竹の子族とアイドルオタク

大学で法学部の念仏攻めからエスケープするため心のオアシスとして他学部聴講している二つの授業のうちの一つが、おもにドキュメンタリーを題材として映像メディアによる証言とは何かを考える授業。前回の授業後に80年代の話で盛り上がり、早速先生が80年代について書いた本を読んでみた。
 

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

気になった一文。竹の子族について、「ハレ」と「ケ」に関する考察。


「あの80年代前半の時代、最後の≪周縁≫(社会のはみ出し者)から≪中心≫への新入であり、竹の子族は闖入者というよりは、司祭や巫女の役を引き受けた厄払いの儀式の担い手だったのではないかと思われてくる。彼らが懸命に厄払いしようとした者こそ、80年代後半の≪バブル文化≫期の現れるフラットで終わりなき日常の時代であったのかもしれない。」


まず「闖入」が読めず、google様にお聞きしてもよかったのだがなんとなく反発して数年ぶりにIMEパッドを開いて門構えに馬ねなんつって調べたりして。ちんにゅう。

アイドルのコンサートに足を運ぶ自分としては、竹の子族のパフォーマンスを見るとアイドルオタク*1のことを連想せざるを得ないのである。
古くは80年代アイドルに起源し、ハロプロ系で流行したのち改変を重ね近年秋葉原において勢力を増す地下アイドルや声優アイドル系で有名になった「ヲタ芸」や、それを着ることにより誰それのファンであることを示す記号「ヲタT*2など、外面的にまず多くの共通点がみられる。


本書で指摘されているようにハレーケの関係性は、アイドルコンサートに足を運ぶ多くのオタクも実感しているだろう。仕事・授業に追われる(自身は大学の授業に追われているわけではないが)日常から解放され、アイドル=神に出会い、振りコピで神との同化を擬似体験し、必死に声援を送るのである。


多くのオタクは自身の推しメンを周囲または推しメン本人に示すためヲタTを身にまとうのだが、僕はどうにもヲタTが好きになれない。デザインが気に入らないとかTシャツにしては妙に高いといった些細な理由も含まれてはいるのだが、一番の理由は周りのヲタ(しかも同じ推し)と同じ服装を纏うとこがどうにも許せないという理由である。グッズとしてお金を落とすことで、アイドルとの関係性の中で商業的な部分が表面化するのはどんなに頭で理解していても精神的に耐えがたい。「桃子好きなの?じゃあピンクT3500円。これであなたも立派な桃子ヲタですね^^」と事務所側から言われるのはまっぴらごめん、ということである。そこはどんなに形式的でも「自分の意思」で桃子を応援したいのである。どんな幼稚な論理だよと言われるかもしれないけれど、そう思うのだから仕方がない。
かといって現場の流儀を無視するのもいかがなものかということで、ヲタTではないピンク色のTシャツを他店で買って着ている。これが自分の中でぎりぎりのバランスの選択である。どれだけうじうじ言ったところで所詮は没個性ではあるが、自らのスタンスははっきりさせたいものだ。


オタクの中で自らを差異化する、ということについてはもう少し考えてみたい。
神としてのアイドル、差異化、認識されること。会いに行けるアイドル、育てるアイドル。


まぁでも結局は曲を聴いたりDVDを見たり狼で戯れたりとブログを見たりと、終わりなき日常をぬるぬると消費しているのですけれど。
ハレとケの境界があいまいになっていることは確かだと思う。でも宮台の言う終わりなき日常ってそういう意味じゃないよね。


 

*1:アイドルファンというにはライトすぎるし、「おたく」と表記するは躊躇われる

*2:ヲタTに関してはここに詳しいhttp://d.hatena.ne.jp/onoya/20090518/1242673758