付き合ってるのに片思い』がリリースされた頃であり、ジンギスカンは自分にとって初めてのBerryz工房の新曲であった。そのジンギスカンに衝撃を受け、こんなにおもしろい、ぶっ飛んだアイドルが居るのか!と夢中になったことをよく覚えている。ジンギスカンは今でもBerryz工房の中でトップを争うほど好きな曲であり、ある種の原体験でもある。Berryz工房に夢中になり始めた頃の思い出をどうしても重ねてしまうのが『cha cha SING』であり、思いを整理するためにも、ジンギスカンからcha cha SINGまで、Berryz工房が4年間でどのように変わったのか、または変わらなかったのか、その魅力はなんなのか、なんだったのかを振り返ってみたいと思った。



メンバー

夏焼雅

ジンギスカン

cha cha SING』 ゴージャス!

cha cha singのセンターは夏焼雅さん。常にメインボーカルの一角を占め、安定感のある歌とダンスでBerryz工房を支えてきたが、いよいよセンターに。近年は「姉」としてメンバーを気遣う様子も目立ち、心技体それぞれ大きな成長を遂げた。「踊る阿呆だけどただの馬鹿じゃない」は彼女が歌うと深みがあるような無いような。

嗣永桃子

ジンギスカン』「ももち結び」をしていないほうが多分可愛い

cha cha SING』 お馴染みの「ゆるしてニャン」

そろそろお茶の間にも浸透してきたかもしれないももちこと嗣永桃子さん。バラエティでは孤軍奮闘だが、ステージではまた違った形で自らの役割を全うしている。グループアイドルのダンスは大きく動いて目立てばいいというものでは決して無い。しかし、身体が小さいメンバーは多少大きく動くことも許される。桃子は、「悪目立ち」にならない加減において、自らの色を出すのが非常に上手い(具体的には腰・お尻の振り方)。
また、彼女はおそらくこの4年間で最も歌がうまくなったメンバーである。派生ユニットのBuono!での経験が生きているのか、声色と歌唱の幅が非常に広がった。今作でも首を平行移動させている独特の踊りを歌でそのまま表現しているような不思議なビブラートを披露しており、芸達者。

熊井友理奈

ジンギスカン』お美しい

cha cha SING』「ヒロインになろうか!」の熊井観音を思わせる仏の美しさ

長身アイドルでお馴染みの(?)熊井友理奈さん。しかしBerryz工房は凸凹過ぎて熊井ちゃんをセンターに置く時以外はそんなにその長身が悪目立ちすることもない。相変わらずの美しさに加え、最近ではマイペースに仏としての美を追求している(してない)。
いい意味で変わらない方のメンバー。ハスキーボイスは紛れも無い魅力であり、今回もおそらく意図的に熊井→嗣永という順番のパート割がいくつも設定されており*1、嗣永の甘い声とセットで非常に幅が出て面白さが生まれている。『ジンギスカン』ではソロパートが非常に少なく全体的にユニゾン主体だったのと対照的である*2

須藤茉麻

ジンギスカン

cha cha SING』メンバーの中で一番衣装が似合ってる

Berryz工房の母、須藤茉麻さん。母としての温かみが体型に現れる時期もあるけれど、現在はかなり絞られていて、健康的な美しさを放っている。アジアンテイストな雰囲気にぴったりで、現在唯一の黒髪ロングのストレートがメンバー全体の絵に締まりを入れている。

清水佐紀

ジンギスカン』ピスタチオの面影

cha cha SING』 困り顔が変な顔で可愛い

黒髪を真ん中で分けたショートカットが「ピスタチオ」に似ていると言われていた頃の面影がぎりぎり残っている『ジンギスカン』から、その後エクステやおめめパッチリメイクで雰囲気をガラリと変えた様子がありありと『cha cha SING』で現れている。
ダンスの腕は一級品とよく言われるが、今作のようにハードに踊るわけではない振り付けでわざわざ自分を「魅せつける」ことは決してしないのがキャプテンの矜持。何気なく全体を見ていると気づかないけれど、よくよく見ると細かい動きが飛び抜けて洗練されていることに驚く。

徳永千奈美

ジンギスカン』ホームランを見送る図

cha cha SING』なんていい顔

cha cha SING』は彼女のためにある、と声を大にして言いたくなる、徳永千奈美さん。上の画像を見るだけでもわかるムードメーカー。今作では特設サイト(http://www.up-front-works.jp/chachasing/)に「徳永千奈美のタイ訪問記」というコーナーが設置され、twitter(http://twitter.com/tokunagachinami)も開始するなど絶好調。底抜けの明るさに、微妙に波のあるヤル気が噛み合った時がBerryz工房の輝くとき。千奈美が楽しそうにしているMVは良いMV。

菅谷梨沙子

ジンギスカン』不動のセンター

cha cha SING』見よこの迫力

いよいよ最後、菅谷梨沙子さん。Berryz工房のこの4年間を語る上で、彼女の進化を書かずにして何を書くのだろうか。写真を見比べるだけでも、別人のような迫力に。『cha cha SING』でのなんとも表現しにくい髪の色は彼女にしか許されないものである。イナズマイレブンシリーズを担当した時期に、梨沙子はこれまでも隠し持ってきた、ド迫力の低音の唸りや時にがなるような歌唱を解放した。大きな意味で自己表現をするようになった梨沙子は、Berryz工房のお姉さん6人が守るべきセンターではなく、もはやセンターの座を他のメンバーに明け渡したとしても、どの位置にいても、どのパートを歌ってもBerryz工房という力学の中心に位置する存在として梨沙子は威圧感を放ち続けている。

変顔とアイドルの闘争

アイドルは「変顔」をするものである。そんな風潮が最近定着してきたかもしれない。「アイドルは変顔をしない」というぼんやりとした固定概念を崩し、変顔をすることで既存のアイドルのイメージにとどまらない面白い・新しいアイドル像を発信する。次第にそんな風潮そのものが逆に一般化するようになってきた。アイドルのめまぐるしく変化するイメージ闘争の常である。
そんな中、惜しげもなく鼻の穴を見せてしまう雅と梨沙子。これは「変顔」なのだろうか。客観的に見れば「変顔」かもしれないが、この2人が意図して「変顔」を作ったというわけでは無さそうである。己のパッションを表現したら結果こういう顔になった、ただそれだけのことのように思える。つい「Berryz工房が”変顔”の概念を破った」などとそれらしいことを言いそうになってしまうが、もちろんそんな仰々しいのは受け手の勝手な妄想であり、等の本人たちは結果変な顔になったらなったで面白い、程度のことなのだろう。
変顔を例に挙げたが、これだけアイドルブームが巻き上がる中で、8年のキャリアがあるBerryz工房がどういう立ち位置をとっていくのかというのは難しい問題である。いかに「我関せず」という態度をとっていたとしても、否応無しに闘争に巻き込まれてしまう。どうやっても意識せざるをえないだろうし、ファンは勝手に他のアイドルグループと比較を試みる。あるいは逆にその闘争に加わらないことを特権的に持ち上げる。どちらにせよブームの渦中にあることからは逃れられない。
ただ、そういった渦中にあるなかで、Berryz工房は自らと向き合いながら変わり続けてきたし、ある部分では変わらないものを持ち続けてきただろう。それは今回4年前というアイドルブームの萌芽がみられた頃の『ジンギスカン』と今回の『cha cha SING』を単純に比較しただけでも様々なものが見えてくる。
自分はある時期からちょっとBerryz工房についていけないかもしれない、という思いを抱いていた。Berryz工房自体はいつだって大好きだと胸を張って答えることができたが、具体的に新曲が好きか、コンサートツアーが同じ公演に何度も足を運ぶほど好きか、そう問われるとNOであることも多かった。だが、今回『cha cha SING』で思ったのは、常にアイドルの全てが好きである必要はない、ということだった。Berryz工房の良さとして、最初に「バラバラなメンバーが同じ方向を向いた時の爆発力」、と答えたが、Berryz工房全体として様々な方向に舵を取っていたとしても、いずれその方向が自分自身の方向と合致したならば、その瞬間にいつでもBerryz工房という船に迷いなく再び飛び乗って「踊る」ことができる、という嬉しさを感じた。時には船から降りて外から見守ることも決して悪いことではない。そんな心の余裕を今後は確信を持って持ち続けられるだろう。これは言いすぎかもしれないが、そんな「わがままな安心感」がBerryz工房が持つアイドルブームの中での大きな魅力なのかもしれない。

「踊る阿呆だけどただの馬鹿じゃない」

ジンギスカン』気ままに踊る幼稚園児

cha cha SINGフラッシュモブ・屋外編

cha cha SINGフラッシュモブ・屋内編

cha cha SING』では「アイドル初の試み!」と題してフラッシュモブ風動画に挑戦している。本当にアイドル初なのかといった疑問や、フラッシュモブのクオリティ自体はさておき、今回フラッシュモブと公言して公開された動画はなかなか示唆にとんでいるかもしれない。
その前に、もう一度『ジンギスカン』MVを見てみよう。カバー曲という点のみならず『cha cha SING』との大きな共通点なのが、Berryz工房と一緒に踊る人々(幼稚園児)が出演しているという点だ。他のアイドルMVや映画など他ジャンルを見渡せば、アイドルと一緒に踊る人々というモチーフはいくつもみられるのだが、Berryz工房においてこの図式が使われているのはおそらくこの2作品だけだと思われる。
しかし、この2つには大きな違いがある。『ジンギスカン』では、基本的に園児たちはBerryz工房と相対し、メンバーはステージで、園児は客席で自由に踊っている。ここではわざわざ指摘するまでもなく、園児たちはヲタを表している存在である。ヲタは基本的にアイドルの踊りを教授する側であり、ただそれに反応して自由に踊ることもある。
一方、『cha cha SING』のフラッシュモブ動画では、最初は突然「街(ステージではない)」に出現したBerryz工房に驚き、彼女たちを取り巻いて携帯で写真を撮る「傍観者」であった人々が、次第にメンバーとともに同じ方向を向いて・同じ振り付けで踊りだす。ここではジンギスカンと違って踊る人々が「アイドルヲタ」という狭い存在ではなく、Berryz工房は街=タイ=世界に開かれた存在であり、多くの人々と別け隔てなく一緒に踊るという点が強調されている。『cha cha SING』の踊りは原曲のダンスとほぼ一緒なのだが、『ジンギスカン』に比べるとかなり簡単で、一度見ただけで普通の人々が真似できるものになっている。正直Berryz工房のダンススキルから考えると勿体無いけれど、それでいて「Berryz工房らしさ」を感じさせる踊りだ。
cha cha SING』の歌詞はプロデューサーのつんく♂氏が原曲の直訳を参考に彼なりのアレンジで書きなおしたものである*3。それを見てみると、「ちょっと太ったのが気になるの 君らしくないな」「君のことが心配だから ついおせっかいばかり」というように「君」との一対一の関係性から「愛叫び平和願う 世界に響けsing a song」と一足飛びに世界平和を歌う、ファンにはお馴染みのつんく節が散りばめられている。例えば「LOVEマシーン」の歌詞をみればわかるように、つんく♂氏は一貫して「世界(宇宙)」と「踊る」ことを歌詞で描いてきた。個々のアイドルの戦略としてアジア・世界にターゲットを広げるという現実的な話とは別次元で、カバー曲にもかかわらず「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損!」と「世界平和」を強引に結びつけてしまう『cha cha SING』の精神は苦笑いしつつも天晴なものである。最後に言うならば、それをひねった「踊る阿呆だけどただの馬鹿じゃない」という言葉はなかなかインパクトがあり、これまたBerryz工房らしい強さを感じるのだった。
こんなにポジティブに"踊る"ことをプッシュされてしまったら、また自分もBerryz工房の手のひらの上で、いや、一緒の地平線で同じ方向を向いて"踊"らずにはいられない、そう思ったのだった。


*1:特にサビでの細かい区切りが特徴的:愛叫び【熊井】 平和願う【嗣永】

*2:とはいってもBerryz工房は昔からシングル曲では各メンバーのソロパートは比較的多めに用意されており、ジンギスカンが特殊であるのだが

*3:http://www.tsunku.net/pw_Music.php