震災チャリティ企画『「アイドル」はいまなにができるか』「日常と非日常のあいだ/揺らぐアイドルと「現場」」再掲

以下の文章は2011年4月2日に電子書籍販売サービス「パブー」上で東日本大震災へのチャリティを目的として販売された電子書籍同人誌『「アイドル」にいまなにができるか』に寄稿した文章です。
売上が全額寄付されるというパブーの震災チャリティ企画にて発表・販売されたため、現在では読むことができなくなっています。
このまま埋もれてしまうのも惜しいため、アイドル領域vol.5への予告も兼ねて、文学フリマ参加を記念してブログにて再掲します。

震災後ひと月も経たない間に発表されたものであり、今振り返ると拙さの残る点やあの時でしか書けない熱量を感じる点など、なかなか感慨深いものがあります。字体・段落整形を行った以外は、内容は全て当時の原文通りです。


日常と非日常のあいだ/揺らぐアイドルと「現場」

 3月14日月曜日、深夜1時から行われたTBSラジオ伊集院光深夜の馬鹿力は放送が中止になり、地震関連ニュース番組に変更された。しかし開始から約3分間のみ、伊集院光のコメントが生放送された。伊集院は被災者へのお見舞いを述べた後に、いつになく真剣で重々しい口調で、慎重に言葉を選びながら以下のように続けた。

 「個人的にしゃべることを仕事にしている者として葛藤もあります。TBSラジオですとか、僕の個人twitter宛に頂いた、こんなときこそ馬鹿な話を聴きたいという言葉に本当に心が揺さぶられましたが、いまだ頻繁に起こります余震ですとかそれから刻一刻と変わっています原子力発電所の状態ですとか、計画停電などのお知らせですとか、こういったことを正確にいち早くお伝えすることが何より優先であるという考え方には同意いたします。次回の放送までにより面白くよりくだらなくより馬鹿馬鹿しい話が出来るように備えたいと思っています。」
 
 お笑い芸人に出来ること、端的に言えば、それは伊集院も言うように、くだらなく面白い話で人々に笑いをもたらすことであろう。それは地震の影響で疲弊した人々に最も必要な事かもしれないが、同時に「不謹慎」という伝家の宝刀がクリティカルに刺さる場面でもある。この伊集院の言葉には、アイドルという職業あるいは存在に関わる重要な何かが隠されているように思える。
 伊集院は、メディアを介した身体性について非常に敏感で自覚的なタレントである。深夜のラジオをホームグラウンドとして、メディアの種類・番組内容・時間帯などによって自身のキャラクター像を細かく使い分ける。深夜ラジオをホームグラウンドとしている理由は、ラジオというメディアの特性に拠るところが大きいだろう。「声」という制限された情報のみが(主に)リアルタイムで伝達され、はがきやFAX、最近ではメールやHPの番組フォームといったツールによって、古くからタレントとリスナーの間で双方向的な関係が保たれており、心理的な距離が非常に近いメディアであった。
 「双方向的」というキーワードは現在あらゆるメディアにおいて必須の要素と言っても過言ではないが、メディアによって自身の身体性を拡張して情報化し伝達することを生業とするタレントやアーティストそしてアイドルといった人々にとっても、情報の受け手との双方向的なコミュニケーションは当然のようにもっとも重要な要素となった。アイドル界隈ではライブやイベントのことを「現場」と呼ぶが、現代アイドルが「現場主義」であると言われるのは、ライブやイベントのみを大事にするのではなく、さまざまなツールを駆使して密接なコミュニケーションが可能でファンがアイドルの身体性を密度の高い情報として享受できる環境・場を整えることが重要視されている事のあらわれであろう。

 メディアの種類によって異なるのは、情報の密度・コミュニケーションの距離感だけではない。伊集院の身の置き方に見られるように、パブリック/プライベートという基準が考えられる。一般的には、例えばテレビはパブリックなメディアであり、ラジオはプライベート寄り、そしてUstreamやブログはさらにプライベートなメディアである。アイドルという存在は、「アイドル=イコン」としてパブリックで象徴的な存在であることを求められるだけでなく、その性質上一番プライベートな部分は隠されているために、ファンは密度の高いプライベートな情報を欲望することも多い。現在アイドルのプライベート(的な側面)を提供する主なメディアがブログである。そして、先ほど述べた現実世界でのアイドル現場はまさにプライベートな閉鎖空間であり、アイドルの身体性がダイレクトに伝達・共有され、ファンと一体となって祝祭空間=非日常を創り上げる。

 アイドルとファンが創り上げる擬似的な非日常は、正真正銘の非常事態においては、その意味を失い、ブログなどのプライベートな要素と共に「自粛」が求められる。そしてアイドルは「パブリック」な存在であることが強調される。
 伊集院光が「プライベート」な空間として非常に大事にしていた深夜ラジオを断念せざるを得なかった翌日、3月15日火曜日、16時から18時55分までFM長野で生放送された夕方の帯番組『echoes』では、アナウンサーの田中利彦にと共にオトメ☆コーポレーションのなるみがパーソナリティを務めた。オトメ☆コーポレーションは都内のライブハウスを中心として活動する、いわゆる「ライブアイドル」や「地下アイドル」とよばれる部類の3人組のアイドルグループである。リーダーのなるみが長野県伊那市出身のため、オトメ☆コーポレーションしばしば長野県でイベントを行うこともあり、なるみは2010年10月からechoes火曜日の正式なパーソナリティを務めている。echoesはローカルFM内のメインコンテンツかつ情報番組であるため、なるみはアイドルという立場でありながら、ラジオパーソナリティとしてパブリックな側面を期待される場面であった。
 番組は、アナウンサーの田中氏が普段通りあるいは幾分落ち着いたトーンでテンポよく進行する一方で、なるみは明らかに重苦しい雰囲気で、口数も少なかった。番組冒頭で、なるみが11日の震災発生時には東京の自宅にいた事、放送当日に交通網の混乱で東京からFM長野までの移動が非常に困難だったことなどの地震に関するエピソードを恐る恐る語った以外は最低限の仕事をこなしたという印象だった。

 この番組でのなるみの様子はどのように評価されるだろうか。彼女に求められた役割とはなんだったのだろうか。判断は非常に難しい。普段であれば明るく笑いの絶えないアイドルらしさと、交通情報やニュースへつなぐ際に見せる少し固めの「それらしい口調」を使い分ける立派なパーソナリティであるが、このような非常事態化では、何を「自粛」しなければならなかったのだろうか。ましてや全国放送ではなく、基本的には津波等の直接大きな被害はなかった長野県内のみで放送される地方ローカルFM番組である。
 一方、3月21日にBayFMで午後9時頃に放送された『ON8』内の番組『柱NIGHT! with AKB48』では、大島優子高橋みなみ北原里英の3人がAKB48メンバーとして震災後初の生出演を行った。番組内では大島優子が仙台の親戚が被災したことを語り、実家が流され両親が避難生活を送るリスナーからの手紙を読み上げる際に言葉をつまらせ涙し、アイドルにできることとして「歌の力」を強調した。
 この大島優子のラジオでの様子がmixiニュース等で取り上げられると、賛否両論の反応が飛び交った。大島優子の涙や歌のメッセージ性に共感を覚え、元気づけられたと述べる人々と、反対にそれらを「パフォーマンス」であるとみなし、義援金を送る以外はAKB及びアイドルという存在自体を無意味な存在だと吐き捨てる人々。どちらの意見が正しいのか正しくないのか判断はできないが、あえて言うとすれば、後者の人々の拒絶反応は、AKB48冠番組というプライベート的な要素が強い場においてもアイドルに対してパブリックな役割の徹底を求めているために起きた齟齬が引き起こしているのではないだろうか。ラジオ番組の内容が芸能ニュースとして文面のみで伝達された際に情報の質が変化してしまったという点も十分考慮されるべきだろう。

 2つのラジオ番組の様子から浮かび上がってきたのは、アイドルという存在がメディアにおいてパブリックで象徴的な役割が要請されがちな非常事態においても、うろたえる・泣くといったプライベートな側面を見せることも許容される、あるいはむしろプラスの効果を生むことがある、ということが「(若い)女性アイドル」のひとつの特徴ではないかということである。ここでは、アイドルという存在がメディアと共に成立する上で、その身体性のパブリック/プライベートという相異なる要素が混在している様子が見て取れる。
 さて、パブリック/プライベートという要素はどこまで明確に区別できるものなのだろうか。メディアの性質によってある程度規定されるとはいえ、ラジオというメディアの特性を考慮すると一筋縄では行かないように思える。震災時にはラジオは貴重な情報伝達手段として重宝される、非常に公的な性質を持つメディアとなる。しかし、平常時においてはテレビやネットなどのメディアに比べるとラジオのリスナー数は非常に少なく、例えば先ほど伊集院光の例で述べたように深夜放送はパーソナリティのプライベートな空間が形成される。そしてリスナーはパーソナリティとの関係で、二人称と三人称の間を揺れ動く。パーソナリティ同士の会話を第三者として享受することもあり、パーソナリティとの一対一の関係を享受することもあり、そしてリスナーという集合体として一対多の双方向的な関係を享受することもある。

 また、当然のことではあるが、受け手の態度によってもメディアのパブリック/プライベートの区別は易々と破壊される。『echoes』という番組が長野県民をターゲットにし、生活情報・交通情報・ニュースなどのパブリックで「日常」に関わる番組として製作されていたとしても、全てのリスナーによってそのように受容されるとは限らない。パーソナリティである前に「アイドル」であるオトメ☆コーポレーションなるみのファンとして、松本駅近郊に存在するFM長野まで観覧に行き、ガラス張りのスタジオの外からマイクに向かってしゃべるアイドルの姿を見てスケッチブック等でコミュニケーションを図ることは、アイドルのパブリックな姿の裏にある極めてプライベートな姿を受容する、長野以外に在住するファンであるならばちょっとした小旅行も兼ねた「非日常」を求める態度である。そこまでいかなくとも、現在ではLISMO WAVEなどのサービスによって放送エリアの制限なしに関東に居ながら長野のローカルFM放送を聴くことが可能である。関東、関西、あるいは東北に居ながらFM長野を聴く日々を楽しみにしていたファンがいるかもしれない。その行いは果たして日常の一部なのだろうか、それとも非日常の一部なのだろうか。
 再び問おう、『echoes』でオトメ☆コーポレーションなるみに求められた態度とはなんだったのだろうか。『柱NIGHT』でAKB48に求められた態度とはなんだったのだろうか。非常時においてアイドルに期待される「パブリックな側面」とはなんなのだろうか。そもそもアイドルのパブリック/プライベートという側面、あるいはアイドルを受容する中で日常/非日常を峻別することなど可能なのであろうか。


 大震災及び津波原子力発電所の異常事態は、我々の日常を徹底的に破壊した。それは単に日常という状態から非日常に移行しただけのことではなく、日常という”意味”そのものを破壊したように思える。我々はどうしたら日常に戻れるのだろうか。むしろ我々が今まで日常と呼んでいたものはなんだったのだろうか。そのような根本的な問いに向き合い続けなければならない日々が現在でも続いている。

「またみんなでMIX打とうぜ!!」


 これは筆者のtwitterのタイムラインにRTとして流れてきた面識のない(おそらくAKBファンの)アイドルファンのツイートである。
先程「現場」の説明をした際に、アイドル現場は祝祭空間であり非日常的空間であると述べた。宮台真司の言葉を借りるならば「終わり無き日常」とでも言うべき日々の中で、アイドルファンはそこからほんの少し逸脱した「非日常」を求め、アイドル現場へと足を運ぶ。また、様々なツールのおかげで、ネット上にいても拡張された現場とでも言うべきアイドルを介したコミュニケーション空間が成立している。そのような日々を過ごすうちに、アイドルファンの中でアイドルの「非日常性」は次第に日常の一部に回収されていったのではないだろうか。引用したツイートは、「非日常と共にある日常への回帰」を示しているといえる。
 虚構/現実・パブリック/プライベート・キャラクター/身体… 様々な二項対立の間で揺らいでいたはずのアイドルという存在は、厳然たる非常事態を前にして、非常に窮屈で一面的な存在に変わってしまった、あるいはそう振舞うように要請されているように思える。それは我々が日常/非日常という二項対立の中で生きているのではなく、ちょっとした非日常を日常に取り込むことによって成立していた、揺らぎのある日常とでもいうべきカッコつきの<日常>の中に生きていたこと、そしてその揺らぎのある<日常>が圧倒的な非日常によって破壊されてしまったことと対応している。アイドルに限らず、様々な「揺らぎ」のあるものが自粛され我々は硬直した窮屈な世界に閉じ込められている。我々の<日常>は物理的に壊れる一方、様々なものが硬直することで逆説的にまた壊れているように思える。冒頭で挙げた伊集院光の例を考えてみても、伊集院は笑いをある種の「揺らぎ」として捉え、リスナーにとって硬直した世界をほぐれさせようとしていたのではないだろうか。

 したがって、我々が<日常>を取り戻すということは、小さな非日常を取り込んだ「揺らぎ」のある生活を取り戻すことであり、アイドルファンにとっては、アイドルのアイドルらしさを取り戻すということにほかならない。圧倒的な非日常の前で「アイドルに何が出来るか」という問いを突き詰めることで、ついアイドルの「本質」などというものを規定してしまいがちではあるが、アイドルの役割としてパブリックで経済的あるいは精神的に実益のある側面のみに囚われていてはならない。アイドルのアイドルらしさとは、結局のところいくら考えてもよくわからないものであり、様々な二項対立の間で揺れる存在、つまり「揺らぎ」そのものではないだろうか。そして我々アイドルファンはその揺らぎの中に得体のしれない魅惑的な力を見出し、<日常>に思い思いの形で取り込んでいるはずだ。
 たとえばアイドルがラジオ番組を放送することで、その内容・態度がどうであれ、様々な形でリスナーとのコミュニケーションが生まれ、アイドルという存在が揺らぎのある情報としてリスナーに伝達される。冒頭で述べたように、現場を「アイドルとのコミュニケーションによってファンがアイドルの身体性を密度の高い情報として享受できる環境・場」と広く捉えるのならば、ここには「広義の現場」と呼ぶことが可能な空間が存在している。そこでは直接的には正しさも実益もない。ファンがアイドルをどのように受容するかは別問題であり、ただ日常と非日常の間にある空間・場が存在するだけである。

 ラジオ・テレビ・ブログ・ライブ会場。そのすべてを大きく「現場」と呼ぶことができるのならば、マスメディアに乗ることが出来るメジャーアイドルだけでなくたとえファン数の少ないマイナーなアイドルであっても、「アイドルにできること」という特別な問題提起の前に「一般人に出来ること」あるいは「アイドルと一般人の違い」について悩むことはない。アイドルに出来ることは、どんな規模であれ、ファンとのコミュニケーションによって日常と非日常の間にある揺らぎのある空間=「現場」を創り上げることである。
 最も典型的な「現場」では、例えば、規模の小さいライブアイドルの周辺では、ファン同士が直接頻繁に顔を合わせるためにネット上の「クラスタ」と呼ばれる集団よりも更に狭く密接なコミュニティがある種の中間共同体のような形で存在している。このように、アイドルは明確に「第三の場所」としてのコミュニティのハブ的役割を担っている場合もある。そこまで直接的ではないにせよ、アイドルと直接対面する空間あるいはメディアを介して接するあらゆる「現場」において、様々な形に変化するアイドルの身体性を感じ取ること、そして日常と非日常のゆらぎを感じ取ることで、我々アイドルファンはアイドル及び自分自身が「生きていること・いまここにいること」そのものについて考えざるを得ないだろう。遠回りして飛躍を重ねつつ行き着いた最終的な答えとして、アイドルにできることとは、”日常と非日常の間で揺らぐ「現場」=「アイドルファンにとっての<日常>」を取り戻すことによって「生への想像力」を喚起すること”ではないだろうか。


 現代において我々はどこまでも均一化した「郊外的な空間」の中で閉塞感に生きており、失われた<ここではない、どこか>=<非日常>への逃避を願っていると評されることがしばしばある。しかし、これまでの我々の想像力を遥かに超えた圧倒的な非日常が、「東北地方」という多くの日本人にとって現実感を持って実感可能な想像力の範囲内に出現したことで、今一度<ここではない、どこか>よりも<いま、ここにいること>について見つめ直す時が訪れている。アイドルファンがアイドルと向きあう場所を、現実空間だけでなくマスメディアやネット上での情報交換・コミュニケーションを含めて「現場」として空間的に捉えることで、アイドルがもたらすものを<ここではない、どこか>への逃避あるいは単なる情報との戯れとして解釈するに留まるのではなく、人間としての”実存”のありかである<いま、ここ>に関わるものとして捉え直す契機になるはずである。アイドルもアイドルファンも人間である。人間とは不確定な存在であり、まさに「揺らぎ」の中に生きている存在に他ならない。


 以上の文章では、日常/非日常という非常に大きな枠組みのあり方をアイドルのあり方にひきつけて言及したものの、多用された「現場」という用語が示すように、アイドルとアイドルファンという関係性に限定された記述に留まる部分が大半を占めている。もちろん、一部のトップアイドルたちはアイドルファンという枠を越えて働きかける力を持っているかもしれない。しかし、たとえマイナーなアイドルであっても、例えば地方のFMラジオ番組で、またあるときはショッピングモールでの無料ライブで、一般の人々の生活のふとした瞬間に「揺らぎ」をもたらす可能性を持っているかもしれない。そうした日常の中にある小さな非日常によってこそ、逆説的に失われた<日常>が戻ってくるのではないだろうか。
 

 本稿で言及する<日常>は、今回の災害をあくまで「現実として実感可能な想像力の範囲内」として受け止めたに過ぎない身から、アイドルというフィルターを通して見えるものであり、さらには「我々」という単語がどこまでの射程をもつのかという点において非常に心苦しい。
 最後に、圧倒的な非日常を生きている方々、そして生きることすら叶わなかった方々に心からお見舞い申し上げると共に、一日も早い復興と<日常>への回帰をお祈りいたします。

(2011年3月30日)