有原栞菜・アイドルとメディア

昨日、℃-uteを卒業しモデルに転身した梅さんこと梅田えりかのブログに、同じく℃-uteを卒業(正確には脱退)し消息不明となっていた有原栞菜が登場し、twitterハロプロクラスタにおいてちょっとした騒ぎになっていた。
http://ameblo.jp/umeda-erika/entry-10506046192.html


有原栞菜は様々な意味で異端児だった。
研修生であるハロプロエッグから℃-uteに追加加入した唯一のメンバーであり、先にデビューしたBerryz工房と合わせて「ハロプロキッズ」と呼ばれていた14人とは異なる経歴を持つ。
僕が初めて有原栞菜を認識したのは、2008年に放映されていた深夜番組「ベリキュー!」である。当時当然上記の経歴を知らなかったのだが、有原栞菜からは強い違和感を感じていた。番組内で彼女は岡井千聖萩原舞の年少組*1と共に「はしゃいでいる」ことが多かったが、僕にとって、有原栞菜は先の二人と違い、ごく平凡な普通の少女に見えた。ヒステリックで、感情表現が激しい。露骨に退屈そうな態度でいることも多々あった。正直な感想を述べると、テレビの画面内の彼女の言動に苛立ちを抱くことが多かった。ともかく彼女の存在はテレビ画面に強烈な違和感を残していた。

その違和感は、Berryz工房に興味を持ち、必然的に℃-uteに対しても知識を深めやがてコンサートにも足を運ぶようになっても解消されず、むしろある種の嫌悪感を抱くようにまでなってしまった。
僕がハロプロメンバー、いや、テレビ番組に出てくるような女性アイドルに対し、ここまで嫌悪感を持ったことなど無かった。好きの反対は無関心とはよく言われるが、嫌悪感はある意味好意や愛の裏返しとも言える。栞菜は僕にとって負の意味で非常に気になる存在だった。

特に僕は栞菜の「目」がダメだった。いつ見ても光がない、目が死んでいる、そう感じられた。アイドルという存在、そして部分的にアイドルの「目」は、見るものを惹きつける存在である。栞菜にはその力がなかった。無かったというより、どこか反転してた。負の力で吸い込まれてしまいそうだった。
まっさらブルージーンズのPVを見て欲しい。
http://www.youtube.com/watch?v=sOS-aZYkNrU
言わずとも知れた、℃-uteの1stインディーズシングルかついまなお℃-uteの代表曲である。
この曲のイントロでは、曲名になぞられたまっさらな青空のカットから有原栞菜のアップが出現し、「まっさらブルージーンズ!」と叫ぶとともに、画面は栞菜の左目に吸い込まれていく。僕はこの曲が大好きだが、このPVのイントロ映像は未だに恐ろしく、苦手である。

この1stシングルのオープニングの掛け声を栞菜に任せ、PVでも栞菜の目に吸い込まれていくカットを指示したのはプロデューサーのつんく氏なのかどうだかは定かではないが、少なくともこれらを指示した者が、意識的では無かったにせよ栞菜の「目」が持つ力を感じ取っていたのは間違いないと僕は思う。

そして有原栞菜は、アイドルにとって致命的とも言える男性スキャンダル*2に揉まれ、過激派ヲタによる握手会拒否事件がネットでも大きく騒がれ、2009年2月にはついに不可解な「外反母趾」により活動停止、そしてほとんどアナウンスが無いまま同年7月に突然の脱退発表が行われ、ひっそりとアイドルであることを辞めた。

今思えば、有原栞菜は悪い意味で始めから非・アイドルだった。既に書いたように、良くも悪くも感情表現豊かでヲタ受け(ファンサービスの意)も悪く、彼氏とも遊んでしまう、あらゆるアイドルらしさから離れた「普通の少女」だったように思える。そもそも栞菜にアイドルでいることを求めるのが酷だったのだ。

栞菜は卒業セレモニーをすることも無く僕たちの前から消えていった。もう「アイドル」の何もかもが嫌になったのではないだろうか。
僕は栞菜の活動停止・脱退が決まると、「やっぱりね」と思うと同時に、少なからず罪悪感を感じた。そして、栞菜とはもう出会うことはないだろうし、お互い(栞菜と僕たちヲタ)にとってそれが一番良いことだろうと思った。栞菜には今まで通り、今まで以上に普通の女の子として幸せな人生をまっとうして欲しいと切に願っていた。


そして昨日、不意に僕たちは栞菜と再開することになった。ブログの写メの栞菜は、相変わらず目が死んでいた。

参考:twitterでの元栞菜ファン?の方のつぶやき
http://twitter.com/chi_maki/status/12000217900

有原栞菜ちゃんはモデル・梅田えりかのプライベートなお友達であって、それ以上でも以下でもない事を本人自ら宣誓してるようなものだから、アイドル・有原栞菜を応援してた身からすると「久し振りに元気そうな姿を拝めて嬉しい」という以外の複雑な想いの方がデカすぎて、受け入れ難い気分です。

アイドルという存在は、基本的にはメディアの上に置いて存在する。テレビ・ラジオ・雑誌・そしてブログ。
メディアの上で生きる人々は、そのメディアの特性によって違った側面を見せる。芸人、そしてラジオパーソナリティとして名高い伊集院光がしばしば「白伊集院」「黒伊集院」などと表現するように、表現者側がそのことに自覚的である場合も多いし、表現者であるならばそうであって欲しいと思う。

アイドルはそのことに自覚的であるのだろうか。
アイドルというのはそもそも一つ皮をむけばただの少女である。一部の、アイドルであることに非常に自覚的であるタイプを除き、基本的にはファン側が過剰に情報を読み込むことで一人の少女からアイドルという幻想を抽出している。
ブログ、twitterustreamといった近年登場したメディアは、表現者と受け手の間を情報が媒介する際に障壁が少ない「ダダ漏れ」の傾向が高いという特徴がある。アイドルがこれらのメディアによって我々受け手に届くとき、その更新の手軽さや「近さ」を偽装できる点から、ファンたちは概ね高評価を下す。
だが、これらの手軽さ・障壁の無さは、その特性に対してアイドルが自覚的でない場合、多くの問題を孕んでいる。お察しの通り、我々が見たくないものがダダ漏れしてしまう危険性が非常に高い。このエントリ更新中にも、悲しいニュースを目にした。

平野綾の左手に指輪?
http://hamusoku.com/archives/3030388.html

上の例はもちろん特殊例で、度を越えたネタ化とその反転という、我々受け手の側に大きな問題があることを示しているが、アイドルと受け手の間に良い意味で共犯関係を築く際に、必ずしもブログやtwitterというメディアは有効とは言えないのではないか。

有原栞菜も、今はもうアイドルでも何でもない普通の女の子である。本来であればもうメディアには現れてはいけない。
しかし、アイドルであることは辞めたが、モデルというまた立ち位置の違う表現者となった梅田えりかのブログによって、栞菜はある種の幽霊として我々の前に現れた。たとえもしこの写真の栞菜の左手薬指に指輪がはめられたとしていても、狂信的ヲタが殺害予告をするまでもなく、アイドル有原栞菜は既に「死んでいる」のである。元ファンに取ってはやりきれない、切なすぎるではないか。

現在のハロプロでは、田中れいな道重さゆみ真野恵里菜和田彩花前田憂佳福田花音小川紗季が一般向けブログを解説している*3道重さゆみ真野恵里菜はアイドルとしての意識が高く、一定度の信頼性が置けるだろう。福田花音もエッグ時代からマメにブログを毎日更新していたことで有名であり、そのあたりは心得ている。だがそれ以外のメンバー、とくに和田彩花などはかなりヒヤリとさせる内容が更新されたりする場合もあり、こちら側としては見たいようで見たくない、非常に複雑な心境である。だがそれらの点が人気であるというのも否定できないのではあるが。もちろん一応事務所チェックは入っているようである。


真野恵里菜スマイレージの4人*4twitterアカウントも存在する。twitterではブログ以上に「近さ」を売りにできるかもしれないが、これ以上ハロメンがブログやtwitterを開始することに対しては、個人的には望ましくないと思っている*5

真野恵里菜は4月3日のコンサートでハリウッド進出?に関して「真野ちゃんが遠くに行っちゃう、とファンの方々に言われましたが、違います!!遠くに行くんじゃなくて、大きくなるんです!!」と語っていた*6


でも真野ちゃんは遠くに行っちゃうのではなく、もともと遠くにいる。メディアの上で、近いようで遠くにいて、そして大きくなるのだ。

*1:鈴木愛理も年少組と呼べるかもしれないが、彼女は当時既にその表情・喋り方等に見られるように、ある種の仮面をほぼ完璧に身につけることに成功していたといえよう

*2:しかも相手はジャニーズJr!!

*3:あとはエッグで森咲樹が開設していたような気がするが、あまり詳しくない

*4:スマイレージtwitterはやや特殊な形態であるが。

*5:じゃあ見なきゃいいじゃん、自己責任じゃんという批判があるかもしれないが、見られるなら見てしまうのがファンと言うものである

*6:真野ちゃんは曲・MCともに非常にアイドルとして高い素質を感じさせてくれた。特に曲ではCDとは全く違う一面を感じられ、自然と会場を真野ちゃんオーラ(これがホントのラッキーオーラ^^)で支配していた。