5/18 モーニング娘。コンサートツアー2012春 〜 ウルトラスマート 〜 新垣里沙・光井愛佳卒業スペシャル@武道館 /光井愛佳の魅力に気づかない鈍感な人

娘。コンに行くのは2010年12月のジュンリン亀井卒コン以来(http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20101215/1292436484)、間を空けてまたしても卒コンといいとこつまみ食いのなんちゃってハロヲタっぷりである。

しかしまぁ驚くほどに希望に満ちた、幸せな卒業コンサートだった。11期オーデの発表、9期10期による新時代の夜明けを偉大なるモーニング娘。の母ことガキさんが笑顔で見送る。ガキさんは常に笑顔で、生田会長を筆頭として母を慕って泣きじゃくる後輩たちの姿も、さらりと断絶や和解の経緯を話すほどに丸くなった田中れいなでさえも微笑ましい。セレモニー中に何度も観客は爆笑し、なごやかで、そしてなぜか自然と涙が溢れるような美しい空間だった。ガキさんの卒業記念ソングが松浦亜弥嬢のカバーと知って少しがっかりしたのはいつだったか、今となっては『笑顔に涙』というこれ以上ないタイトルが憎い。なにせ10年以上モーニング娘。に在籍し続けた新垣里沙だ。そんなレジェンドの卒業公演がすばらしくないわけがなかろう。これ以上は長きにわたってモーニング娘。新垣里沙を見守り続けてきたファンに存分に語ってもらうことにする。


そんな新垣里沙卒業コンサートに、20日前に急遽同時卒業が決まった光井愛佳。中盤で見せ場を作ってもらったとはいえ、偉大な先輩ガキさんの影で、最後まで主役になりきれなかった。未だに公式サイトのイベント名アナウンスは「モーニング娘。コンサートツアー2012春 〜 ウルトラスマート 〜 新垣里沙卒業スペシャル」である。
少しハロプロに詳しいファンであればご存知のように、光井愛佳は不遇なメンバーだった。不人気なメンバーというのはどうしても存在するものだが、彼女ほど「嫌われた」メンバーも例を見ないであろう。加入当初の新垣里沙は光井とは比較のしようがないほど批判や嫌悪を浴びていたと言われることもあるが、現在では誰もが認めるモーニング娘。の良心である。その二人が同時に卒業というのもまた皮肉である。もちろん光井愛佳のファンも数多く存在するが、それ以上に、ルックス・喋り声・態度・あるいはオーディション時の落選候補者(!!)などありとあらゆる要素をネット上で叩き尽くされてきた彼女。何を隠そう自分も彼女に対してそこまでいい印象を持っていなかった。
ネット等で誹謗中傷することの是非はともかく、好きなアイドルがいれば、嫌いなアイドルが居るのはある種当然のことであろう。我々が、特定のアイドルを好きな理由を究極的には説明できないのと同様に、嫌いなアイドルがなぜ嫌いなのかも上手く説明できない。好きと嫌いは紙一重とよく言われるように、無関心なアイドルは星の数ほどいても、嫌われるアイドルというのはまた特別な存在だ。AKB48前田敦子が象徴するように、人の注目を集める人間というのはそれだけ特に理由もなく嫌われやすいものである。

卒業セレモニーでも先輩メンバーからは「中間管理職として、嫌われ役を買って出てくれて助かった」と、後輩メンバーからは「最初は怖かったけど、叱ってくれて成長することができた」と感謝されていた光井。しかし、ファンにとっては、所謂「プラチナ期」のメンバーの中では(ジュンジュンリンリンを除けば)最も後輩でお荷物扱い、9期が入るまでは「停滞」の象徴とも受け取られ、9期10期が入ってからは可愛い後輩を虐めて調子に乗っている奴、と見られてしまう。アイドルファンというのはとにかくワガママな存在だ。しかし、そんなワガママや不合理さ、気持ち悪さを受け入れてくれるのがアイドルの最も良い所の一つであるように思える。そうであるならば、光井はある意味その不平や不満のはけ口としての役割を担ってくれていたのかもしれない。

さて、光井愛佳卒業コンサートとなれば、おそらく彼女が歌うであろう曲はひとつしかない。プラチナ9DISCに収録された「私の魅力に気づかない鈍感な人」である。恐ろしいタイトルである。歌詞はもっと恐ろしい。鈍感呼ばわりしている相手は一応彼氏らしいが、それこそ単に「あなたの後ろチョロチョロしてるだけ」の可能性もある。初詣デートをすればメイクが似合っていないと「化粧をおとされる」(!?)というもはやデートDVの域だ。そんな彼氏を鈍感呼ばわりしポジティブに「遠い未来に起こる全てを乗り越えながら歩き続けたい」と締める曲である。とにかく恐ろしい。そして果てしなくウザい。そのウザさが光井にぴったりである。
いくらネットで嫌われている(?)とはいえ、コンサート会場で、ましてや卒業セレモニーで罵声を浴びせるような愚かなファンは会場には居ない。先ほど述べたように、好きと嫌いは紙一重である。嫌いというよりも、ウザい、こう、何か心に引っかかる。彼女に対してそんな思いを持っているファンは自分を含めて多いのではないだろうか。卒業セレモニーは暖かくファンに迎えられ進行するが、残されたメンバーによる送辞に答えるたった一声の「はい!」「うん!」という声がまたウザい。あぁ最後まで光井はウザいのだなぁとなんだか笑えてくる。もはやこの「ウザさ」にマイナスの意味はほとんど持ち合わせてない。

そしていよいよソロ曲を披露する時が来た。流れてきたイントロはもちろん「鈍感」である。彼女のメンバーカラーである紫色のサイリュームが武道館という空間を覆い尽くし、揺れる。大きな歓声。「鈍感」は人気曲だ。甘ったるい歌い声につい顔がにやけながらケチャを送る。観客のボルテージの上昇を表すように、おぉォォォ!!という掛け声からウリャオイへつながる。Aメロは名前コール、BメロはPPPHに重ね名前コール、サビはクラップ&マワリ。極めてクラシックスタイルで定番のコールが入る楽曲作りが心地よい。
「私の魅力に気づかない鈍感な人」。ファンに向けて悪びれずに歌いかける光井愛佳。もとより愛佳の魅力に既に気づいていた人、そしてようやく気づいた人。もはやこの会場に愛佳の魅力に気づいていない人は居ない。愛佳は祝福され、もはや全てのファンに許されている。赦されている?いや逆だ、我々が愛佳に赦されていたのだ。一万の紫色のサイリュームの揺れは、まるで我々の魂のようだ。我々の魂は愛佳に祝福されている。一万の魂と視線を一身に受け、さらにはサテライト中継で各地の映画館にいる人々から祝福され、祝福し返している。本日2曲目に披露された「グルグルJUMP」のサビで両手をヒラヒラさせながらがに股で回って踊るときに、世界は祝福されたと毎回根拠無く思うのだが、「鈍感」で両手を手の上で叩きながらピョンピョンと猿のように飛び跳ねている時も、愛佳は武道館全体そしてサテライト中継で全世界を祝福しているのだなぁと感じた。



光井愛佳さん、卒業おめでとうございます。今まで「鈍感」でごめんなさい。そしてこんな鈍感な我々のわがままな思いを引き受けてくれていて、本当にありがとう。

第14回文学フリマ

明日5月6日に開催される第14回文学フリマにて頒布される『アイドル領域Vol.4』に寄稿しました。

同人誌名:『アイドル領域Vol.4』(新刊)
(全108頁、価格:700円)
日時:5月6日(日)
第14回文学フリマhttp://bunfree.net/
場所:東京流通センター
サークル名:「ムスメラウンジ」
ブース:エ-48(AKB48で覚えてください)

『アイドル領域Vol.4』詳細 http://d.hatena.ne.jp/onoya/20120427

表紙詳細 http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=27045558

アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.4

自分の原稿のタイトルは「ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム」です。
2000年代以降のネット技術及びネット文化の発展に伴いアイドルを巡る状況が変遷していったこと、そしてアイドルの成立基盤に危機が生じていること、それに対して既存のメディアが新しいアプローチでアイドルと言う存在を捉えていること、そして今後のアイドルとファンのあり方について考察するという内容です。書き始めると様々なトピックを入れ込みたくなってしまうので完成稿は35,000字を超えるという恐ろしいことになってしまいました。自分以外の執筆陣の論考も素晴らしいものばかりなので、是非手にとっていただければ幸いです。

登場キーワード
・ブログ ・2ちゃんねるtwitterustreamGoogle+ ・ワッチ
・DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on少女たちは傷つきながら、夢を見る・数学女子学園 ・こんなのアイドルじゃないん? ・グラビアアイドル裏物語 ・さばドル

2012/6/1追記:
友人@katatemaruが本論考に関する濃厚なレビューを書いてくれたので、是非読んでいただきたいです。
ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム
http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20120525/1337920038


「ムスメラウンジ」の横に位置する「No Knowledge Product」の新刊にも寄稿しています。

同人誌名:『What Is Idol?』vol.7
A5版 66ページ(本誌)、8ページ(別冊)
サークル名:「No Knowledge Product」
ブース:エ-47

表紙詳細 http://wp.me/pWWKg-2N

『What Is Idol?』vol.7 詳細 http://whatisidol.jimdo.com/

こちらでは茨城県下妻市の地方アイドル「しもんchu」についてぐちゃぐちゃ騒いでいたり、東京女子流について騒いでいたり、アイドル楽曲クロスレビューに参加したりしています。
アイドル領域とは違い気楽に読める楽しい冊子になっているのでこちらもよろしくお願いします。

5/4 Hey!Say!JUMP ASIA FIRST TOUR 2012 @横浜アリーナ/アリーナという空間とアイドルの身体

Hey!Say!JUMPのコンサートに行ってきた。約一年ぶり、前回のJUMPコンがジャニーズとしては初参加のコンサートで、3月のSexy Zoneのコンサートが2回目、そして今回のJUMPコンが3回目。まだまだジャニーズ初心者である。
ちなみに初参加したJUMPコンでの感想ツイートをまとめたTogetterがこれ。

ジャニーズ初心者のハロヲタ男子が行くHey!Say!JUMPコンサート初参加感想
http://togetter.com/li/86021

ハロヲタ男子」などという恥ずかしすぎる呼称を使ってしまった件に関しては深く反省して、今回の感想を。

そもそも自分はHey!Say!JUMPに関してはメンバーの顔と名前がぎりぎり一致する程度で、お気に入りの山田涼介君と八乙女光君を除くとその他のメンバーのパーソナリティは殆ど知らないという状態だ。楽曲は馬飼野康二氏が関わるシングル曲は非常に好きで、特に「真夜中のシャドーボーイ」と最新シングルの「SUPER DELICATE」がお気に入りである。前回のJUMPコンの参加動機は真夜中のシャドーボーイを生で見たかったというものであり、今回の参加動機は歌番組で見たSUPER DELICATEのJUMPメンが縦一列に並び最前の山田君の残像のように時間差で動くダンスの素晴らしさをこの目で生で見てみたいというものだった。

全体的な感想を先に言うと、前半は微妙だったが、後半はかなり楽むことができた。「Ultra Music Power」「情熱JUMP」「Dreams come true」「SUPER DELICATE」という人気のシングルを中心としたスタートダッシュは勢いがあったが、その先から中盤が非常に中だるみしていたように感じられた。そして真夜中のシャドーボーイでそれまでの(あれ、こんなもんか)という失望は吹き飛び一気にボルテージは最高潮、幸せな気分で終演を迎えることができた。

中盤に中だるみしたように感じられたのはいくつかの理由にまとめることができるかもしれない。ゴンドラに乗って移動したりワイヤーで空を飛んだり、イリュージョンをしてみたり楽器を演奏したりと様々な試みが次々と登場するのだが、それに対して新鮮な驚きと喜びを感じるかというとそうではなかった。SUPER DELICATEや後半の曲で気づいたのだが、自分はHey!Say!JUMPが全員で踊っていることに対してどうやら一番魅力を感じるようだ。ジャニーズのユニットの中でも(現状)9人組という大所帯で、その特徴を生かした統率のとれたフォーメーションダンスの輝き。たしかにSMAPや嵐、Sexy Zoneといった5〜6人組メンバーの方が各メンバーのキャラクターも覚えやすいしバランスがいいのだが、Hey!Say!JUMPに関してはメンバーのキャラクターがわからなくてもJUMP全体、一体としての魅力を感じることができる。特定の担当(推し)メンバーがいるファンであればそのメンバーを目で追いかけ、外周ステージをまわって自分の近くに来た時にアピールをするという楽しみ方があるが、自分の場合はそれがないために外周にメンバーが散り散りになることはおろか、Hey! Say! 7とHey! Say! BESTの2グループに別れるだけでも魅力が薄れるように感じてしまうのが残念だった。

そのようなわがままな初心者ファンの自分を喜ばせてくれたのは、やはりSUPER DELICATEだった。アリーナ中央のセンターステージにメンバー全員が集まりフォーメーションチェンジを繰り返しながらキレのあるダンスを繰り出していく。JUMPの集団ダンスは「静と動」の使い方が非常に上手だ。普段自分が見ている女性アイドルのダンスが主にしなやかさやダイナミックさといった側面をアピールするのに対し、彼らは手や首や身体の角度とシルエットを重視しているように思える。運良くサブステージに近い立ち見席だったので、メンバーが一直線に並び山田君の残像となって時間差で動いていく様子を正面に近い位置からみることができた。SUPER DELICATEでのJUMPはまるでひとつの生命体のようだ。山田涼介という絶対的なエースの影に徹しながらも、細かく自己主張するメンバーたち。山田涼介すなわちHey!Say!JUMPと錯覚しそうであるが、少し考えればどう見てもこのダンスの肝は影たる他の8人の動きだ。自分が思うHey!Say!JUMPという存在そのものを表現しているSUPER DELICATEはほんとうに素晴らしい。
とりわけ凄かったのが、間奏Cメロ明けのラストサビ。山田涼介と中島裕翔が見つめ合ったまま動かない。SUPER DELICATEは「君にしか見せられない顔がある」と繰り返すが、この「君」は我々観客だと思っていたら中島裕翔だった。この裏切りに会場は騒然とし、悲鳴が反響する。ジャニーズのコンサートではこのようなホモセクシャルな関係を匂わすファンサービスがMCや曲中にたびたび挿入されるのは「お約束」なのだろうが、自分はこの手のお約束はあまり好きではなかった。しかし、この時の二人の見つめ合いは「お約束」「ホモセクシャル」といった切り取り方をする前に直接その凄みが自分に突き刺さってきて、身体が震えた。
言い方が難しい。自分がホモセクシャルに目覚めたとかジャニーズのお約束に対応したとか、おそらくそういうことではなかったのだ。このようにメンバー同士が見つめ合う姿に観客が反応するというパターンは、例えば落ちサビなどで特定のメンバーに注目が集まり(真夜中のシャドーボーイだったら「shadow...」、Sexy Zoneだったら「Sexy Rose...」などがわかりやすい)観客の期待を一心に背負った上で行う事が多い。女性アイドルファンだったら最近の曲だと東京女子流の「Liar」で山邊未夢と庄司芽生がキスをする振り付けを思い出してもらいたい。しかしSUPER DELICATEでの見つめ合いはラストの大サビで、センターステージの真ん中で、他のメンバーは踊りだしている中で行われていた。今までの歌番組で披露してきたこの顔の寄せ合いは、カメラ=我々の視線に対して目を向けながら行われていた。しかし、今回は360度全方位から15000人のファンの視線を浴びながら、二人は目を向け合い続ける。他のメンバーと我々は最後のサビでラストに向けて走りだしているのに、まるで二人だけ時が止まったようだ。その見つめ合いは息が詰まるほどに長く感じられ、「もうやめて!」なのか「もっと!もっと!」なのかは僕にはわからなかったが、横浜アリーナは凄まじい悲鳴で覆われる。その悲鳴をあざ笑うかのように、いや、2人は我々のことなどまるで全く気にかけていないかのように(テレビカメラの視線に対してアピールするのとは対照的である)見つめ合い続ける。山田・中島と我々は同じ空間にいながらも完全に断絶していた。わざわざ全国から会いに来たのに、やっと同じ空間で相対することができたのに、すべての視線を受けながらも2人はそのすべての視線に応えようとしなかったのだ。ここで我々は二人の前では皆平等だった。決して交わることのない、不可侵な領域。自分は二人のホモセクシャル的な関係性よりも、アイドル-ファンという関係性の中で、アイドルという不可侵な領域がステージに立ち現れていたことに衝撃を受けていたのだろう。
それにしても山田涼介という存在の凄みを改めて感じた。この男は、自分がJUMPの中でどういう存在であり、ファンからどういう役割・虚像を求められているのかをほぼ理解していて、そこから逃げるでもなく、「お約束」としておざなりに済ませてしまうあるいはネタや笑いにしてしまうのでもなく、正面からその欲望に向きあって、こちらの想像以上のものを投げ返してくれる。なんて格好良いのだろうか。


さて、SUPER DELICATEの素晴らしさはこれくらいにして、中盤以降の話へ。様々な試みに挑戦していたもののどれもあまり心に響かなかったことは既に書いたが、その試みの中で一番自分が好きだったのは、和太鼓だった。広いメインステージにまっすぐ横一列に等間隔に並べられた9つの和太鼓。太鼓の腹の部分は様々な色が発光するようになっており、JUMPのイメージにはあまりむすびつかない和太鼓のパフォーマンスで、シンプルな力強さと光によるエンターテインメント性を兼ね備えたものに仕上がっていた。
ここでよかったのは、メインステージに9人が横並びになってどっしりと構えている点である。今回のコンサートでは、メインステージを使うときは9人がこのように横並びでステージいっぱいに広がることが多かった。特に目を引いたのが、ステージの背面にある巨大スクリーンに流れる映像とJUMPメンバーの動きを組み合わせた演出である。KAGEMUというライブパフォーマンスユニットが得意とする演出方法であり、昨年2011年紅白歌合戦において先輩ユニット嵐がチームラボとコラボレーションしこのような演出を用いたことでも有名である。

自分が初めてテレビ番組でKAGEMUのパフォーマンスを見たとき、近い将来アイドルコンサートの演出でもこれは流行するだろうなと思っていたら嵐が早速紅白歌合戦で取り入れており、今回JUMPコンサートで初めてこれに近い演出を生でみることができた。メインステージの横いっぱいにJUMPメンバーが広がり、メインスクリーンの映像と共に踊る姿はほぼ真反対のサブステージ側から見ても非常に見応えがあった。これは大人数のJUMPならではの演出だったと思うし、メインステージいっぱいに広がることでフォーメーションチェンジができなくても、個々のメンバーに順番に光を当てたり、メインステージにメンバーの分身を投影して実際の身体と組み合わせることで、斬新でスペクタクルなステージが成立していた。
特にこの映像と身体を組み合わせた演出が光っていたのは、後半頭についにやってきた「真夜中のシャドーボーイ」だった。真夜中のシャドーボーイではメインステージの手前に光を半透過する布を張っており、そこにも映像を投影することで、メインスクリーン/ステージ上のメンバー/前面の即席巨大スクリーンという3層のレイヤーがメインステージ上に出現した。基本的に暗いステージで、上下のセットも使って大きく広がった9人のメンバー。ソロパートごとに個別のメンバーにスポットライトを当てて身体がステージに浮かび上がり、同時にメインスクリーンではそのメンバーの分身が投影され、さらに前面の半透過スクリーンでは例えるならスーパーロボット大戦の戦闘シーンのカットインのように超巨大なメンバーの顔のアップが重ねられるという演出が登場したのだった。

参考:スーパーロボット大戦のカットイン
ロボットのレイヤーの上に、人物のレイヤーがカットインする様子


メンバー紹介のPV映像のようでもあり、ゲームのようでもある。現実の身体が拡張され、物体と情報の間でアイドルの身体が揺らいでいく。これまでもアイドルコンサートでは後方の観客のためにメインスクリーンやサブスクリーンにメンバーの顔のアップを映すことは行われてきたが、メンバー及びステージの前面のレイヤーに顔のアップを投影するという映像体験は初めてであり、メンバーの背面に映し出されるのとは全く印象が異なる。メインステージはアイドルの身体と接続しアイドルの生身の身体が拡張されたものが映し出されており、その前面に突如として巨大な顔のアップという生身の身体からは切り離されたものが挿入されたときの興奮をどう表現すればいいのかわからない。山田涼介の「shadow...」という台詞部分やラストの「傷つけずに愛したい」というパートで彼の顔が映しだされたときは興奮のあまり倒れるかと思ってしまった。

真夜中のシャドーボーイの後もBEAT LINEやOVERといった格好良い曲が続き、「Thank you〜僕たちから君へ〜」から「ありがとう〜世界のどこにいても〜」というありがとう繋ぎもばっちり決め、アンコールを3曲歌ってコンサートは終わった。

「SUPER DELICATE」「真夜中のシャドーボーイ」という自分が大好きな二曲でこのような素晴らしい演出を体験することができて本当に楽しいコンサートだった。今回のJUMPコンサートでは、改めてジャニーズの飛び抜けた演出力を見ることができた。イリュージョンやワイヤー飛翔など、「空間」を使う試みはまだまだなように思えたが(この部分に関してはDVD等で見る限りドーム級を経験している先輩ユニットが得意としているのだろう。JUMPの今後の課題なのかもしれない)、その反面「真夜中のシャドーボーイ」で登場した3層構造の演出は、客席に対してある意味「平面」であるメインステージ部分を使って、アイドルの身体を現実空間でどのように拡張表現していくのかという問題意識に対して刺激的で示唆的なものが提示されていた。そして「SUPER DELICATE」でもこれだけ多くのファンを背負ったアイドルがなお「アイドル」として成立しているその聖域の秘訣と秘めたる力の一部を思い知らされた。

正直なところ次はやっぱりSexy Zoneを見に行きたいかな、メンバーそれぞれのキャラが掴めてるし!とも思ったのだが、Hey!Say!JUMPもまた一年後くらいに見に行きたいと思う。その時も多分自分は山田くん以外のメンバーのキャラクターを知らないままだろうけれど、それでいい、それでも楽しませてくれるという信頼感がHey!Say!JUMPにはあるのだ。


SUMMARY 2011 in DOME

SUMMARY 2011 in DOME

1/28 9nine ワンマン9nine〜略して"ワンナイ"スペシャル!!〜 @品川ステラボール

前回のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20120126/1327591343)に続いてまたまた9nineの話。今度はワンマンライブの感想。

最初に自分がどの程度の9nineファンかというと、最初はやっぱりウミカチャン(川島海荷)が好きで*1、新生9nineの再始動後からチェックするようになり、特番や『GO!GO!9nine』を楽しみにしていて、現在放送中の『こんなのアイドルじゃナイン!?』がとても好きで、今回のワンマンがライブを見るのが初めてというライト層である。
1stワンマンに行く機会を逃してしまい、池袋や川崎・横浜でシングル発売ごとに今までに行なってきたリリースイベントも気になっていたけれど、パブリックスペースでの無料ライブでの9nine初体験は「もったいない」気がしていたので、我慢して単独ライブまで待つことにしていた。前回のエントリにも書いたように、9nineはテレビメディアで見ていたいという気持ちもあり、握手等の接触にも(そもそも個人的にアイドルの握手会自体にそこまで価値を感じないので)興味がなかったのでとにかくライブを楽しみにしていた。


アイドルファンの分母が増え、若いファンも増えたことで、「ピンチケ」という単語に全てが集約されていくように、(もちろん以前から存在した永遠のテーマであるけれど)ライブマナーや応援スタイルの共有について、様々なアイドル現場において苦言が呈されている印象がある。ネット上の反応を見た限りでは、9nineでも無料のリリースイベントでは同様の問題が指摘されていたが、無料なのである程度は仕方がないものであろう。
しかし今回の品川ステラボールでのライブでは、もちろんそのような問題が完全に払拭されていたとは言えないが、しっかり4000円程度の入場料を課したことで、騒ぎたいだけのファンは殆ど見られず、にも関わらず1列目の最後尾までほとんど席が埋まっていた。
近年のアイドルブームにおいてアイドルの魅力としてよく語られる要素として、会場の熱気・一体感があげられる。そしてそれらを生み出すために、ファンと「お約束」のやり取りを行う自己紹介文化が広まっていたり、ファンの側でもMIXを始めとしたコール(&レスポンス)などの文化が共有されている。
だが、熱心な9nineファンがステラボールに集結し、会場全体が一体感に包まれていたかというと、そうではなかったように思える。サイリュームだけは公式グッズでもあるしさすがに基本中の基本ということなのか多くの人が用意して振っていたが、色つきの公式Tシャツを着ているファンも他の現場に比べると少ないし、MIXはおろか、PPPH、オーイング(Bメロで多用される、「オーー!!」という掛け声)、名前コール(同じくBメロで多用される、本来PPPHが入る所でメンバーの名前を叫ぶ)が殆ど見られない。今思えばジャンプをしている人もほとんどいなかったし、本当に「オイ!オイ!」という基本中の基本である掛け声以外が入ることはなく、実に快適にステージを見ていられた。
だが、これは例えば「9nineはあくまで「パフォーマンスガールズユニット」だからアイドル文化とは違うのだ」という9nine文化が共有されているといったわけでは決してなかったように思える。例えば同じく「パフォーマンスガールズユニット」という枠で括れそうな東京女子流の現場だと、ファン自体はアイドル現場慣れしている雰囲気があるが、「女子流の空気」を創り上げようという意思の共有がしっかりされている印象があるのとは対照的だ。曲調・ライブの少なさ、様々な理由が考えられるが、自分を含め、単純にテレビで9nineを見て好きになったライトファン層が非常に多かったのではないだろうか。メンバー別のカラーTシャツでも一般世間で圧倒的な知名度を誇る川島海荷の青色Tシャツの数が断トツで多かったが、他のアイドル現場の経験からすると、メンバーの人気というのは一般的な知名度とは必ずしも比例しないイメージがあるので、このあたりが9nineの特徴として指摘できるかもしれない。これは完全に主観的な観察なのだが、ハロプロや地下アイドル現場に通い慣れると、なんとも言えない「アイドルヲタ」の雰囲気を感じ取れるようになるのだが、入場待ち中の9nineファンからはそのような雰囲気を纏っていない人が多かった。
ライブ中もサイリュームを目の前に縦に振るだけの人が多く、誤解をまねくかもしれないがジャニーズコンサートと似た雰囲気を感じた。一番印象的だったのは、アンコールの場面である。手馴れた若いヲタが「ナイン!ナイン!」というアンコールを始めようとした(アイドル名をアンコールで叫ぶのはある種のお約束である)のだが、全く会場に広まらず、アンコールが中断されてしまった。その後ようやく通常の「アンコール!アンコール!」という方式で再開されたのだが、席に座っているだけの人がとても多く、声を出している(出し慣れている)ファンは非常に限られていた。


アンコールの話を先にしてしまったが、開始前からこのようなどこか一歩引いた雰囲気に包まれたファンを前にして9nineが会場を盛り上げられるのか心配になったが、それは全くの杞憂であった。1曲目の「チクタク☆2NITE」で、サビの「負けない泣かない諦めない!」という早口のセリフをCD音源とは全く別の歌い方で会場のファンに向かって投げかけた瞬間がとても象徴的であった。9nineの大きな魅力の一つである生歌、声の力強さで会場を沸かせると、サビの長針と短針を両手で示す印象的な振り付けでダイナミックな動きを表現する。9nineはこれまでもヘッドセットが標準装備であり、マイクを持たなくていいために特にシングル曲では両手の動きを魅せる振付が独特である。ヘッドセットでしっかり歌う、同時に両手を大きく動かしながら踊るという2大ポイントを1曲目の「チクタク☆2NITE」からぶつけてきたのだ。

両手をグルグルと回す振り付けは「これぞ9nine!」と思わせる力があり、見ていてとても気持ちがいい。9nineは「パフォーマンスガールズユニット」を名乗るのだが、その割には歌も踊りも飛び抜けて上手いかというとそうではない。かんちゃん・ヒロロの2人という歌と踊りの核は揃っているものの、その2人を必要以上に特別視しない。特にダンスにおいてその意識は顕著であり、9nineはダンスフォーメーションにおいて縦横斜めのラインを形成することが多いのだが、「横並び」が意識されているし、センターポジションも(基本はかんちゃんだが)すぐに変わっていく。特にヒロロの扱いについて思うのだが、ああいう背が小さくてダイナミックに踊れる子を中央に置くと素人目に見ても見栄えがいいのは明らかなのだが、そのような形式に甘えない。ヒロロ1TOPセンターのフォーメーションは普段は懐にしまっておくのだから出てきたときにはより目立つし、それ以上に海荷センターという伝家の宝刀も隠し持っている。ラインダンスでは曲の泊に合わせてメンバーが一人づつポーズを決める動きが多用されるのが目立つ(これはGO!GO!9nineの時に「SHINING☆STAR」のPV撮影の時に特に取り上げられていた記憶がある)。9nineのダンスは全体的にタイミングタイミングでぴたっと「静止」を挟むのが特徴のように思える。手を振り回す「ぐるぐる」と体全体を止める「ぴたっ」、この2つの動きを5人全員で作り上げているのだ。
しかし今回はワンマンライブということもあり、ソロダンスコーナーが用意されていて、普段意識されている「5人揃ったダンス」とは違った趣きを見ることができた。ダンサブルなバックミュージックが流れる中、「誰から行く?」「うみか、踊りたいの!?」などの茶番を挟みつつ、かんちゃん→ちゃあぽん→海荷→うっきー→ヒロロというこれしかない順番でソロダンスを披露していく。大人の色気ダンスで貫禄のかんちゃん。海荷とかんちゃんの橋渡しであることは明らかだが初期メンの意地を見せるちゃあぽん、踊れないのは皆わかっている中で挑戦を見せ、最後は優雅な投げキッスで彼女らしい魅力を振りまく海荷、サタデーナイトフィーバーポーズとモンキーダンスで場を盛り上げるうっきー、満を持してラストを締める、全身を使ったパワフルなダンスとCross Overのプロペラダンスを3倍くらい強化したような腕の振り回しをみせる圧巻のヒロロ。かんちゃん・ヒロロは言うまでもなく素晴らしくかっこ良かったし、ラストのMCで海荷が「私はダンスも歌も自信がなかったけどようやくみんなに見せられるくらいになった」と自信を持てるまでになって披露したパフォーマンスのよかったし、ある意味海荷は下駄を履かせてもらっているのに比べて立場の難しいちゃあぽんとうっきーも意地を見せた。ライブ中で2番目に観客が湧いた、素晴らしいダンスコーナーだった。

さて、普段より広いキャパシティの会場で、ファンの文化が共有されていない中で、メンバーたちがパフォーマンスで魅せる以外に会場の雰囲気を盛り上げていこうと努力していたのは、他のアイドル現場に比べるとやや過剰とも思えるくらいにオーディエンスの反応を求めて事あるごとに煽りを入れていたことからも感じ取れた。今までもライブハウスのキャパでやってきた「Wonderful World」のサビを丸々観客に歌わせるという試みも、なんとか(?)成功させていた。
しかし今回のライブで会場が最も盛り上がったのは、後半に歌われた最新シングル「少女トラベラー」だった。イントロがループする中、「Say-HO!」やメンバーごとにオリジナルのコール&レスポンス(海荷:「いちご!」ヒロロ:「てへっ!」など)から始まった少女トラベラーは、曲自体に特別なギミックがあるわけでもなく、これまで同様特定のコールが発生するわけでもなく*2、にもかかわらずライブのこれまでの流れがこの1曲に集中したかのように説明不能な盛り上がりをみせ、自分自身は「bus stop!」「I can't stop!」という音に乗せられて体が浮き上がっていくような、会場全体が不思議な浮遊感に包まれているように感じた。音源を聞いているときには決して感じることのなかった体験であり、歌・ダンス・コールなど「これ!」という要素で説明がつかない体験は、アイドルが好きで楽しくて、その気持ちをどうにか表現したい・説明したいという一新から始めたはずのアイドル語りがいつのまにかさまざまなものに囚われすぎて穿った見方をしてしまいがちだった最近の自分にとって、アイドルのライブにハマりだしたころの純粋な気持ちを思い出させてくれる、新鮮なものだった*3。そしてその説明不能な輝き、それが自分がアイドルに求めているものだったと最認識させてくれた。

自分自身がライトファンということもあり、旧体制の1st・2ndアルバムの曲があまり頭に入っていなかったがそれでも十分に楽しめたので、前回のエントリで書いた「9nineはテレビで見たい」と書いたことに通じるかもしれないが、「敷居の低さ」を感じた。何度も繰り返すように、最近の日本のアイドルに多いタイプの、特定のアイドルの文化圏に身を投じる・同化していくハイコンテクストな楽しみ方とも違うし、かと言って文化・知識の共有を前提とせずにローコンテクストながら圧倒的なパフォーマンスで魅せるタイプでもない、一見平凡ながら明らかに非凡、そんな不思議な魅力をライブ会場でも存分に見せつけられた。


今後9nineが今まで以上にテレビメディアに進出しパイを広げていく中で、なにか独特のファン文化・9nine文化が生まれていくかもしれない。だが、ラストのMCでちゃあぽんが姉・Perfumeあ〜ちゃんこと西脇綾香から教わったこととして、現状自分ができることを支えてくれるファンに精一杯返していくこと、それに尽きると言っていたように、やっかいな演出あるいは物語にまきこまれずにありのまま・等身大の9nineの煌きをこれからも見せて欲しいと思った。これは言い過ぎかもしれないが、どちらかというとファン主導で奇跡のサクセスストーリーを成し遂げたと語られるPerfumeを身近で見てあるいはアドバイスを受ける立場にあって、この時代には珍しく(「ファン主導」が強調されがちなだけで全く珍しくはないのだが)Perfumeとは対照的にテレビメディア主導でステップアップしつつも、テレビ資本につきまとういやらしさに飲み込まれない9nineの輝きを受け止めていきたいと思った。


少女トラベラー(初回生産限定盤A)(DVD付)

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*1:私の優しくない先輩」は超名作だと思う。過去に2回もエントリを書いてしまった ?http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100725/1280086056 ?http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100803/1280845013

*2:ニコニコ生放送タイムシフト放送を見ると、夜公演ではオーイングが聞こえていたが

*3:といっても、いまここで書いているように「そのよくわからないものを語りたい気持ち」からは抜け出せないのだけれども。

こんなのアイドルじゃナイン!?/テレビと9nineのアイドルリアリティ

今期の日テレ木曜深夜は、おなじみAKBによるバラエティ番組『AKBIONGO!』の直後にハロプロ総出演のドラマ『数学女子学園』、そして9nineによるシチュエーションコメディ『こんなのアイドルじゃナイン!?』という並びになっており、アイドルファンにとって濃厚な時間となっている。
AKB・ハロプロの2大(1.5?)巨頭に、新興勢力代表としての9nineという図を殊更強調しなくても、それぞれの番組にそれぞれのアイドルの特徴が良くも悪くも読み取れてなかなか興味深い。AKBに関しては『AKBINGO!』ではなく、新番組のまゆゆこと渡辺麻友主演の『さばドル』に注目すべきであろう。今後の展開次第で評価が変わるであろうということもあり、今回はAKB・ハロプロの番組には触れない。しかし「ガチ」を謳い現実を半歩ひねってアイドル的なリアリティと物語を生み出す力に長けたAKBだからこそ、テレビ番組というパッケージの中で現実をベースにしたコメディドラマを作るのであれば、現実のAKBという"ドラマ"が暗黙の評価基準となるため、非常に高いハードルが設定されてしまう。また、ハロプロに関しても、テレビメディアで少数の特定メンバー以外の露出がめっきり減った現状で、ハロプロファミリーの顔見せ以上のことができるのか、どこにターゲットを置くのか、数学をどう使うのかなど、求められるハードルは低いとはいえそれすら超えられるのか不安なところである。

今後の展開次第で評価保留のAKB・ハロプロの新番組に比べ、現時点で早くも「成功」と断言できそうなのが9nineの『こんなのアイドルじゃナイン!?』である。

http://www.ntv.co.jp/nine/

設定は"アイドルになりたい"部!!
女の子なら一度は心の隅で思ったことはある…はず!?
「アイドルになりたいっ」でもどうしたらアイドルになれるの?
アイドルに必要なのって…笑顔?体力?ダンスに歌?写真写りに熱湯風呂!? 
アイドルになろうという一途な夢とは裏腹に頓珍漢な努力を重ねる女子中高生達の日常を
9nineがオモシロかわいく描く、シチュエーション青春コメディで、ほのぼのとした笑いを作り出していきます。
「アイドルになりたい部」の顧問・権田麻理(平野綾)は、
アイドルの夢やぶれ教師になった猛烈なアイドルマニア・・・
アイドルグループ 『 9nine 』の5人が演じる「アイドルになりたい部」の部員たち(女子高生)に、
アイドルになるためのレッスンを指南します。

まず一番のポイントは、平野綾の使い方である。現状考えうる中で、これ以上にない配役ではないだろうか。
子役出身、声優活動にシフトしてからアイドル声優として爆発的な人気を得たものの、様々な騒動を巻き起こし、声優・アイドル・歌手・女優・タレントと様々な肩書きの間で揺れる平野綾。自分が表現したい姿とファンに受け入れられる姿のあいだにある深い溝をどう乗りこなしていくかという問題はアイドルに限らず表現者として重大な問題であり、それでも多くの人を巻き込み惹きつけていくパワーは紛れも無いものであり、皮肉にもそれが平野綾の「アイドル性」を引き立てる。
そんな若くして経験豊富(?)な彼女が、アイドルの何たるかを9nineに対し圧倒的な上から目線で語り尽くす厚かましさは、「お前が言うな笑」と視聴者の誰しもが突っ込むであろう、まさに痛快の一言に尽きる。
特に第2回目では平野綾「アンタたち、アイドルに何が大切か・・・これっっっぽっちもわかってない!重要なのは、人とは違う個性・・・ぶっちゃけ、キャラ設定よ!!」と宣言した後、小道具箱からメガネを取り出し、声色を極端に変えあからさまにあざとい「メガネキャラ」を演じてみせる。
平野がキャラ設定の例として「ぶりっ子」「ツッパリ」の"2大設定"を挙げた後、指名された吉井香奈恵が「ロリ」「ツンデレ」「不思議ちゃん」から始まり、「格闘家」「異星人」から、黒板に列挙された文字列の中には「アキバ系vs新橋系・築地系」「野菜系←→肉食系」といった意味不明なカテゴリが散見される。
「ぶりっ子・ツッパリの2大巨頭」が松田聖子中森明菜を指しているのは明らかであり、格闘家=愛川ゆず季、異星人=小倉優子など、平野綾(が演じる教師)のアイドル知識には一定の説得力がある。しかし最初に平野がメガネキャラで露悪的に示してみせたように、キャラ設定の過剰性はアイドルにとって決してプラスとはならないことを、平野綾が軽やかに笑いに消化してくれる。
AKBやももクロといった有名アイドルグループが採用していることから、自己紹介におけるキャラ設定紹介パターンを踏襲するアイドルは非常に多い。個性を求めるあまりに無個性化する、そのような「キャラ設定の罠」にはまってしまうアイドルも多い中、9nineの自己紹介は名前+あだ名というシンプルなものである。また、メンバーではなくグループ全体としても、所謂ポストAKBとして位置づけられるアイドルグループ群の中でも、9nineは「川島海荷がいるグループ」として片付けられがちな、比較的無個性なアイドルグループである。5人で再出発した新生9nine9nineを初めて知ったという人であれば、「川島海荷と、Perfumeあ〜ちゃんの妹(西脇彩華)と、センターのかっこいい子(吉井香奈恵)と、ちっちゃい子(村田寛奈)と、残りの可愛い子(佐武宇綺)」というようなざっくりとした覚え方をしている人も多いのではないだろうか。そんな9nineが必死に「キャラ設定」を勉強していく姿は、「キャラ設定」への皮肉を交えた笑いへのもうひとつまみのスパイスとなっている。

また、「アイドルになりたい部」としてヤル気がある(設定)なのは川島海荷以外の4人であり、川島海荷は人数合わせのために無理やり連れてこられたという設定もなんだかうまい。9nine自体、(初期メンバーであるにもかかわらず)川島海荷は客寄せのために無理やり女優の世界から「連れてこられた」イメージが抜け切らないことが否めないところを逆手にとっている。

9nineのアイドルとしての魅力はなんなのだろうか。そう言われると、なかなか言語化するのが難しいものである。しかし、そこをつきつめて考えていくと、どのアイドルにも等しく言えることであり、アイドルの魅力を「キャラ」などの要素・記号に還元していく営みの果てに幸せが待っているのかどうか定かではない。
ただ、この番組を見ていて思ったのは、9nineがこの番組の時間帯・形式に妙にマッチしているということである。ザッピングしていたら川島海荷に目が止まってなんとなく見てみたという視聴者を想像してみると、この番組は非常に「ストレスが少ない」のではないだろうか。

一応勢いだけでアイドルになりたい部を立ち上げた熱血系の西脇彩華(ちゃあぽん)
すでに歌やダンスレッスンを受けているクールな実力派の吉井香奈恵(かんちゃん)
真面目で全くアイドルには興味はなかったのに引きずりこまれた受難系の川島海荷(うみか)
絶対に自分はアイドルになれると根拠のない自信たっぷりの天然系の佐武宇綺(うっきー)
そして中等部からやってきた毒舌系少女の村田寛奈(ひろろ)

というキャラ設定はあるものの、はっきり言って「はしゃぐ4人、ため息を付く海荷」という図しか読み取れない。アイドルを使った番組にありがちな、アイドル本人とリンクした登場人物のキャラ設定という戦略を半ば放棄しているのが特徴的である。逆に言うと、海荷以外の4人のキャラを知らなくても見ていられる軽さがある。スタジオのセットを使ったシチュエーションコメディということもあり、4人の過剰な演技がバカらしくても、画面の写り自体がチープなのでストレスにならないのだ。そこに拍車をかけるのが最高にチープなテロップ等の演出である。このチープさは確信犯としか思えない。

アイドルとしての「キャラ」を見せることを放棄しているのであれば、コントとしての演技力や笑いを重視しているのかというと、それも違うように思える。海荷以外はほとんど演技初心者な上、アイドルたちに「アイドルになりたい少女」を被せるというあまりに安易な設定である。他の何かになりきる必要もなく、衣装もセーラー服という定番ものである。
アイドルがテレビに出演するには幾つかのパターンに分類できる。一番多いのは音楽番組のゲストとして出演し、トークと新曲披露を行うパターンだろう。また、バラエティ等に呼ばれて、芸人と絡んで笑いを取ることができれば、メンバー単体でテレビに出ることも可能である。
ゲストとして既存の番組に呼ばれるのではなく、アイドルをメインに据えた番組というのは、AKB以外では殆ど見られない。アイドルの冠番組も特定の分類が可能だろう。まずはAKBINGO!アイドリング!!!など、芸人を進行役に据えたバラエティ番組。次に、アイドルの活動の裏舞台に迫ったドキュメンタリー風番組。9nineも2010年末に新生9nineとして再始動する様を追った『GO!GO!9nine』がMX-TVで放送されていた。あるいは、アイドルがなんらかの企画・ミッションをこなしていく挑戦型番組も定番の一つである。
具体的にここ2年ほどのアイドルブームの中で地上波に冠番組を持ったことのあるアイドル名を挙げていくと、AKB系・ハロプロアイドリング!!!といったメジャーどころ以外だと、恵比寿マスカッツくらいしかとっさに思いつかない。その中で9nine冠番組を持つということは、それだけでなかなか立派(?)なことである。もちろんそれはテレビ業界・広告業界の力学に左右されるものであり、そこについて一般視聴者の自分が分析できることではない。しかし、『こんなのアイドルじゃナイン!?』は先程も述べたように地上波の深夜番組として妙にはまっているように思えるのだ。
近年のアイドルを語る上で、テレビの力というものが妙に冷遇されがちである。ブログ・twitterUstreamといったインターネット上の新しい形態のメディアや、握手会やライブといった「現場」における要素が注目され、テレビなしでもアイドルが成立する、あるいは「売れる」という風潮がどこか感じられる。確かに過去に比べ相対的にテレビの力が低下していることは事実かもしれないが、多くのアイドルの場合、「出たくても出れない」というのが実情であろう。
そこで再度9nineの番組がどのような作りになっていたかを考えてみると、何度も強調したようにメンバーの「キャラ」を見せているわけでもないし、裏舞台をカメラで追ったり様々な企画で彼女たちの素顔を映し出しているわけでもない*1。かといって、例えば『マジすか学園』のように物語を作り上げているわけでもない。この『こんなのアイドルじゃナイン!?』は、いうならばアイドルの「テレビ向きの等身大の姿」を映すもので、テレビというメディアによって担保されるリアリティの中で一番薄いところ、テレビ番組として成立するギリギリのところで踏みとどまっている番組ではないだろうか。
アイドルという存在のあり方が虚構/現実を相対化するのに対応して、映画・テレビ・ブログ・tiwtter・Googole+・Ustream・握手会・ライブ会場といったアイドルと接する様々な場を、アイドルの情報を媒介する多様化・重層化するメディア環境として捉えてみると、ライブ会場等の一次情報が伝達される場が最も「リアル」であるとするのはナイーブな考え方であり、それぞれのメディア環境ごとに、カッコつきの「アイドルのリアリティ」が存在しているように思える。そしてアイドルごとにどのメディアで自分たちを表現するのかが得意か否か、得意分野に差が出てくるのではないだろうか。
かなり恣意的な見方かもしれないが、そう考えたときに、9nineはテレビという非常に大掛かりなメディアにおいても場の力学に負けない芯の強さと軽さを持ち合わせているように思える。「テレビ向きの等身大」を表現するのが上手いのだ。その点に関してはやはり川島海荷という存在が大きいのかもしれない。

しかし、9nine川島海荷の力だけで成り立っているアイドルグループでないことは、少し9nineを見ていればすぐに気づくことである。それが端的に示されるのは、番組後半に挿入される「9nineがアイドルになった姿で歌い踊る“妄想”コンサートシーン」である。ここで9nineの持ち歌が披露されるのだが、曲・ダンスにおいて9nineのセンターを担うのは吉井香奈恵であり、川島海荷の寄与度はそこまで高くない。吉井香奈恵ともう一人の新メンバー村田寛奈も経験者だけあって小さな体から繰り出すダンスには非凡なセンスを感じるが、キャラクターと同様に特定の個人が目立つことなく5人でまとまりの良いパフォーマンスを見せてくれるのが9nineの特徴である。
そしてなによりもここで注目なのは、歌唱が生歌であるという点である。9nineでは生歌へのこだわりが強調されているように思われる。かといって全員歌が上手いかというと決してそうではなく、毎回挿入される“妄想”コンサートシーンでも、例えばジャニーズが歌番組でこのレベルの生歌を披露したら「大惨事」として語り継がれてもおかしくないような歌唱力が披露される。しかしこの生歌披露も、個人的には先ほど述べた「テレビ向きの等身大」という魅力を強化する方向に好意的に働いていたように思える。単に好みの問題と言われればそうなのかもしれないが、どのような切り口でもこれといった特徴が見当たらないが、その自然体な姿が不思議とテレビ的な演出の枠に収まってしまうのが9nineの特徴であると言うこともできる。この点に関しては、9nineが所属するレプロエンタテイメントに対して「背後の力」を感じさせないようなプロデュース方針の影響もあるのかもしれない。秋元康つんく電通、フジテレビといったワードが常にセットで語られがちなアイドルグループとの違いを感じる点でもある。9nineはCDリリース期以外はライブイベント等も少なく、公式ブログが有料(ファンクラブ専用)である*2というのも珍しい。リリースイベントも複数枚購入を促すような方法は取らず、他のアイドルグループと違い、あまり事務所批判が見られない、事務所の印象がそもそも薄いというイメージもある*3。このような見方がどこまで共有されるものなのか定かでないが、テレビに出る=資本を投入するという、消費者側が妙にマーケティング手法を意識してしまう最近ありがちな見方に陥ることもなく、テレビに出ている9nineの姿を自然に受け入れることができる。

最後の方は怪しげな議論になってしまったが、とにかく9nineは「テレビで見ていたいアイドル」であるというのが、『こんなのアイドルじゃナイン!?』の素直な感想である*4
ちなみに9nineは「パフォーマンスガールズユニット」であり、「アイドル」を名乗っているわけではない。「アイドル」の覇権をめぐって差異化・逸脱化競争が過激化する中で、とりたてて何かが目立つわけではないしそもそも「アイドル」を自称しているわけではないのに、どこか大物感があり、それでいて決してお高くとまっているわけでもなく、アイドル性を否定しているわけでもない、そんな自然体なアイドル像を軽やかに提示してみせるのが9nineの魅力である。
テレビで売れることがアイドルにとっての成功であるとは必ずしも思わない。逆にテレビに出れないからといって、そのアイドルの価値が劣るとも思えない。しかし様々なメディアの中で、テレビメディアを乗りこなしアイドルとしての魅力を伝えることができる9nineの姿は、これから先もテレビで見ていたいと思う。
*5

*1:しかし『GO!GO!9nine』のようにアイドル番組としてありがちな企画物や裏舞台ドキュメントをメインに番組を作っても9nineであればテレビに耐える画が作れると個人的に思う

*2:昨年末にようやくメンバー全員の無料ブログが出揃った

*3:このような意味で9nineと対照的なのが東京女子流である。女子流はエイベックスという巨大資本を背景にしているが、テレビメディアに進出することに意図的に慎重であるように思える。そのかわりにファンクラブ無料、定期公演やイベントの数も多く、なによりustの使い方が非常に上手いアイドルグループである。テレビメディアを得意にしつつも距離を感じさせない9nineと、ust等の身近なメディアを使いつつも圧倒的な上品さ・際立つアイドル性を保ち続ける女子流の対比は、メディアと「アイドルリアリティ」の関係を考える上で参考になるかもしれない

*4:誤解を生む言い方かもしれないが、9nineには「地上アイドルのオーラ」を感じるのだ

*5:ヒロロ可愛い

カリーナノッテ/コピンクと宮本佳林/今がいつかになる前に

カリーナノッテ

カリーナノッテ


静岡朝日テレビで放映中の情報番組「コピンクス!」の番組内キャラクター「コピンク」が歌う『カリーナノッテ』がAmazon等で配信中であり、Amazon MP3ダウンロードランキングでは連日1位を維持している。「コピンク」の声優を担当し、『カリーナノッテ』のボーカルを務めるのは、ハロプロエッグに所属する宮本佳林である。

「ピンクス!」番組サイト:http://www.satv.co.jp/0300program/0095pinkss/

この『カリーナノッテ』はストリングが瑞々しく爽やかなメロディで、90〜00年代前半のアニメソングのような、例えば坂本真綾の楽曲を連想させる、不必要な装飾・記号を削り落とした非常に素直なアイドルソングである。とにかく聞いていて心地が良い。

ボーカルの宮本佳林ハロプロエッグという研修生の立場であるが、ハロー!プロジェクトのシャッフルユニット「新ミニモニ。」に選ばれるなどの活躍をしており、エッグ入りしてからすぐに「即戦力」として話題となり将来を嘱望されているアイドルである。しかし誰もが認める高いポテンシャルを持ちながら、過剰な期待を負わされている節があり、特にモーニング娘。9期オーディション、スマイレージ2期オーディション、モーニング娘。10期オーディションと2011年に連続して行われたオーディションでは常にカリン待望論が沸き起こったものの、それぞれ譜久村聖竹内朱莉&勝田里奈工藤遥ハロプロエッグからユニット昇格を果たした。そのために宮本佳林を巡るファンの論争は喧々囂々、彼女に対する高評価も以前に比べて盛り下がってしまったように思われる。そのタイミングで、2011年末、配信限定ではあるものの実質ソロ名義で『カリーナノッテ』が発売された。
宮本佳林の魅力は何なのかと問われたら、ダンス・ボーカルスキルもさることながら、時に「嗣永桃子2世」と呼ばれることもあるように、そのアイドル的振る舞いが挙げられることだろう。「カリン様」という呼び名が表すように、ステージパフォーマンスでは群を抜いており、声質・仕草は「嗣永プロ」の系譜を継ぎ、己のアイドル性に対して強く自覚的であるようなメタアイドル的振る舞いに長けている。
しかし、嗣永桃子福田花音といった先輩たちに比べると、宮本佳林を彼女たちと同じように扱うのは危うさが残る。確かにステージ上では輝きを見せるものの、MCなどトークの場面では先輩たちが見せる強さを発揮できていないし、そもそも本人がそのような「キャラクター」として期待・消費されることに自覚的であるかどうか怪しい。
我々はどうも嗣永・福田、ハロプロに限らずアイドル的振る舞いに自覚的なアイドルたちに慣れきってしまったせいか、宮本佳林に多くのことを押し付けすぎていないだろうか。

宮本佳林を見ていると、2010年に上演された舞台「今がいつかになる前に」のことを思い出す。そこで宮本佳林が演じた「未来」と言う名の少女は、素直な心を持っているものの、教室の空気に必要以上に敏感なために「いじめ」に手を染める。それに対し、工藤遥が演じる「叶多」は芯が強く周りの空気に絡め取られることなく正義を貫きいじめを止める少女である。この絶妙すぎる配役の舞台を見たときに、工藤遥宮本佳林という対極のタイプにある2人が将来ハロプロを背負う2TOPになる図を思い描いた。ご存知の通り、工藤遥モーニング娘。10期メンバーに選ばれ、ルックスからは想像できない歯に衣着せぬ物言いで評判となり、己の道をまっすぐに驀進している。
工藤遥に対して、宮本佳林は取り残されてしまった。それは「今がいつかになる前に」でも工藤遥との対比で示されたように、カリンは非常に素直で、周りの空気を読みすぎてしまう点が原因ではないだろうか。鮮烈なエッグデビューから一貫して見せるアイドル的振る舞いは天性のものだが*1、そこからプラスアルファの要素を表に出せていない。あくまで「みんなが想像するカリンちゃん」の範疇にとどまってしまうし、甘い声質ながら「つんく歌唱」と呼ばれるハロプロ伝統の歌い方の癖が飛び抜けて強く、とにかく「いかにも」な見え方になってしまう。「3億円少女」「1974」といった舞台では、キムタクがキムタク役にしか見えないとしばしば揶揄されているのと同じように、良くも悪くも「カリンちゃん」役でしかないという弱点が浮き彫りになっていた。きっとこの「カリンちゃん」として既に小さくまとまってしまっているイメージがオーディションでも最後の決め手に欠く原因になってしまっているのではないだろうか。

そんなカリンが、「コピンク」という殻をかぶり、『カリーナノッテ』では「メタ・アイドル」としての振る舞いからはかけ離れた、古きよきアイドル像を嫌味なくまっすぐに歌いあげることで、絶妙な魅力が溢れて出している。『カリーナノッテ』の作詞者「児玉雨子」、なんと1993年生まれである。この年代の女性(女の子?)が古き良きアイドル像をまっすぐに描き出すで、リアルとファンタジー性を併せ持つ妙なバランスのアイドルソングが現代に蘇ったのだ。

隠したいホントの私見ないで
瞬く濡れたまつげミアーミ
ビアンコロッソもアマラントも全部ホントは魔法なんてないから

だって もっと正直になれたらとか
小手先の嘘だとか
なんてそんなのじゃそんなじゃないはずでしょう

2番のBメロ〜サビの部分である。「魔法」「ホントの私」といった手垢の付いたキーワードが必要以上に記号で纏うことなく配置してあるが、宮本佳林という現代型メタ・アイドルキャラクターの「正直なホントの私」を、ティーン・エイジャーの非・職業的女性作詞家の感性をもってストレートに見えてどこかぶれた回転でもって抉り出し、それを90〜00年代アニメソング風の疾走感のあるメロディが支えることで、臭みもなく、淡白でもない、いつまでも飽きない味に仕上がっている。全体を通じて「つんく歌唱」は封印されており、実にのびのびとしたボーカルがカリンの新たな魅力を引き出し、それでもちょっとした場面で心をくすぐられるポイントが滲み出ている。

素直になればなるほど、本来持ち合わせていたカリンのアイドル性が浮かび上がってくる。過剰な装飾や音で「意味」を無効化する、あるいはすべてを「物語化」してしまうようなアイドル楽曲が注目されがちな中で、『カリーナノッテ』のシンプルで真摯なアイドルソングとしてのあり方は、これはこれで力強い。
いまは「コピンク」の殻を借りているが、「カリン様」や「カリンちゃん」を取り巻くさまざまな意匠をすべてコピンクに預け、歌声だけで、今までになくストレートにのびのびと透明感を持って歌いあげることで、カリンの純粋な魅力のひとつが引き出されたように思える*2。カリンが今後どうやって自分を表現していくのかを考えるいいきっかけになったのではないだろうか。「今がいつかになる前に」、カリンが今のまま「カリン様」や「カリンちゃん」として終わらないように、「未来」と名付けられた役を演じた一人の少女の行く末を楽しみに待っている。

2012/1/4追記:http://togetter.com/li/236847

*1:嗣永・福田という先輩たちの名前を度々出しているが、彼女たちに共通するのは、たしかにメタアイドル的振る舞いにはもちろん自覚的であるが、生来的にそのような振る舞いをみにつけて育ってきたという前提を忘れてはならないということであろう

*2:12/29 文意が伝わりにくかったので修正

つんく♂的「萌え」再考/アイドルと萌えと譜久村聖

『もしも…』

ブスにならない哲学(初回生産限定盤A)(DVD付)

ブスにならない哲学(初回生産限定盤A)(DVD付)

ハロープロジェクトが全員集合したモベキマスブスにならない哲学』初回限定盤A及び通常盤のカップリングとして収録された『もしも…』は、モベキマス各グループから一人ずつ選ばれた5人の選抜メンバーによって歌われている。そのメンバーとは、berryz工房嗣永桃子℃-ute中島早貴真野恵里菜スマイレージ和田彩花、そしてモーニング娘。譜久村聖である。
メンバーの選ばれ方、パート割、歌詞や曲の雰囲気から察するに、この曲は譜久村聖のために作られた曲である。

つんく♂オフィシャルウェブサイト
http://www.tsunku.net/pw_Music.php

CW「もしも・・・」はモベキマスの選抜メンバーで歌いました。
譜久村 嗣永 中島 真野 和田です。
メロも可愛く、歌詞もリアリティ型なのでちょっとほんわかタイプを抜粋して歌ってもらってます。

"ほんわかタイプ"と形容されているが、とてもほんわかとはいえない個性的なメンバーが揃っている。とくに嗣永・中島・和田は声そのものに特徴があり、甘く甘く歌っても嫌らしくならない。嗣永は2番目にクレジットされているが、キャリア・実力からしても実質この選抜のリーダーであり、不安定になりがちな歌唱のまとめ役にもなっている。嗣永をバランサーとして、普段自らが所属するユニットではなかなかパートがもらえない中島・和田が自由に羽を伸ばしている。真野はソロのため自動的に選抜となるが、なんとこの『もしも...』では真野のソロパートはほとんど用意されておらず、台詞に特化している。そして最後に残されたのがモーニング娘。9期メンバー、譜久村である。音域がやや低いのともともと歌唱力に優れているわけではないが、きわめて重要なパートを任されている。
この『もしも...』において「萌え」というキーワードが意識されていることはほぼ間違いがない。であるならば、モーニング娘。からは道重さゆみが選抜されてもおかしくはなかったはずだ。なぜ譜久村だったのだろうか。それは、ハロープロジェクトにおいてつんく♂の「萌え」を体現するのが譜久村という存在そのものであったからだ。

譜久村聖と「萌え」


NASAの研究によるとこのショットはかなり危険ということですが、処方せん的には「モエツキール」ということです。では、降臨。後ろのチラも必見。 http://t.co/loe96uwsFri Dec 09 15:14:54 via TweetDeck



順番に並んで〜押さないで〜って言ったのにぃ〜。RT @tsunkuboy: では、順番に並んでください。決して人に配ったりしたらダメですよ。押し合いへし合いにならぬように。では降臨「モエチギレール」 http://t.co/xxvdKjvKThu Dec 08 03:08:04 via TweetDeck



では、処方します。「プチモエール」行きまぁ〜す! http://t.co/Q5YFRzLg http://t.co/EpyQmv5kThu Dec 08 02:38:45 via TweetDeck



では、近大到着記念、「萌えシヌール」写真、降臨。R20指定。 #morningmusume http://t.co/Z1FaJ5NsFri Dec 02 02:36:42 via TweetDeck

「萌え」というキーワードは以上のツイートを見ればわかるようにつんく♂のブームである。つんく♂twitter上でアップロードする写真にはモーニング娘。9期・10期メンバーが多く登場し、特に譜久村聖鞘師里保がお気に入りのようである。QuickJapan vol.98のつんく♂インタビューでも「萌え」が言及され、Tokyo MXで放送中の「つんつべ」はまさにアイドルと秋葉原的な意匠にあふれた「萌え」がフィーチャーされたテレビ番組だ。そんなつんく♂が自身の「萌え」への思いをハロープロジェクトという非常に豪華な食材を使って作り出したのが『もしも...』であり、その中心に譜久村聖が置かれていることの意味を勝手に読み込んでいくことにしよう。

「萌え」は死んだ?

そもそも、なぜ2011年の今「萌え」なのだろうか。「萌え」の起源・歴史・用法の変化などを詳細に論ずるのは他所に譲るとして、簡潔にまとめよう。「萌え」はアニメ・ゲーム等のヲタク文化だけのものでなく、00年代後半からメディアにより一般的に浸透した。本来ヲタク文化の中ですら「萌え」への拒否反応は強く、外部から「ヲタクのもの」として侮蔑的なレッテルを貼られるだけでなく、内部からも反発される。今や「萌え」を純粋に叫ぶ勇気・鈍感さを持ち合わせている人々はほぼ存在しない。「萌え」は死んだのだ。
しかし、秋葉原的ヲタクブームがかげりを見せ始め、アイドルという隣接ジャンルではAKB48が「秋葉原」の名を冠していながらアニメ・ゲーム的な「秋葉原」の意匠を取り込むことなく、よりフラットな「AKB」というジャンルを作り出しアイドル界の標準化競争に勝利したのに対し、つんく♂はそのような流れをまるっきり無視して"古きよき"秋葉・ヲタク文化な「萌え」を能天気に叫んでいるように思える。

つんく♂的「萌え」

つんくの「萌え」は"10年遅い"のだろうか。ただでさえ物議を醸す「萌え」というキーワードをなんの思慮もなく使用しているかのような彼の態度に、そのような批判は多い。
しかし、「萌え」は違うだろう・・・と思う一方で、どこか説明できない魅力をつんく♂がいう「萌え」に感じ取っている人も多いのではないだろうか。思い返せば、つんく♂は「萌え」以外にもいくつかのキーワード・概念をハロープロジェクトに持ち込み、物議を醸してきた。「ロック」はその最たるものだろう。だが、反発も大きい一方で、全盛期に比べれば数字や勢いは落ちたものの今なおハロープロジェクトが存続し、さらにこれから盛り返しをファンに期待させるような存在であるのは、つんく♂の感性がそれなりにファンの心をつかんでいる証拠であろう。
「萌え」に関しても同じである。もちろん素直につんくの「萌え」を喜んで受容できる人もいるだろうし、「萌え」というキーワードそのもの、あるいはつんくのいう「萌え」の現れ方に反発心や違和感を感じていても、その結果われわれの前に提示されたハロープロジェクトのアイドルたちや作品に魅力を感じてしまう。
そもそもハロープロジェクトのファンたちはつんく♂に対して屈折した感情を抱いていることが多い。自分たちが大好きなハロープロジェクトの運命を握っている(ように見える)のに、「思いつき」でそれをぶち壊してしまう。一方で、時々信じられないようなパンチを繰り出してきて、その魅力にノックダウンさせられてしまう。どちらの意味でも思い通り・期待通りにいかず、悔しい、けど憎めない。それが高じて、「曲名のがっかり感が高いときほど名曲」というネタ半分本気半分の経験則が生み出されるように、つんく♂の思惑とのは少し外れたところに対して魅力を読み込んでいくという、「ズレを楽しむ」作法が共有されている。
今回の「萌え」も同じであり、「萌え」というキーワードをストレートに受容することはできないが、「つんく♂的萌え」というかっこつきの概念の受容、あるいは「再解釈」により魅力を存分に感じ取っているのではないだろうか。

つんく♂というアイドル

つんく♂の思惑を再解釈するという作法は、そもそも我々がアイドルに対して行っている読み込みの作法に共通する点が多い。アイドル概念を取り巻く構図は複雑で、事務所やプロデュース側の戦略などの環境的要素と、アイドル本人の自意識・容姿・言動等の内在的要素が絡み合い、それをファンが勝手に受容・解釈している。いくらアイドルが「キャラクター」を作っていたとしても、ファンが些細な情報から別のキャラクターとして受容することもあるし、キャラクターの裏にある「ありのままのアイドルの姿」という幻想を勝手に読み込むこともざらである。
ここではいままでつんく♂ハロープロジェクトのプロデューサーとして扱ってきたが、つんく♂本人は一流のアーティストである。さらにいえば、ハロープロジェクトのファンは、つんく♂のプロデューサーとしての手腕を評価する際に、未来を見通す力や綿密な戦略を期待してるのではなく、良くも悪くも想定外のところに着地する点に身を任せたいという怖いもの見たさの期待を含んでいるのではないだろうか。アーティストとして作詞作曲を行うことへの評価も、代わり映えのない「つんく節」や洗練されていない歌詞にうんざりしつつ、諦めかけたころにやってくる想定を超えた作品への期待が含まれている。アーティストとして成功し、アイドルプロデューサーとして成功し、ゲームプロデュース(リズム天国)にも成功してしまう、そういう説明不可能な天性の才能に信頼を置いているのだ。
AKB48秋元康が作詞家・構成作家という分野で成功し、先を見通す能力・戦略性・消費者の欲望を見抜く能力がずば抜けているのと対照的である。
ファンはつんく♂より優位な立ち位置にいる一方で心の奥底で無条件的な崇拝を同時に持ち合わせている。つんく♂の思惑をアイドルを通じて再解釈し、つんく♂自身ををキャラクター化する。つまり、つんく♂自身がアイドル的に受容されている。そうやってハロープロジェクトは愛され、つんく♂は愛されてきたのだ。

アイドルに寄り添う「萌え」

話を「萌え」に戻そう。
いまなお「萌え」というキーワードへの心理的抵抗は大きいとはいえ、実質的に「萌え」という単語が死んでしまったため、「ロック」に比べると抵抗は薄くなる。つんく♂への崇拝や愛を背景にして、カッコつきの「つんく♂的萌え」としてそこで示されている対象の魅力が好意的に再解釈され、トラディショナルな「萌え」とは違う新しい意味を読み込んでいくことも容易に行うことができる。
ここで従来の「萌え」と「つんく♂的萌え」の差異に注目してみたい。従来の「萌え」は正確には「萌え〜」という感動詞的用法の側面が強く、対象への言語化できない感情を表現するものであったが、その後「萌え」のバリエーションが広がり、名詞・形容詞的な用法も多く見られるようになった。そしてつんく♂による「萌え」は、漠然としたイメージだが後者の名詞形容詞的な用法(例:「これは"萌え"ですね〜」「彼女には"萌え"がある」)が多いように思われる。これはヲタクの萌え/一般人の萌えという分類に当てはめることができるかもしれない。
先ほどから「萌えは死んだ」と宣言しているのは、「ブヒる」という単語の出現によるものである。「ブヒる」は本来の意味を失い「言葉狩り」状態にあった「萌え」に変わる単語であり、自らを家畜に例えたものである。「ブヒる」は伝統的な感動詞的用法に近い感情の発露を表す動詞として使用されているものである。また、東浩紀の「動物化」概念をわざわざ持ち出すのが憚られるほど端的にヲタクの動物化を自虐的に表現したものだ。
ここで重要なのは、「ブヒる」がキャラクターの表層的・記号的な部分に先鋭化して反応してしまうこと自覚的であることである。つまり、伝統的なヲタク文化の「萌え」は「ブヒる」に取って代わったが、表層的であからさまな記号への反応に先鋭化した「ブヒる」ではややカバーし辛い、身体性やゆらぎをもったアイドルの魅力を表すのに「萌え」を再び持ってきて再解釈し新たな意味づけを行うのはそれなりに有意義な試みではないだろうか。アイドルに対して「ブヒる」ことに抵抗があるならば、形容詞・名詞的な意味を持った「つんく♂的萌え」を許容すればよいのである。アイドルに対して動物的に反応してしまう自意識の解放に身を任せ、なおかつ自虐的に「ブヒる」ことでささやかな反省のそぶりをみせるのは非常に心地よい。いまつんく♂の「萌え」を許容することは、「萌え」というキーワードそのものへの抵抗感を乗り越える勇気は、アイドルという対象、人間相手にすこしでも寄り添おうとする勇気へと接続されていくのだ。

ハロプロの「萌え」

「つんつべ」を見ていると、つんく♂がアイドルでやりたかったことやつんくの純粋な「萌え」のありようが見えてくる。つんつべ・ナイスガールプロジェクト・ハロープロジェクトを並べてみるとわかりやすいかもしれないが、3つの底に共通に流れている「つんく♂イズム」が読み取れる一方、つんく♂のかかわり具合やプロジェクトの規模、商業的思惑などによってアイドルの表れ方がまったく異なっている。
誤解を恐れずにいうなら、一番つんく♂が自由にやりたいことをやっている「つんつべ」がつんく♂的萌えの「ダメ」なところを一手に引き受けている。地下、地上という比喩で捉えてもいいが、アイドル(バックステージ候補生)のルックス・雰囲気・構造など、様々な点で「ダメ」なのは間違いない。ただ「ダメ」は決して悪いことではなく、「ダメ」具合を愛する人、その中にある輝きを見つけるのが好きな人、つんく♂の一番深いところを味わいたい人などが必ず存在する。
しかし、「萌え」を含めてつんく♂の感性はやはりハロープロジェクトという枠の中でもっとも人々を惹きつける力を発揮する。何千・何万人の中から選ばれ、鍛錬を重ねるプロフェッショナルな集団に所属するアイドルたちは、全員がどこか言葉では説明できないオーラ・魅力を持ち合わせている。そういう集団が、企業として大前提となる商業的利益の追求を求められ、さまざまな制約がある中でつんく♂が「萌え」を持ち出したとき、時に奇跡的なバランスが成立し、受け手の解釈を通じてそこにマスターピースがたち現れるのである。

再度・譜久村聖の「萌え」

最後にもう一度譜久村聖に戻ろう。
今年の初め、譜久村聖モーニング娘。に加入したとき、つんくは譜久村の「色気」を評価していた。ハロプロエッグ時代から譜久村の色気のある魅力はファンの間で共有されており、加入後は『LOVEマシーン』の「み・だ・ら〜♪」という有名なパートを譜久村が任されていることからも譜久村へのそのような期待が読み取れる。

参考:モーニング娘。9期メンバー発表/譜久村聖を<消費>しない覚悟
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20110102/1293990782

そして、「萌え」や「ブヒる」という言葉を考えるならば、お色気要素は避けて通れない。「ブヒる」であればあざといエロ演出に反応するのに幾分適しているといえるが、「萌え」によるエロの扱いはきわめて繊細である。決してエロを拒んでいるわけではない、しかしエロが前面に押し出されているわけでもない。それはまさに身体性という生々しさの中に、聖なる可愛さと性的魅力を同時に孕んでいるアイドルにとっても同じである。ファンはアイドルに対して性的魅力だけをもとめているのではない。だからといって、それは確実に存在するし、自ら目をつぶっているわけではない。
特に譜久村聖は年齢と体つきのギャップから性的魅力が強調されがちであるが、それを彼女自身の言動やハロプロTIMEなどの私服姿から如実に感じ取ることができる上品さで包み隠し奥ゆかしさにあふれている点がまた魅力的である。同性愛的ともアイドルヲタ的とも取れる振る舞いも、上品さとエロに加えもうひとつ別のベクトルに魅力を引き出すものである。
このように、繊細なお色気要素を含み持つようなアイドルの魅力を表す形容詞をひとつ示すならば、やはりそれは「萌え」なのだろう。そのように解釈された「つんく♂的萌え」の完成系、それが譜久村聖なのだ。