真野恵里菜主演「怪談新耳袋 怪奇」/ライムスター宇多丸×三宅隆太トークショウ


真野恵里菜主演、「怪談新耳袋 怪奇」をシアターN渋谷で鑑賞した。上映後にはライムスター宇多丸氏と脚本の三宅隆太氏によるトークショウ。以下ネタバレ感想。


あらすじ

映画は「ツキモノ」「ノゾミ」の前編後編に分かれており、2人の主人公を真野恵里菜が演じている。

・ツキモノ
女子大生のあゆみはバスの中で裸足の不気味な女を見かける。しゃっくりをしながらなにかをつぶやく女を周りの乗客は無視するが、あゆみは迷った末に声をかける。すると女は「背負う気あんの?」とあゆみに問いかけるも、あゆみは答えられない。
あゆみがの授業に向かうと、先程の女が教室に現れ、あゆみの周囲の人物を次々と襲っていく。あゆみはいままで親しくなかったクラスメイトの一人に助けられるが、やがて彼女も化物と化してしまう。化け物となったクラスメイトから逃げまどった末に、彼女を殺すかどうかの選択を迫られるあゆみ。選んだ選択肢は、彼女を殺す(見放す)こと。そして最終的にはあゆみも化物となってしまう。

・ノゾミ
かつて自分の誕生日に出かけたキャンプ先の池で妹が水死してしまい、自責の念を抱えて不登校になり母親とも断絶中の高校生のめぐみは、誕生日が近づくたびに幻覚に襲われ精神のバランスを崩し、リストカットも。しかしめぐみはいわゆる「見える人」であり、死んだ妹だと思われる幽霊に付きまとわれてたというのが真相だった。
偶然出会った母親の友人の信子も「見える人」であり、めぐみに「このままだと近いうちに死ぬ」と警告する。信子はめぐみに取り付く幽霊と交信を試みることに。すると、死んだ妹だと思われた幽霊は、実は赤の他人だった。妹がめぐみを呪っていたのではなかったのだ。
自分以外の「見える人」に初めて出会っためぐみは、「生きている人の心が見えない人は、死んだ人間が見えるはずがない」と語る信子に心を動かされ、すっかり関係が断絶していた母親を誘って誕生日にかつての池へ出かける。母とめぐみは過去の悲しい事故の呪縛からようやく開放された。

トークショウ

ライムスター宇多丸氏が積極的に作品の感想・ツッコミを入れ、それに脚本の三宅氏が答えるという形。
以下、宇多丸氏の解説
・ツキモノの冒頭ではいわゆるJホラーかと思ったら、モンスターが大人数を追いかけまわすスラッシャー系ホラーで驚いた笑
・ノゾミはお約束のJホラー。どんだけタメめるんだ笑 ここじゃまだ来ない、気を緩めた隙に・・・ほらきた、怖い笑
・赤い服を着た子どもを追いかけてはいけないということをこっちは百も承知(笑)なのに追いかけてしまう主人公。だめっ!
・ツキモノは「動」、ノゾミは「静」
・その対称的な2作品を「コミュニケーション」というテーマで繋げている。
・ツキモノは、軽々しく他人に関わるのはいいけど、それを背負えるのか?無理です、怖いし。という話。
・ノゾミは、幽霊さん、言いたいことがあってもハッキリ言わなきゃわかんないよ。怖いし。あんた誰よ。という話。
・「背負う気あんの?」「生きている人の心が見えない人は、死んだ人間が見えるはずがない」
真野ちゃん可愛い

それに対する三宅氏の解説
・ツキモノではいわゆる「貞子」の登場で「こっちか・・・」と思わせておいて、モンスターパニックへ。ギャップがいいでしょ笑
・化物が天井で待ち構えているシーンは役者の体力勝負笑 もちろんロープくらいは使ってるけど
・ロケは自分が教えている大学で。だから「吊るしても大丈夫!」な梁のある場所を把握している笑
・テーマの「コミュニケーション」は自分の経験がもとになっている。
・自分も「見える人」。幼い頃はよく体調が悪そうな人に声をかけていた。すると10人に3人くらいは、他の人には見えないらしい苦笑
・声をかけられて、異常に喜ぶ人がいる。15分愚痴を聞くつもりが向こうは6時間話す気でいるかもしれない
・だからコミュニケーションは難しいよね 「背負う気あんの?」
真野ちゃん可愛い 堤監督も大絶賛

感想

・Jホラーの教養
ライムスター宇多丸氏・三宅氏は「Jホラーの教養」を前提にしていた。しかし僕は「真野恵里菜」の映画を見に来たホラー初心者なので、彼らとはまた違った視点で見ることができたと思う。
2人は大雑把に「ツキモノ=非・Jホラー」「ノゾミ=Jホラー」という対比で捉えていた。僕が「ツキモノ」を見ている最中、登場人物たちの行動が極めて意味不明だったが、これはどうやらJホラーのお約束というものらしい。ツキモノにも知らず知らずのうちにJホラー要素が満載であったと思う。なぜか逃げない主人公、なぜか逃げまくらないで途中で隠れちゃう主人公、なぜか見つかっちゃう主人公、なぜかわざわざ建物の中に逃げちゃう主人公、一回化物が活動停止したのにその隙に逃げない主人公、なぜか化物がほんとに死んだか確認するために近づいちゃう主人公、やっぱりまだ生きてて改めて悲鳴を上げて再び逃げる主人公、それでもやっぱり捕まっちゃう主人公。「お約束」を外部から見るとこうなるのか、と興味深く思った。しかし「ツキモノ」の化物はなぜ「見ざる・・言わざる・・聞かざる・・・」と呟いていたのだろうか。この化物、人間を襲う際に親指を目に押し付けて焼くので「見ざる」は理解できるのだが、あとの二つがよくわからない。まぁ深く考えてはいけないのだろう。
ホラーは苦手なので見る前は本当にどうしようかとビクビクしていたが、不意打ちがあまり多くなく、異様なまでのタメ・前フリから怖がらせてくれるので、その点ではまだ準備が出来てよかった。しかし「はい、次怖いの来るよ来るよ」と言われていても怖いものは怖い。これを利用した怖いの来るよ来るよ詐欺も「ノゾミ」では多用されるのだが、これも宇多丸氏曰くJホラーの定番らしい。


・アイドルとホラー映画
ホラー映画にアイドル(若い女性)。定番の組み合わせである。それがどういう画面効果を生むのか、ということに注目して見ていた。
「ツキモノ」では、先程書いたように「不意打ち」があまり見られなかった。例えば画面の端でふっと異形のものが映ったり、前フリなしに襲ってきたりというシーンだ。僕はホラー映画の怖さといえばこういう不意打ちの怖さを想像していた。先程の対比で言うと、Jホラー=「静」の恐怖=「ノゾミ」←→非・Jホラー=「動」の恐怖=「ツキモノ」ということになる。
これはあくまで予測だが、ホラーを見慣れた観客であれば、画面全体を隅々まで見て「怪しい」箇所を予め見定めたり、カメラの動きから次の恐怖ポイントを予測しているのではないだろうか。一方、ホラー初心者で、キャストのアイドルを見に来ている僕は、やはり登場人物、とくに表情を中心に見ている。
「ツキモノ」はJホラーを見慣れた観客を裏切るように作ってあるのかどうかしらないが、初心者的な見方をする僕に都合が良い作りだったように思える。例えば、主人公の真野恵里菜の顔がある程度よく見えるようなカットでは、同時に画面の他の場所に「恐怖」ポイントが存在していないように思えた。アイドルと化物が正対していて、化物が画面の中心になるときはアイドルは後ろ姿を向いているか、アイドルと化物が交互にアップになるかのどちらかという形式が多かった気がした。
また、最初に疑問に思った「逃げる→なぜか隠れてやり過ごそうとする」というパターンも、「恐怖に怯えるアイドル」の表情を長時間アップで捉え続けられるという利点があると気づいた。このシーンはアイドルにとって見せ場である。もちろん台詞はなく、表情だけで緊迫感と恐怖を伝えなくてはいけない。真野恵里菜だけでなく、吉川友にもこの「隠れる→長時間顔アップ」のシーンが用意されていたのが嬉しかった。
北原沙弥香には、両足を化物に掴まれ、それを助けようとする主人公が手を掴み両方から引っ張られることで「痛い!痛い!離して!!」と叫び、結局主人公が手を離してしまい「あんたが離してどうすんの−!!」と言いながら化物に引きづられ連れ去られる→一瞬で殺されるというある意味笑えるシーンがるのだが、これも両手両足を引っ張られているシーンを冷静に引きの画面で映してしまうと本当にただの間抜けな図になるところを画面の切替を多用することで緊迫感を演出しているのだな、とも気づいた。
唯一と言ってもいい不意打ちのシーンは、ラスト間際に一つ存在していた。迫り来る化物から逃れるために、教室に逃げ込み鍵をかけて後ずさるシーン。扉に目を配ったまま、窓に沿ってゆっくりとゆっくりと後退する主人公。やがて画面の右から見えてくる、一つだけひらいている窓・・・。僕はここで「この窓から脱出するのかな」などと思いながら、後ずさる真野ちゃんに視線を合わせていた。そして、その窓の横まで後退した瞬間、窓の外から真野ちゃんに襲いかかる化物!!
今考えて見れば、多分僕以外の全員があの場面で開いている窓から化物が襲ってくることを予測していたのではないか?とさえ思うのだが、真野ちゃんに視線だ釘付けだった僕にとっては完全な不意打ちで、思わず肩をビクっとさせてしまったのだった。これがJホラーの教養・・・。初心者への軽い洗礼だったのだろうか。

個別ハロメン技評

トークショウでは「真野ちゃんは素晴らしい」との総意が確認されたが、真野ちゃんへの詳しい言及へ、というところで惜しくも時間切れとなってしまった。よって僕がしっかりと真野ちゃん、そしてきっかとさぁやについて評価したいと思う。

吉川友
大学生ファッションに身を包み、軽くロールさせた髪型のニュー吉川友にときめきっか☆ その容姿は、最初の登場シーンでは一瞬本当にきっかなのか?横にさぁやいるからきっかだよな・・・?と不安になるほど。スクリーンで見るきっか、美しい!
上にも書いたが、きっかには大きな見せ場が用意されていた。迫り来る化物から身を隠し、拾った護身用バットを抱えながら、数十秒にわたる顔面ドアップ!試されるきっか。評価は・・・及第点といったところか。目の前を化物が通る時の、定まらない目の動き。去ったのを確認したあとの鋭い眼光。
それ以外はほとんど台詞もないので、女優としての評価は未知数だが、完全なる大根役者というわけではなさそうなので、今後に期待。
やり過ごす→確認のために廊下の右見る→左見る→上にいました笑 絞め殺されました笑 のシーンでは、見事な死体っぷりを披露。死体は美しく、エロくなくてはならない。『告白』の橋本愛には及ばなかったが、きっかも立派な死体っぷりだった。仰向けに倒れるきっかを、足元からなめるカメラ。ブーツとスカートの間で光る、艶めかしい太腿。仰向けでもはっきりと分かる、胸の美しいライン。顔は残念ながら締め跡で良く見えなかったけれど。死体役は動きも表情もない、「身体」だけの勝負であり、いかにカメラに映えるか、特別な天性の資質が試されると思うが、きっかはスクリーン上でも輝いていた。いつも見ている、ステージ上とはまたひと味違うきっか。とても良かった。


北原沙弥香
きっかより台詞・出番はやや多かった(死ぬ順番が後だし笑)ように思えるが、肝心の見せ場、殺害シーンが上記のように化物と真野ちゃんの交互切り替えカットであり、肝心のさぁやは手と足しか写っていなかった。そして化物に引きづられながら「あんたが離してどうすんのー!!」と叫んで死にゆく姿の笑えること笑えること。
こちらも大学生役だが、きっかに比べると「いつものさぁや」という感じだった。演技力が問われるシーンがあまり無かったのが残念。


真野恵里菜
とにかく可愛い。スクリーンで映える。きっかとさぁやには悪いが、明らかに差があった。
前編後編を通して、ほとんど笑うことのないキャラクター設定。ステージ上で、そしてテレビでいつも笑っている(ustでは怒っている)真野ちゃんだが、どうしてもその裏に見え隠れする「暗さ」が前面に出ていてとても魅力的だった。特に後編の「リストカット」「不登校」「図書館少女」「母親にはキレる」「おクスリ常用」という設定が自分の中でピタリとはまってしまった。影のある美少女、真野ちゃん最高。「元気者で行こう!」なんて歌わされ踊りながら、本当は全然元気じゃない真野ちゃん。そんな妄想が膨らんで仕方がなかった。
冗談(本気?)はさておき、影のある演技は本当に上手くて、後編の「ノゾミ」、特にその後半はホラー要素も薄れたため完全に物語に引き込まれてしまい、ラスト近くでは泣かされてしまった。周囲のお客さんもぼちぼち泣いていた。真野ちゃん凄い。そしてエンドロールで真野ちゃんが歌う「家へ帰ろう」。郷愁を感じさせる、心にしみる歌だった。


真野恵里菜は1stアルバムの作り方や今時珍しいソロアイドルということから80年代を連想させるアイドルだと言われることもあるが、ある意味非常に現代的な「優等生」アイドルである。
今日我々は様々なツールを利用した表層的でゆるいコミュニケーションにより複数のコミュニティにあわせて複数の顔を使い分けて生きている。そんな現代人は、丁寧にリスクを管理しながら、自己承認とコミュニケーションを求めている。アイドルはある意味そのような現代人の姿を先鋭化した存在だ。真野恵里菜もまた、複数のブログやtwitterを使い分け、ステージ上やテレビでももちろん活躍し、またust放送ではそれとはまた違った側面(怒ってみたり)を見せたりと、実に器用に「コミュニケーション」と「ペルソナの使い分け」をこなしてみせる。ハロープロジェクト内の先輩グループのメンバーに対しては、年下であっても敬語を崩さない。アイドルとして、また現代人として実に「優等生」なのだ。
そんな真野恵里菜が「コミュニケーション」をテーマにし、2つの顔を使い分けなければならない映画の主演に抜擢されたのははたして偶然だろか?
真野ちゃんの優等生的な仮面の下には、常にどこかしらの影が潜んでいるように思えてならない。器用が故に、コミュニケーション不在と自己承認の不在には人一倍敏感なのではないだろうか。そう思わせてしまうような「暗さ」を見事に演じきっていた。


これからもステージやテレビでは笑っていてもいいから、暗いキャラクターで映画に出て、しっとりしたバラードを歌って欲しい。ソロは孤独だ。ハロープロジェクトという大所帯の中で、唯一ソロで活動する真野ちゃん。つらいこともたくさんあるだろう。おクスリも飲んでるかもしれない。そんな真野ちゃんを俺達は応援するぜ!!!泣 的な気持ちになる素敵な映画でした。顔で笑って心で泣いて。頑張れ真野ちゃん。元気者で行かなくていいよ!泣いていいんだよ!!