Berryz工房 コンサートツアー 2010初夏 〜海の家 雄叫びハウス〜 6/13 CCレモンホール

初日公演で失望してから、もう行くまいと思っていたベリコン。
朝8時から慣れないスーツで臨時アルバイトに勤しみ、午後2時頃から先輩としゃぶしゃぶを食らいお酒を飲んでいたら、今日がベリコン関東千秋楽であることに気づき、ほろ酔い・満腹・疲れ・一仕事終わって飲んだのにまだ外が明るいという諸条件で突如夜公演に参戦することにして、チケット確保に奔走。原宿の娯楽道で「あーさっき売り切れちゃいました」と言われ、現地でダメ元で「譲って下さい」ボードを掲げるなどして、結局開演10分前にヤフオクで2階席を1万円で手に入る。
スーツに革靴のため、ユニクロでTシャツと短パンを購入してしまい後に引けず、臨時バイトの収入もとても高額だったため金に糸目をつけずなんとか入場権を確保。かつて無い高揚感のまま、コンサートは始まった。

開演のアナウンスの後、渚のシンドバッドが流れるというお手軽で効果抜群の演出が追加されていた。すくなくとも初日には無かったのだが、いつから始まったのだろうか。本来なら演劇でスタートするため、イントロからそのまま曲に入る場合と違ってちょっと盛下がりがちな会場のボルテージを高めるには実に効果的だった。「今何時!!」の統率された掛け声の高揚感だけではっきり言って5000円分の価値はあったかもしれない。

初日の感想通り、演劇はつまらなかった。劇中曲も、ボイスパーカッションもいまいち。しかし、東京千秋楽だけあって会場の盛り上がりが凄まじく、モンキーダンスの後奏の行け行けコールや流星ボーイの聞いたことのないオイオイ大合唱、初日より確実にコンサートが進化していた。いつもならちょっと飽きすら感じる友情純情も何も考えられずに腕を振って跳んでいた自分がいた。


コンサートが進化するとはなんなのだろうか。ハロでは滅多なことが無い限り(今回はアンコールが新曲仕様だったが)セットリストを弄らない。複数公演を昼夜ニ回、同じような構成につまらないMCとなると、みるべきポイントは必然的にアクシデント、例えば今日なら夏焼雅が寸劇で壮大に台詞を飛ばしたシーンや、熊井ちゃんの声がかすれてラストのバイバイまたねでヲタが熊井ちゃんパートをお助け大合唱したシーンが今回のハイライトということになる。
しかし今回僕が良かったと思えたのは、一つは開演前にサザンオールスターズ勝手にシンドバッドを流したことだし、もうひとつはモンキーダンスと流星ボーイで今までにない盛り上がりをヲタが作り上げたことだった。これはどちらもプロデュース側とヲタ側が相手に「やれ」と要望したことではないし、空気を読んだり、自然発生した要素である。
これは「アクシデント」ではなく、長いツアーの積み重ねの上で発生したものだ。モンキーダンスの「行け行け」コールは特に有名で、最初は裏拍子のオイオイコールだけだったものに、昨年頃から前奏でCD音源のように表拍子に「行け行け」コールが発生するようになり、今回のツアーでは後奏でも「行け行け」が定着した。この一体感は凄まじいの一言に尽きる。流星ボーイのオイオイも、ネットの反応を見る限りどうやら今回の夜公演で自然発生したものらしい。

僕が今回の寸劇に良いイメージを持たないのは、複製の強度が高く飽きが来やすいことと(毎回枝葉末節に変更を加えたりもしているのだが、そういう点は逆にヲタが「反応させられている」感を持たざるをえない)、ヲタ側からのフィードバックが難しく、得てしてツッコミはマイナス要素となってしまう(通常であればお約束の台詞をヲタが重ねて言うなどの特徴があるが、今回はシリアス場面で外野の余計な叫び声が演技を台無しにしていた)ものである。
従って、先程も述べたが台詞の言い間違いや飛ばしに過剰反応することになる。これは正直いかがなものか。
もちろん寸劇には寸劇の良さがあるのだろうが、なんども言うが、折角ゲキハロという舞台があるのだからそちらで徹底して欲しい。あくまでコンサートツアーなのだから。


これまで言われてきたように、コンサート、広く言えばアイドル現象というものは、ヲタとプロデュース側の双方が創り上げるものである。ヲタはわかっていてアイドルに騙され、ライブに没頭するのであり、ヲターアイドル(プロデュース側)信頼関係が失われると、ヲタはふと現実に返され、時に過剰にアイドル側を非難することもある。僕がライブで言う信頼関係が崩れたと感じたのがまさに前回のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100502/1272822010であった。
ヲタが主役となってアイドル現象を作ると盲信するのは危険である。例として挙げやすい初音ミクアイマスといったコンテンツを見ても、たしかに二次創作者兼消費者のヲタがその現象の多くを担っていると言えるかもしれないが、データたるミクの声そのものやビジュアル、アイドルマスターの原作という「プロデュース側」の要素を抜きに考えることは不可能である。
ましてや現実のアイドルであれば、やはりプロデュース側の力は偉大であり、「ヲタがドラマを創る」というのはやはり過信であると思われる*1。今回の例で言うと、長いコンサートツアーを重ねて、そこでヲタクとアイドル&プロデュース側がお互いに「空気を読」み、欲望を擦り合わせる作業が必要であり、それが身を結んだ時に物凄いパワーが生まれるのではないか。

ヲタとプロデュース側の信頼関係、というと聞こえがいいし、そんなものは幻想かもしれない。だからといって、たとえばtwitterでヲタクの要望・欲望を直接プロデュース側、例えばアイドルのマネージャーやアイドル本人に投げかけるのはいかがなものだろうか。あまりに不粋すぎないだろうか。アイドルとの関係・アイドルの存在を、お金を払って幸福・効用を得る商品としてみなすのは、決して間違いではないだろうが、ファン・ヲタの態度としてはあまりに悲しい。

はっきり言って古典的理想的コミュニケーション論を振りかざしているだけのような気もしてきた。現実の世界でコミュニケーションの際に「空気を読むこと」で果たして幸せになるかどうかは定かではないが、じゃあアイドル現場で「空気を読むこと」あるいは「空気・場を創ること」と何が違うのだろうか。僕は「場」の力、集団による「創発」に期待しすぎているのかもしれない。

どうやらこのまま筆を進めると、レベルの低いコミュニケーション論・システム論になりそうな気がするので、ここまでにしておく。

しかし、アイドル現象の理想像は、ヲタもアイドルからパワーを貰って幸せ、アイドルも自己実現できて幸せ、プロデュース陣も儲かって幸せという三者が全員得をする姿である。今日のライブではそれが実現出来ていたのではないか?僕はそう信じたい。皆信じたいのだ。アイドルを信じたい。何かを信じたい。わかっている。でも信じたい。わからない。うーん。

*1:このような書き方をするとAKB48の総選挙批判のように思われるかもしれないが、僕個人的にはあの総選挙に対して単に「ヲタが秋元氏の手のひらの上で踊ってるだけじゃん」と批判する気はなく、むしろ「ヲタがどのような(予想外の)動きをしてもそれがすべてドラマになってしまう、制御不能の勢いと怖さ、その結果としてプロデュース陣の(褒め言葉としての)狡猾さ」が見えたなと思っている