図書館と集合知

d-laboセミナー 長尾真×濱野智史「図書館は見えなくなるか?データベースからアーキテクチャへ」に参加してきた。

長尾氏は国会図書館の館長。セミナーの詳細なログはhttp://d.hatena.ne.jp/kuro-nicle/20091210/1260456512
またはtwitterの#nagahamaタグで。http://twitter.com/#search?q=%23nagahama

確かに情報過多の現代では何かを考える前に「ググって」しまう。例えば大学でレポートを課された際に、出典も記載せずに丸パクリするのは言語道断としても、自分が設定した疑問の答え、思考プロセスがオリジナルである可能性はかなり低いと思われる。自分みなたいなのが考えることはとっくの昔に誰かが考えているに違いないってやつ。だからそこで開き直ったり思考停止するのではなく、「自分で考える」ことを止めてはいけない、というのは簡単だしよく言われているけれど、じゃあどうしましょうねという話。知識を知に変える方法論がほしい。
みんなで考えようね、多様な意見をぶつけ合いましょう、というのが先日のweb学会でもそうだし最近東浩紀氏が盛んにルソーに触れてよく言及している一つの方法である。そこではただ話し合うのではなくdeliberate(熟慮・熟考)が大事だと東氏もそして今日のセミナーで濱野氏も発言していたが、熟慮って何?単純に考えて考えて考えまくるってこと?ここをもう少し詳しく知りたいし考えてみたい。この用語でなんとなく誤魔化されて論理が飛んでいる(そもそも全体的にロジカルかといわれれば怪しいが)と思う。
また1冊の本という区切りに囚われず、各チャプター・各文章を部分的に検索できるシステムを電子図書館として作りたいという話があったが、これは相当怪しい部分を持っていると思う。twitterで「文脈って軽視していいの?」と投げたら「文脈を掴みたいと思ったときに掴めるスキームを準備してさえいれば、個別の情報をピックアップする方向が主体的でも構わない、かな。」とリプライを貰ったが。長尾氏は「書物の解体、個人に対する再構築が最もおもしろい」と語るが、分解→再構築の瞬間に部分の要素の文脈を追い切れるのだろうか。あとこの再構築ってのはいわゆる知識を知に変えるってことなんだろうけど、その変化・クリエイティブな作業は個人に任せられているのだろうか。濱野氏がよく題材にするニコニコ動画で考えると、自然淘汰するタグ機能のように、場・アーキテクトを整備すれば利用者が勝手に作品を生成するよと言われているのでその部分に特に言及はない。ニコニコ動画MAD作品のメカニズムを図書館ー知のモデルに落とし込む具体的な話がちょっと見え辛かった。図書館の今後の課題ということか。

それよりオープンソース著作権に絡めた話が聞きたかった。電子図書館って極めていけば要するにGoogleBooksあるいはInternetAtchiveになるわけで。そのあたりの倫理的問題はどうクリアしていくのだろうか。
現実問題として今の時代に本を買う理由って図書館に入荷される数が限られているというそもそもの入手困難性・返却期限の存在・そして所有欲くらいなわけで、この辺りが技術でクリアされていくと音楽業界のように著作権の問題がどんどん深刻になっていくに違いないし、もしかしたらすでに問題になってるのかもしれない。

新たな作品を生み出すクリエイティビティのインセンティブを確保するために(なんか変な文章だ頭が頭痛で痛い的な)著作権は存在する。新たな知を生み出すためのインセンティブってなんだろう。ニコ動には純粋な「面白さ」で作品が生まれてくるけれど。うーんさっさとレッシグを読んで勉強しないと。無い頭で考えてもしょうがない。