決断主義/セカイ系  AKB48/ハロプロ セカイ系アイドル2.0


明けましておめでとうございます今日から10年代*1ですねわくわくしますね。というわけで10年代一発目も元気にアイドルネタです。ゼロ年代ラストにこれでもかと気持ち悪さを前面に押し出した消費者・オタク的立場からみたアイドル論をポストしたので、10年代はもう少し高尚に・メタレベルの視点から語っていきたいと思います。メタ視点=高尚とか言っちゃうのもどうかしてますよね。はい自己言及的。



事の発端は2009年12月26日の思想地図vol.4のトークイベントであった。そこで宇野常寛の主張する「決断主義」と東浩紀の主張する「セカイ系」が二項対立として示され、年末にかけ両者はtwitter上でフォロワーを巻き込んで決断主義/セカイ系論争を繰り広げた。そこで僕は決断主義/セカイ系の構図がアイドル論界隈にも有効な視点であることに気づき、世界が新年を祝う中twitter上で「決断主義/セカイ系」の二項対立を「AKB/ハロプロ」の二項対立にあえて(笑)無理やり読み込んではtwitterにつぶやくという作業を行っていた。そこで得た発見などを簡単にまとめてみたい。
その前にまず前提として「決断主義」「セカイ系」の定義を示さなければならないが、おそらく当事者間でも正確な定義は難しく、さらにいえばあえて厳密な定義を避けている感もある。そこで今は、それぞれのワードを広義に捉え、
決断主義」=大きな物語なき今、自分が信じたいものをそれが究極的には無価値・無根拠だと知りながら「あえて」それを大きな物語だと思い込み、それぞれの島宇宙を形成する。皆が皆島宇宙を形成すると、世界は小さな物語同士のバトル・ロワイアル状態に陥る。そのような状況を肯定した上で、バトル・ロワイアルによるコミュニケーションの果てに何かが生まれることを期待する態度。
セカイ系」=いわゆる狭義のセカイ系ではなく、笠井潔が主張する「方法的に社会領域を消去した物語」の肯定、に近い態度、あるいはもっと単純に「小さな物語に没入する想像力の肯定」
とでも定義しておくが、大きくゆらぎの存在する定義であると繰り返し述べておく。


まずtwitterの紅白タグ実況のなかに、「AKBは集合知」というツイートがポストされたが、そのポストに対してとてつもない違和感を持った。投稿者は「一人一人は大したことないちょっと可愛くてそこそこ踊れる女の子だけど、70人以上も同時にパフォーマンスされると1×70が70以上になるよね」といったごく普通の感想を抱き、「集合知」という単語を使用しただけかもしれないが、もう少しAKBというアイドルを掘り下げてみると、とてもではないが「集合知」という用語で表すのは適当でないことがわかる。秋元康という非常に大きなpowerを持ったプロデューサーの存在を、AKBに少しでも詳しい者ならすぐに思い出すことだろう。



AKBを表現するキーワードとして「サバイバル感」を提示すれば、おそらく多くのファンに賛同を得られることだろう。サバイバルといえばまさに宇野氏の決断主義バトル・ロワイアルを連想する。そこで、AKBの各メンバーは、ファンを説得し「事務所所属」あるいは「選抜メンバー入り」という勝利条件を目指しサバイブする決断主義バトル・ロワイアルのプレイヤーとみなすと、非常に筋が通る。秋元康はプロデューサーという名の「ゲームマスター」であり、各プレイヤー(AKBメンバー)のバトル・ロワイアル及びコミュニケーションから新しい魅力が創発するようAKBゲームをコントロールするのだ。

その文脈では、オタクたちはAKBメンバーと一対一の世界を作り出しそこに引きこもる(セカイ系)のではなく、メンバーに「同化」することでオタクたちもまたゲームのプレイヤーとなる。AKBメンバーはオタクたちを説得するために、一般的なアイドルという幻想を創り上げるのではなく、逆に自らを曝け出し(もちろん、「曝け出している」演技を演技と気づかせない者が勝利に近づくと指摘することもできる)、自らの島宇宙を強大化するために他のメンバーとの差異化を図り、「美味しさ」を求め時に芸人的に振舞う。



一方現在のハロプロは、事務所がドキュメンタリー番組撮影の申し込みに対して「我々はプロフェッショナルであるから裏舞台は見せられない」と*2語り、多くの現役メンバーにブログすら書かせない*3など、徹底して「アイドル幻想」を守ろうとする。ライブにおけるMCも殆どが台本通りで、ファンとアイドルの一対一の関係性を強調している。狭義のセカイ系の定義を思い出してみてほしい。「君と僕がいて、僕は君に存在を全肯定され、その関係性のみで世界が成り立つ」のである。



楽曲やPVのクオリティ・メディア戦略など様々な要因はあるが、2009年に「決断主義的アイドル」AKBが「セカイ系アイドル」モーニング娘。及びハロプロに対し完全な政権交代を成し遂げたことは興味深い。



誤解して頂きたくないのは、ここで「決断主義>セカイ系」や「AKB>ハロプロ」といった単純な優劣を言いたいのでは、決してないことだ。むしろ個人的には祝祭的な非日常空間を創出する、「セカイ系アイドル」の効用・力に惹かれている。



松浦亜弥というアイドルを思い出して欲しい。彼女はアイドルオタクの間で「サイボーグアイドル」と呼ばれるほど「完璧」なアイドルであった。オタクや世間が求めるアイドル像と言うものを理解・体現し、時にアイドルに対するメタ的言及も行う*4などといった面から、「わかっていてあえて没入」という狭義の決断主義的アイドルと呼ぶことも可能である。彼女は国民的アイドルに上り詰め、そしていつしか自らアイドルの殻を脱いでしまった。はるな愛のブレイクのきっかけとなった「エアあやや」は、松浦亜弥の「殻」を見事にえぐり出している。



そして今、これらの文脈から語るべき次世代アイドルが存在する。Berryz工房嗣永桃子である。


小学六年生にして「好きな言葉は嗣永桃子です」と自己紹介、何かを持てばピンと立つ小指、甘すぎる声、必要以上に尻を振るぶりぶりダンス、それらの数え切れない特徴からついたあだ名は「嗣永プロ」。プロは根性で身長を150センチ未満で止めることも可能、とオタクにネタ半分マジ半分で語らせるほどのアイドル中のアイドルである。松浦亜弥に通ずる(意識的・無意識的にせよ)自己プロデュース力に、生まれ持った身体的特徴を兼ね備えた彼女は、アイドル幻想を完璧に作り出す一方でチラリズム的に「生身の身体性」を垣間見せる*5。2009年に始まった一人しゃべりのラジオ、『嗣永桃子ぷりぷりプリンセス』では自己のアイドル性に対しメタ言及を行うこともたびたびあり、セカイ系アイドル集団ハロープロジェクトの中にいて松浦亜弥的な狭義の決断主義的魅力を兼ね備え、虚構と現実(セカイ系決断主義)の狭間で絶妙なバランスに立つ彼女は、セカイ系アイドル2.0」*6と呼ぶにふさわしい存在ではなかろうか。



あくまでファンタジーを肯定しながら決断主義的な批判(、と書くと誤解があるが)に対抗する、というより狭義の決断主義セカイ系止揚・昇華させた「セカイ系2.0」。
アイドルファンタジーを肯定・前面に押し出しながら、生身の身体性をちらつかせ決断主義的魅力とセカイ系的魅力を止揚・昇華させたセカイ系アイドル2.0こと嗣永桃子


はっきりって決断主義セカイ系という用語に引っ張られすぎて東氏と宇野氏の議論の本質をいまいち理解しきれていないのではあるが、彼らの議論を自分なりにアイドル論に(パロディ的ではあるが)転用することで、理解を深めて行きたい。きっと間違ってる。でも間違っているからといって書かないのでは進歩が無い。どうだこの決断主義的思考(笑)


いずれにせよ、これからもっと東氏によって語られるであろう「セカイ系2.0」をしっかりと追って行きたい。


AKB48『RIVER』にみる決断主義の考察
http://d.hatena.ne.jp/no_norio/20091022/1256231110

*1:「頭が天然」代との意で一億総白痴化時代を予見している方もいらっしゃるようです

*2:ソースは不確定だが、「ハロモニ」等数々のハロプロ番組を制作してきた両角氏のネットラジオによる発言から。ASAYANとはなんだったんだ・・・

*3:真野恵里菜スマイレージ福田花音などの例外もある。アップフロント系の複雑な所属事務所事情に関連する話になるが、自分はその方面の話には明るくないのでこのように軽く述べる程度でとどめておく

*4:オタクにとっては「あややわかってるな!!」となる

*5:前述の通り、この生身の身体性を曝け出し人気を得るのがAKBの特徴である

*6:お察しの通り、この単語を言いたいだけのエントリーでした。南無。