2015/1/26 KOTO1stワンマンLIVE〜心に宇宙がキュートでしょ?〜/KOTOちゃんってすごいけど、なんか、ヘン

KOTOちゃんをはじめて見たのは去年の夏。7月。ちらっと「スパイラル*1に入ったKOTOちゃんって子が凄いらしい」というような声が流れてくるのは聞いていたけれども、スパイラルという時点で眉唾、高を括っていたら、こりゃすごい。ちいさくて可愛い、そのくせすっごいバキバキ踊る、曲もいい。そしてなにより「すごいけど、なんか、ヘン」。
1stシングルの『ことりっぷ/まだ起きてる?』はその時手に入れてから今でもものすごい頻度で聞いてるマスターピース。リズムが楽しいコミカルな『ことりっぷ』に、メールと恋心を歌うthe・アイドルソングの『まだ起きてる?』。甲乙付けがたい2曲が収録されたCDのジャケットにはピンクの背景に黒髪ぱっつんツインテール、ぱっちりした目に白いアイシャドウで強調されたぷっくりとした涙袋。何もかも完璧な盤なのだけれど、初めて見たKOTOちゃんは、動きがきれているというか、キレすぎていて、全然曲に合ってないとすら思うほど。そんなに首をきゅっと動かさなくても、手をピタッと止めなくても、その3分の1のスピードで動いて普通に左右にステップを踏んでいれば、あるべきアイドルの姿として「完成」していたかもしれない。
KOTOちゃんの常人離れ、誤解を恐れずに言えば「アイドル離れ」した動きは、ちょっと調べればわかるその経歴を見れば納得。小学校の頃に始めたというダンスの腕前は、「ALL JAPAN SUPER KIDS DANCE CONTEST 3年連続FINALIST」といったものを代表に、全くその手の世界を知らない自分でもまあとにかく凄いんだろうなということだけはわかる。ビジュアル・楽曲はもう言うことなしなのに、そこにすごすぎるダンスが加わることで「なんか、ヘン。」になってしまうKOTOちゃん。しかもスパイラル*2。このギャップのたまらなさに、KOTOちゃんのことが一発で好きになる。

とはいっても、はじめてKOTOちゃんを見てから半年がたち、KOTOちゃんをみたのは多分10回はいかないくらい。楽曲が良すぎるのでiPodで聞いているだけで満足してしまうし、KOTOちゃんはむしろ滝口成美 with Control-S*3でなるるの横でバキバキ踊っているのを見ていたほうが面白いんじゃないかなどと思う始末で、今回のワンマンライブも、平日ということもあり、仕事が終われば行ければいいな、という程度でいた。昼間にtwitterでたまたま10月に発売されていた「奇跡のトキ」がもう完売していて買えないことを知り、どうしても新曲が買いたくなって、仕事を半分放り投げて19時の開演15分前にたどり着いた新宿ReNY。

受付で当日券を買い、ロビーに入るとなんともいえない違和感が襲ってきた。客層が、ヘン。スパイラル現場に居そうな(ちらほら見たことある顔も)ヲタクだけではなく、意外に多い若い女の子と、ママ。おそらくキッズダンス関係の客層なのだろう。それに加えて、ヲタクとは一味違う雰囲気や服装の、これ以外に彼らを表す言葉を知らないので申し訳ないと思いながらもあえてこの言葉を使うが、「サブカル」層。KOTOちゃんはレコライドの佐々木喫茶がプロデュースの6ヶ月連続シングルCDリリースプロジェクトを行っているし、この日のワンマンライブより発売された『ギザギザのロンリナイ』SAWA*4が楽曲提供しているし、KOTOちゃんはアイドルジャンルにも目を配る音楽愛好家にも注目を浴びているのかもしれない。そちらの世界は残念ながらよくしらないのだけれど。

多少恣意的に言えば、ヲタク、サブカル、キッズダンスというざっくり3つの界隈が入り混じり始まった混沌のKOTOワンマン。甘いワンピース衣装に身を包んだKOTOちゃんが登場し、まずは『ことりっぷ』『まだ起きてる?』『たんぽぽの僕は』といった「アイドルらしい」楽曲から始まり、バラードから『愛を届けるお人形』『Can go!!』と2ndシングルにつなぎ、ゲスト枠のSAWAが2曲歌った後は『ギザギザのロンリナイ』をSAWAとコラボ。そして第一部(!?)のラストはまさかの藤本美貴カバーのロマモーこと『ロマンティック浮かれモード』。10分のインターバルの後に始まった第二部は『くえすちょんくえすと』から佐々木喫茶プロデュース曲を中心にEDM曲群を並べ圧巻ダンスで場を盛り上げ、大盛況でKOTOワンマンは幕を閉じた。

得てしてこういう複数のカルチャーの客層が入り混じった現場では、それらの化学反応がどう転ぶかで良し悪しが圧倒的に変わるものだ。KOTOワンマンではどうだったかというと、数の問題でやはりスパイラル勢を中心としたアイドルヲタクが中心になっていたのだが、KOTO現場では(おそらく曲調の問題で)典型的なアイドル現場のアイコンであるMIXが発動することはあまりなく、(おそらく難しすぎる振付の問題で)振りコピやヲタク独自の集団行動様式が発動することもあまりなく、ヲタクが暴れることも喚くことも悪ノリしてなにか騒ぐこともなく、適度に盛り上がる非常に居心地のいい雰囲気が成立していたと思う。\KOTOちゃん!/と叫ぶ声はむしろキッズダンス関係の女性陣による黄色い声が最も目立っていたくらいだ。

ここ数年のアイドルブームの影響で、アイドルがアイドル以外のジャンルのアーティストと対バンすることも多く、ヲタクとそれ以外の文化様式を持つ客層が被ることについては、もはや今日日取り立てて騒ぐことの程でもないだろうし、「ヲタク」と「サブカル」の不毛な対立図式を煽るのも見飽きたし非生産的だ。しかし、KOTOワンマンでは、そこに「キッズダンス勢」という軸も加わっていたということもあり、対バンではなくワンマンライブで、ざっくり3つの文化様式が入り混じった客層というのは自分もなかなか経験がなかったので、妙に緊張してしまったのだ。蓋を開けてみれば、もちろんみんなKOTOちゃん(にまつわる何か)が好きで見に来ているし、幸運にもそれぞれの文化様式が悪目立ちすることもなく、かといって過剰な「一体感」が生まれたわけでもなく、とにかく心地いい盛り上がりの中で、ダンス、楽曲、そしてKOTOちゃんの可愛らしさといった様々な面からKOTOちゃんを堪能することができてとてもよかった。


すこし抽象的な話をすると、自分はアイドルの「懐の深さ」が大好きだ。いろんな人に愛されること。受け手がアイドルをそれぞれ自由な視点で切り取って、様々な解釈でアイドルを愛すること。そしてアイドルという生身の人間がそれらを受け入れること。そういう在り方が好きだ。もちろん、その図式にはここであえて言うまでもなく多くの問題を孕んでいるし、受け手は余りに我侭でタチが悪い。許されるラインと許されないラインもよくわからない。それでもなお、その未熟さもすべて受け入れてくれるような様々な形のコミュニケーションのユートピアを、どうしてもアイドルに夢見てしまう。
なので、KOTOちゃんがまずたった一人で大雑把に分けて3つのジャンルのファンから愛されていることそれ自体に対して、自分はKOTOちゃんの魅力を強く感じる。もちろん今までに述べたように、ルックス・楽曲・ダンスといった個々の要素も大好きだ。自分は音楽的素養が絶望的にないので、佐々木喫茶氏が提供している楽曲群のジャンルがたぶんEDMとよばれるものに属しているのだろうなということくらいしかわからないし、ダンスのジャンルについては何一つ知らない。ただ、そんな無知な状態でも、KOTOちゃんが歌って踊ってくれるのであれば心地よく聴けてしまうし踊ってしまう。多分自分は同じような楽曲・同じようなダンスでも、「アイドル」が歌ったり踊っていなかったらそれらを楽しむことが出来ないのではないかと思う。よくわからないけれども楽しそうな世界に無邪気に足を踏み入れるフィルターとして、また、それらの楽しさを加速させてくれるブースターとして機能しているKOTOちゃん、という意味でも大好きだ。
そうなってくると、じゃあ自分が異常ともいえるほどに取り憑かれている「アイドル」とはなんなのか、KOTOちゃんは果たして「アイドル」なのか、というアイドル定義論争の底なし沼に足を突っ込みそうになってしまう。結局のところ、こういう場合は紆余曲折があろうとも「アイドルだと思えばアイドル」あるいは「ジャンルなんて関係ない、KOTOちゃんはKOTOちゃんなんだ」というところに勝手に落ち着くものだし、今回もまあ結論としてはそうなのだが、これについてもう少しだけ、KOTOちゃんに感じている「アイドル」というジャンルからくる魅力について書いてみたい。
自分がアイドルの魅力として「懐の深さ」や「様々な解釈を許容する存在であること」というものを感じているのは、ある意味無敵の論法である。アイドルというジャンルはいったいなんなのか、あるいは、それはアイドルでないと言われたとしても、そのレベルの議論に与さずに「そういう解釈を許す○○はまたアイドル的である」という返しが可能であり、自分が好きな存在や好きなポイントをまず原始の一撃でアイドル(的)とみなしてしまえば、あとはなにに対しても「それもまたアイドル的である」とアイドルであること=魅力的であることのスパイラルが勝手に加速していくという身勝手かつ無敵のモードに突入してしまう。
KOTOちゃんももしかしたらそうであるように、いわゆる「サブカル」と「アイドル」の間の不毛な綱引きに巻き込まれてしまうようなアイドルがひっきりなしに生まれ、多々活躍しているが、「サブカル」的な層に引っかかるポイントとしては、良質な・面白い・様々なジャンルの楽曲が提供されているという側面が強いと思われる。ここではある意味アイドルというフォーマットで、アイドルを使って音楽を「遊んで」いるといえるだろう。ここで思い出して欲しいのが2ndシングルの『愛を届けるお人形』だ。KOTOちゃんはこの「人形」という非常にありきたりなアイドルの古典的なイメージをしばしば利用し*5、世界観を作っているが、様々な楽曲でKOTOちゃんを「遊んで」みようとする楽しみ方もまた、実に人形的だ。
ただし、KOTOちゃんのステージを一目見ればわかるように、その人形は異形=「なんか、ヘン」なのだ。その違和感は、何度も繰り返し述べているように、圧倒的なダンススキルから生じている。人形というにはあまりにエネルギーに満ち溢れており、動きが機敏すぎる。さらにいえば、人間が人形であるためには、圧倒的に自律的であることが求められる。『ことりっぷ』の間奏で、KOTOちゃんがターンテーブルに乗せられた人形のように身体を微動だにせずゆっくりと一回転するという振付では、静止するスキルや、足の裏の筋肉だけを動かして身体を一回転するというテクニックが求められる。ダンスが上手いということは、自分の体の使い方を熟知しているということだ。KOTOちゃんはとにかく身体の使い方が上手い。自分の体をコントロールすることと、同時にはじけるエネルギーを少し遊ばせることのバランスが凄い。KOTOちゃんの暴れるツインテールとワンピースの裾はKOTOちゃんの動きになすがままになっているのか、それともそれすらもコントロールしているのか怖くなる。そんな心を見透かすように、ツインテールを掴んで回すという振付すら用意されている。そしてこの自律的/他律的という概念に紐づけて言うならば、他律的=人形的であることがアイドルのパブリックイメージであると同時に、そこからアイドル自身が開放されること=自律性を取り戻すこともまた近年のアイドルがアイドルたるパブリックイメージの王道なのだ。つまり、KOTOちゃんはアイドル/サブカルの対立あるいは両者が持つ共通のいやらしさをダンスという第三極の力によって解き放ち、しかしそれは結果的にアイドルというすべてを受け入れ飲み込む概念のもとに戻ってくるのだ。そう、これが「アイドル」に取りつかれた哀れなヲタクの言葉遊びだ。


単純に、ワンマンライブがめっちゃ楽しかった、ルックスも曲も踊りも大好きだ!!といえば済むだけの話について、わざわざカッコつきで「サブカル」「ダンス」というジャンルを持ちだしてあるいは捏造して「アイドル」の勝利を宣言する身勝手な文章を書き綴ってきたが、KOTOちゃんはそんなヲタクにちゃんと冷水を浴びせてくれる。それが第一部のラスト曲、『ロマモー』だ。KOTOちゃんが第一部のラスト曲ですと宣言し、そもそも2部制だったのかよと戸惑いを隠せないうちに、「みんなが知ってるカバー曲を歌いたいと思います、みんなにもっと沸いてほしいから頑張って練習してきたよ(うろ覚え)」とやや不安そうに話すなか、一体我々ヲタクの何割が(初恋サイダーだ・・・)と思ったことだろうか。しかし、始まったのはなんとロマモー。。土下座するヲタクたち。ウリャオイウリャオイヤヨーヤヨーの後に(これ言っていいのかな・・・)という雰囲気で声が小さくなるヲタクたち。むしろKOTOちゃんワンマンを見に来ているヲタクのうちいったい何人がロマモーで喜ぶと思ったのだろうか。しかし、KOTOちゃんにロマモーを歌わせた誰かを責めるよりも、今、なんとか盛り上がることが何よりも重要だ。今はKOTOちゃんを悲しませてはならぬ。こうしてヲタクはヲタクの間違ったレッテルを貼られ、第一部の終わりで燃やされて死んだ。もちろん第二部はサイコーだった。踊り狂った。難しいこと、余計なことは考えなくていい。ただKOTOちゃんの世界で楽しめばいい。でもやっぱり振り返ってこう思う。アイドルヲタクを気遣いながら殺すKOTOちゃんは最高のアイドルだ!これが愛だ!!!!!ああ悲しみのアイドル無敵論法スパイラル*6

*1:スパイラルミュージック。アイドルレーベル。東京地下アイドル現場における一大勢力。だと思う。

*2:スパイラルの「あの感じ」、察して欲しい。

*3:スパイラルミュージックのソロアイドル滝口成美(なるる)で安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sをやるために結成されたユニット。なるるの横に4人配置されたダンサーにKOTOちゃんが途中加入した。

*4: 佐々木希、Especia、ワンリルキス、寺嶋由芙などの作詞作曲編曲を手掛けるシンガーソングライター兼プロデューサー&DJでサワソニ創始者であるSAWA、らしい。(wikiより)

*5:楽曲自体はあんま人形関係ないじゃんControl-Sと全くいっしょじゃん!という感じですが。

*6:スパイラルミュージックだけにね!!!