vineでアイドルを切り取る/閉じ込めるということ

最近vineにハマっている。かなりの今更である。vineというと、やはりvineで一躍有名になった例の女子高生のことが思い出される。いつだったか最初にvineというメディアを知ったのもその女子高生の動画だったと思う。
アイドルもvineを使っているのをしばしばtwitterから見かける。密度やクオリティの差こそあれ、かの女子高生のように、ネタを6秒の中に詰め込んだパターンが多いように思われる。自分を表現する方法として、スマホひとつで、手軽に、ある程度自在に編集した動画を生み出すことができる。若いアイドルにとっては使わない手はないだろう。
vineをインストールして使ってみると、なるほどと思うことは多い。タップしている間だけ録画が進むので、編集ポイントを簡単に作ることができる。あらかじめ撮影しておいた動画をあとから6秒間切り出すこともできる。

だが、最近ハマっている自分のvineの使い方は、今挙げたようなものではない。これがどこまで一般的な、あるいは一般的ではない使い方なのかは観測範囲が狭いのでよくわからないが、自分の狭い観測範囲の中では割と多い使われ方であるように思う。
それは、「アイドルの既存の動画をvineで切り出す」という方法だ。
テレビ番組から、あるいはYouTubeの動画から、好きなアイドルの好きなシーンを6秒以内に切り取ってくるのだ。
思うに、アイドルヲタクというのは、自分が好きなアイドルの「ちょっとしたしぐさ」を見逃さずに捉え、必要以上にその点を好きになるのが得意だ。あるいはそれまでとくに好きでもなかったアイドルの「ちょっとしたしぐさ」を必要以上に自分の中で増幅してしまい、そのアイドル自体を好きになってしまう。同じセットリスト、あるいは同じ持ち曲のライブに何度も通い、形式的な反復から漏れだす「ちょっとしたしぐさ」を見に大金を落とす。2時間超のドームコンサートで双眼鏡から目を離さずに2時間のうちに数回しかない数秒のポイントを逃さず、とらえた!と思ったらライブ終了後にすかさずtwitterに連投。なんども入ったコンサートのDVDを買って、好きなシーンを何度もリピート。想像も交えて適当に書いてみたが、おそらくあたっているであろう。
そういう性質のアイドルヲタクにとって、vineで既存の動画を切り出す作業は非常に楽しい。楽しすぎる。一般的に能動的に1〜2ネタ仕込む使い方とは全然別なのに、6秒間という時間がまたこれはこれで絶妙で、アイドルを見ていて「ここ!ここがいいの!!!」となるポイントは大体6秒以下だ。その6秒の切り取り方はあたかも「自分だけが発見した」ように感じられるし、切り出した6秒間のアイドルは(もともと既存の動画であるにもかかわらず)圧倒的に自分だけのもので、そしてなにより素晴らしいことに、切り出した6秒間の「ここしかない」というポイントがエンドレスでリピートされる、それがvineなのだ。もういちいち巻き戻しボタンを押すこともシークバーを動かすこともいらない。自分が切り取った一瞬は永遠になり、画面の前で呆けているだけで時間だけが過ぎていくのだ。
vineを作っていると、なんともいえない懐かしさを感じる。それは今挙げたようにDVDの好きなポイントを繰り返し見ていたあの頃の自分であり、もっと遡れば、ごりっごりのガラケー時代、メール送受信画面としてgif画像を作成するために元画像を用意してからgifに変換していたあの頃の記憶かもしれない。gifと違ってvineは音が出る。素晴らしい時代だ。

vine動画を作ることと、カメラを撮ること、あるいは映像を撮ることはどう違うのだろうか。カメラとは「見る/見られる」という関係性を作り出し、「視線」という力を借りた暴力装置であるとか、あるいはカメラは被写体から発せられる光を固着させているに過ぎず、ただただ光を原始的に受け取るしかない受動的な装置なのだといったような議論や、カメラと比べて映画は「その一瞬を切り取ること」を放棄した怠惰な行為であるといった議論を読んだ記憶がある。いままでのカメラ論・映像論の中でそれらの議論がどういう隆盛を経てどう評価されているのか不勉強ながら知らず、vineにどう接続されるかも分からないが、アイドルヲタクの使うvineというのもなかなか特殊な暴力装置であるように思える。生身の人間たるアイドルを固着させたDVDから、さらに6秒というわずかな時間にアイドルを閉じ込める。アイドルはその6秒を延々とループし、愛でられながら生き続ける。ループする世界が題材のどんな美少女ゲームであっても6秒では短すぎる。6秒では主人公あるいはヒロインたちはとうていその世界からは脱出できないだろう。

さらにいうならば、自分が今最も好きなvineの使い方は、そもそも固着されること=録画されることが想定されていないであろう、ネット上のストリーミング放送、正確に言えばSHOWROOMという生映像配信プラットフォームの放送をPC上でキャプチャ録画したうえで、本来であれば一回性の瞬間をvineという6秒間のループ空間に押し込んでしまうというものである。自分で言うのもアレだが、かなりエグい*1

話がそれたのでまた少し昔の思い出に浸って終わることにする。
自分が声優ヲタクを卒業し、アイドルヲタクに不時着陸したのは2007年頃。はじめて好きになったアイドルはBerryz工房嗣永桃子だった。アイドルヲタクになりたての頃、当時親しくしてくれた大学の友人の家にBerryz工房のライブDVDを持ち込んで転がり込んでは、その友人は大して興味が無いのに、どこの動きが可愛いだのどこの動きが面白いだのを勝手に解説してリピートして呆れさせていたのをよく覚えている。

いま思い返しても強烈にvineに切り取りたいと思うのは、2010年夏のハロコンで道重・梨沙子・ジュンジュンの続・美勇伝が愛すクリ〜ムとMyプリンを歌った時にサビでひな壇の桃子が立ち上がって横にいた須藤にふりふりヒップアタックをかましている姿(とそれを見て爆笑している岡井ちゃん)をカメラが完全に抜いた瞬間と、いつだったか完全に忘れてしまったけれどもスッペの「♪よそ見なんて許さないわよ」のところで桃子と熊井ちゃんが上に掲げた手を合わせるところで身長差約30cmでまるで届かない熊井ちゃんの手まで桃子の手がするするっと斜めに登っていくのをカメラがアップで追いかけていく瞬間だ。


明日、いや、日付を超えたので今日は2015年3月3日。Berryz工房の無期限活動停止武道館ライブの日だ。
ヲタクがいくらvineでアイドルを切り取って6秒の永遠の時間に閉じ込めたとしても、現実の時は過ぎていく。ただ、どっちが真実かなんてことはどうでもいいのだ。6秒間の永遠も、思い出も、そして実際にこの先も生きていく生身の彼女たちも、僕たちにとってはどれも本物に違いない。

*1:特に、対象となるアイドルがテレビやDVDといったメディアに登場することが殆ど無く、現場以外だとSHOWROOMやニコ生のような敷居の低いプラットフォームでしか見れない場合。。

2015/1/26 KOTO1stワンマンLIVE〜心に宇宙がキュートでしょ?〜/KOTOちゃんってすごいけど、なんか、ヘン

KOTOちゃんをはじめて見たのは去年の夏。7月。ちらっと「スパイラル*1に入ったKOTOちゃんって子が凄いらしい」というような声が流れてくるのは聞いていたけれども、スパイラルという時点で眉唾、高を括っていたら、こりゃすごい。ちいさくて可愛い、そのくせすっごいバキバキ踊る、曲もいい。そしてなにより「すごいけど、なんか、ヘン」。
1stシングルの『ことりっぷ/まだ起きてる?』はその時手に入れてから今でもものすごい頻度で聞いてるマスターピース。リズムが楽しいコミカルな『ことりっぷ』に、メールと恋心を歌うthe・アイドルソングの『まだ起きてる?』。甲乙付けがたい2曲が収録されたCDのジャケットにはピンクの背景に黒髪ぱっつんツインテール、ぱっちりした目に白いアイシャドウで強調されたぷっくりとした涙袋。何もかも完璧な盤なのだけれど、初めて見たKOTOちゃんは、動きがきれているというか、キレすぎていて、全然曲に合ってないとすら思うほど。そんなに首をきゅっと動かさなくても、手をピタッと止めなくても、その3分の1のスピードで動いて普通に左右にステップを踏んでいれば、あるべきアイドルの姿として「完成」していたかもしれない。
KOTOちゃんの常人離れ、誤解を恐れずに言えば「アイドル離れ」した動きは、ちょっと調べればわかるその経歴を見れば納得。小学校の頃に始めたというダンスの腕前は、「ALL JAPAN SUPER KIDS DANCE CONTEST 3年連続FINALIST」といったものを代表に、全くその手の世界を知らない自分でもまあとにかく凄いんだろうなということだけはわかる。ビジュアル・楽曲はもう言うことなしなのに、そこにすごすぎるダンスが加わることで「なんか、ヘン。」になってしまうKOTOちゃん。しかもスパイラル*2。このギャップのたまらなさに、KOTOちゃんのことが一発で好きになる。

とはいっても、はじめてKOTOちゃんを見てから半年がたち、KOTOちゃんをみたのは多分10回はいかないくらい。楽曲が良すぎるのでiPodで聞いているだけで満足してしまうし、KOTOちゃんはむしろ滝口成美 with Control-S*3でなるるの横でバキバキ踊っているのを見ていたほうが面白いんじゃないかなどと思う始末で、今回のワンマンライブも、平日ということもあり、仕事が終われば行ければいいな、という程度でいた。昼間にtwitterでたまたま10月に発売されていた「奇跡のトキ」がもう完売していて買えないことを知り、どうしても新曲が買いたくなって、仕事を半分放り投げて19時の開演15分前にたどり着いた新宿ReNY。

受付で当日券を買い、ロビーに入るとなんともいえない違和感が襲ってきた。客層が、ヘン。スパイラル現場に居そうな(ちらほら見たことある顔も)ヲタクだけではなく、意外に多い若い女の子と、ママ。おそらくキッズダンス関係の客層なのだろう。それに加えて、ヲタクとは一味違う雰囲気や服装の、これ以外に彼らを表す言葉を知らないので申し訳ないと思いながらもあえてこの言葉を使うが、「サブカル」層。KOTOちゃんはレコライドの佐々木喫茶がプロデュースの6ヶ月連続シングルCDリリースプロジェクトを行っているし、この日のワンマンライブより発売された『ギザギザのロンリナイ』SAWA*4が楽曲提供しているし、KOTOちゃんはアイドルジャンルにも目を配る音楽愛好家にも注目を浴びているのかもしれない。そちらの世界は残念ながらよくしらないのだけれど。

多少恣意的に言えば、ヲタク、サブカル、キッズダンスというざっくり3つの界隈が入り混じり始まった混沌のKOTOワンマン。甘いワンピース衣装に身を包んだKOTOちゃんが登場し、まずは『ことりっぷ』『まだ起きてる?』『たんぽぽの僕は』といった「アイドルらしい」楽曲から始まり、バラードから『愛を届けるお人形』『Can go!!』と2ndシングルにつなぎ、ゲスト枠のSAWAが2曲歌った後は『ギザギザのロンリナイ』をSAWAとコラボ。そして第一部(!?)のラストはまさかの藤本美貴カバーのロマモーこと『ロマンティック浮かれモード』。10分のインターバルの後に始まった第二部は『くえすちょんくえすと』から佐々木喫茶プロデュース曲を中心にEDM曲群を並べ圧巻ダンスで場を盛り上げ、大盛況でKOTOワンマンは幕を閉じた。

得てしてこういう複数のカルチャーの客層が入り混じった現場では、それらの化学反応がどう転ぶかで良し悪しが圧倒的に変わるものだ。KOTOワンマンではどうだったかというと、数の問題でやはりスパイラル勢を中心としたアイドルヲタクが中心になっていたのだが、KOTO現場では(おそらく曲調の問題で)典型的なアイドル現場のアイコンであるMIXが発動することはあまりなく、(おそらく難しすぎる振付の問題で)振りコピやヲタク独自の集団行動様式が発動することもあまりなく、ヲタクが暴れることも喚くことも悪ノリしてなにか騒ぐこともなく、適度に盛り上がる非常に居心地のいい雰囲気が成立していたと思う。\KOTOちゃん!/と叫ぶ声はむしろキッズダンス関係の女性陣による黄色い声が最も目立っていたくらいだ。

ここ数年のアイドルブームの影響で、アイドルがアイドル以外のジャンルのアーティストと対バンすることも多く、ヲタクとそれ以外の文化様式を持つ客層が被ることについては、もはや今日日取り立てて騒ぐことの程でもないだろうし、「ヲタク」と「サブカル」の不毛な対立図式を煽るのも見飽きたし非生産的だ。しかし、KOTOワンマンでは、そこに「キッズダンス勢」という軸も加わっていたということもあり、対バンではなくワンマンライブで、ざっくり3つの文化様式が入り混じった客層というのは自分もなかなか経験がなかったので、妙に緊張してしまったのだ。蓋を開けてみれば、もちろんみんなKOTOちゃん(にまつわる何か)が好きで見に来ているし、幸運にもそれぞれの文化様式が悪目立ちすることもなく、かといって過剰な「一体感」が生まれたわけでもなく、とにかく心地いい盛り上がりの中で、ダンス、楽曲、そしてKOTOちゃんの可愛らしさといった様々な面からKOTOちゃんを堪能することができてとてもよかった。


すこし抽象的な話をすると、自分はアイドルの「懐の深さ」が大好きだ。いろんな人に愛されること。受け手がアイドルをそれぞれ自由な視点で切り取って、様々な解釈でアイドルを愛すること。そしてアイドルという生身の人間がそれらを受け入れること。そういう在り方が好きだ。もちろん、その図式にはここであえて言うまでもなく多くの問題を孕んでいるし、受け手は余りに我侭でタチが悪い。許されるラインと許されないラインもよくわからない。それでもなお、その未熟さもすべて受け入れてくれるような様々な形のコミュニケーションのユートピアを、どうしてもアイドルに夢見てしまう。
なので、KOTOちゃんがまずたった一人で大雑把に分けて3つのジャンルのファンから愛されていることそれ自体に対して、自分はKOTOちゃんの魅力を強く感じる。もちろん今までに述べたように、ルックス・楽曲・ダンスといった個々の要素も大好きだ。自分は音楽的素養が絶望的にないので、佐々木喫茶氏が提供している楽曲群のジャンルがたぶんEDMとよばれるものに属しているのだろうなということくらいしかわからないし、ダンスのジャンルについては何一つ知らない。ただ、そんな無知な状態でも、KOTOちゃんが歌って踊ってくれるのであれば心地よく聴けてしまうし踊ってしまう。多分自分は同じような楽曲・同じようなダンスでも、「アイドル」が歌ったり踊っていなかったらそれらを楽しむことが出来ないのではないかと思う。よくわからないけれども楽しそうな世界に無邪気に足を踏み入れるフィルターとして、また、それらの楽しさを加速させてくれるブースターとして機能しているKOTOちゃん、という意味でも大好きだ。
そうなってくると、じゃあ自分が異常ともいえるほどに取り憑かれている「アイドル」とはなんなのか、KOTOちゃんは果たして「アイドル」なのか、というアイドル定義論争の底なし沼に足を突っ込みそうになってしまう。結局のところ、こういう場合は紆余曲折があろうとも「アイドルだと思えばアイドル」あるいは「ジャンルなんて関係ない、KOTOちゃんはKOTOちゃんなんだ」というところに勝手に落ち着くものだし、今回もまあ結論としてはそうなのだが、これについてもう少しだけ、KOTOちゃんに感じている「アイドル」というジャンルからくる魅力について書いてみたい。
自分がアイドルの魅力として「懐の深さ」や「様々な解釈を許容する存在であること」というものを感じているのは、ある意味無敵の論法である。アイドルというジャンルはいったいなんなのか、あるいは、それはアイドルでないと言われたとしても、そのレベルの議論に与さずに「そういう解釈を許す○○はまたアイドル的である」という返しが可能であり、自分が好きな存在や好きなポイントをまず原始の一撃でアイドル(的)とみなしてしまえば、あとはなにに対しても「それもまたアイドル的である」とアイドルであること=魅力的であることのスパイラルが勝手に加速していくという身勝手かつ無敵のモードに突入してしまう。
KOTOちゃんももしかしたらそうであるように、いわゆる「サブカル」と「アイドル」の間の不毛な綱引きに巻き込まれてしまうようなアイドルがひっきりなしに生まれ、多々活躍しているが、「サブカル」的な層に引っかかるポイントとしては、良質な・面白い・様々なジャンルの楽曲が提供されているという側面が強いと思われる。ここではある意味アイドルというフォーマットで、アイドルを使って音楽を「遊んで」いるといえるだろう。ここで思い出して欲しいのが2ndシングルの『愛を届けるお人形』だ。KOTOちゃんはこの「人形」という非常にありきたりなアイドルの古典的なイメージをしばしば利用し*5、世界観を作っているが、様々な楽曲でKOTOちゃんを「遊んで」みようとする楽しみ方もまた、実に人形的だ。
ただし、KOTOちゃんのステージを一目見ればわかるように、その人形は異形=「なんか、ヘン」なのだ。その違和感は、何度も繰り返し述べているように、圧倒的なダンススキルから生じている。人形というにはあまりにエネルギーに満ち溢れており、動きが機敏すぎる。さらにいえば、人間が人形であるためには、圧倒的に自律的であることが求められる。『ことりっぷ』の間奏で、KOTOちゃんがターンテーブルに乗せられた人形のように身体を微動だにせずゆっくりと一回転するという振付では、静止するスキルや、足の裏の筋肉だけを動かして身体を一回転するというテクニックが求められる。ダンスが上手いということは、自分の体の使い方を熟知しているということだ。KOTOちゃんはとにかく身体の使い方が上手い。自分の体をコントロールすることと、同時にはじけるエネルギーを少し遊ばせることのバランスが凄い。KOTOちゃんの暴れるツインテールとワンピースの裾はKOTOちゃんの動きになすがままになっているのか、それともそれすらもコントロールしているのか怖くなる。そんな心を見透かすように、ツインテールを掴んで回すという振付すら用意されている。そしてこの自律的/他律的という概念に紐づけて言うならば、他律的=人形的であることがアイドルのパブリックイメージであると同時に、そこからアイドル自身が開放されること=自律性を取り戻すこともまた近年のアイドルがアイドルたるパブリックイメージの王道なのだ。つまり、KOTOちゃんはアイドル/サブカルの対立あるいは両者が持つ共通のいやらしさをダンスという第三極の力によって解き放ち、しかしそれは結果的にアイドルというすべてを受け入れ飲み込む概念のもとに戻ってくるのだ。そう、これが「アイドル」に取りつかれた哀れなヲタクの言葉遊びだ。


単純に、ワンマンライブがめっちゃ楽しかった、ルックスも曲も踊りも大好きだ!!といえば済むだけの話について、わざわざカッコつきで「サブカル」「ダンス」というジャンルを持ちだしてあるいは捏造して「アイドル」の勝利を宣言する身勝手な文章を書き綴ってきたが、KOTOちゃんはそんなヲタクにちゃんと冷水を浴びせてくれる。それが第一部のラスト曲、『ロマモー』だ。KOTOちゃんが第一部のラスト曲ですと宣言し、そもそも2部制だったのかよと戸惑いを隠せないうちに、「みんなが知ってるカバー曲を歌いたいと思います、みんなにもっと沸いてほしいから頑張って練習してきたよ(うろ覚え)」とやや不安そうに話すなか、一体我々ヲタクの何割が(初恋サイダーだ・・・)と思ったことだろうか。しかし、始まったのはなんとロマモー。。土下座するヲタクたち。ウリャオイウリャオイヤヨーヤヨーの後に(これ言っていいのかな・・・)という雰囲気で声が小さくなるヲタクたち。むしろKOTOちゃんワンマンを見に来ているヲタクのうちいったい何人がロマモーで喜ぶと思ったのだろうか。しかし、KOTOちゃんにロマモーを歌わせた誰かを責めるよりも、今、なんとか盛り上がることが何よりも重要だ。今はKOTOちゃんを悲しませてはならぬ。こうしてヲタクはヲタクの間違ったレッテルを貼られ、第一部の終わりで燃やされて死んだ。もちろん第二部はサイコーだった。踊り狂った。難しいこと、余計なことは考えなくていい。ただKOTOちゃんの世界で楽しめばいい。でもやっぱり振り返ってこう思う。アイドルヲタクを気遣いながら殺すKOTOちゃんは最高のアイドルだ!これが愛だ!!!!!ああ悲しみのアイドル無敵論法スパイラル*6

*1:スパイラルミュージック。アイドルレーベル。東京地下アイドル現場における一大勢力。だと思う。

*2:スパイラルの「あの感じ」、察して欲しい。

*3:スパイラルミュージックのソロアイドル滝口成美(なるる)で安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sをやるために結成されたユニット。なるるの横に4人配置されたダンサーにKOTOちゃんが途中加入した。

*4: 佐々木希、Especia、ワンリルキス、寺嶋由芙などの作詞作曲編曲を手掛けるシンガーソングライター兼プロデューサー&DJでサワソニ創始者であるSAWA、らしい。(wikiより)

*5:楽曲自体はあんま人形関係ないじゃんControl-Sと全くいっしょじゃん!という感じですが。

*6:スパイラルミュージックだけにね!!!

いつかのMy Summer Time 2014/7/5〜6『大人の文化祭2014』&『「Sugar Party」Star☆T × Mibuki with tutu&Beat's 2manLIVE』

もう先週のことですが、Mibuki with tutu&Beat's(以下Mibuki〜)を見に、5日は長野市、6日は名古屋と、土曜の早朝から日曜の明け方までフルに使って東京から車でぐるっと回ってきました。7月5日はメンバーのMibukiの誕生日ということもあり、柄にもなくプレゼントを用意してみたりとライブ以外にも楽しみはたくさんあり、恐ろしく密度の濃い週末でしたが、もちろん肝心のステージはそれは素晴らしいものでした。

5日に2回、6日に2回と合計4回のステージがあり、特に6日の2マンライブは持ち時間が各70分ということもあり、2回目は彼女たちがリスペクトしているという東京女子流と8月23日に開催されるダイナソニックで初共演が決まった記念に東京女子流のカバー曲をフィーチャーするといった趣向を凝らしてみたりと、多彩なオリジナル曲・カバー曲を見ることができた2日間でした。

その4回のステージの中で、全ての回に同じ曲順で組み込まれていた2曲がありました。それは、すでに発売済みの3枚目のCD-R盤に収録されている『Exciting smart life』と、2ndワンマンで初披露され現時点では未収録の新曲『My Summer Time』です。

「ワクワクした近未来を描いたこの夏の新曲」と紹介される『Exciting smart life』。

さわやかで跳ねるような明るい曲調で、メインボーカルをMibukiとNanamiが務めています。メインボーカルの背後で、両翼のWakanaとMiyuが交互に前身・後退を繰り返しながら「Exciting Smart Life for you、Exciting Smart Life for me・・・」とサブメロディを重ねるのが特徴的で、ダンスとボーカルが上手く融合しながら、4人というメンバー数の魅せ方がとても上手いなと感じる曲です。

そして、『My Summer Time』。

ダボススノーパークという長野県上田のスキー場のイメージソングである『Precious White』や、『セピア色のRecollection』といった代表曲から、Mibuki〜はこれまで冬のイメージが非常に強いグループだったように思われます。激しい縦ノリの持ち曲は一つも持たず、雪の結晶のように繊細で軽やかで、時に情熱的に歌い踊る彼女たちの季語はいつでも冬。それは、自分が彼女たちと初めてであった季節だという個人的な事情も大きく影響しているかもしれません。
そんななかで、初めて「Summer」という季語が曲名に託された正真正銘の夏の新曲。やはり縦ノリで盛り上がる曲ではありませんでした。少し抑えめのBPMから始まる、涼しげで爽やかに流れるイントロ。Miyu・Nanami・Wakanaの中2組3人が担当する美しいコーラス。いつものキレのある動きをぐっとこらえた、ゆるやかにしなやかに揺れる振付。そして、Mibukiのメインボーカル。
それは、これまでの彼女たちの「冬」のイメージから、雪がゆっくりと溶け、高原の湖へゆっくりと流れこむような、瑞々しい「水」のイメージにあふれているように思われました。
6月15日に開催された2ndワンマン(上記動画)でこの曲が初披露されたときは、その幸せなメロディと空間に身を漂わせて、ぷかぷかと水に浮いているような気持ちで最高の気分に包まれていたことをよく覚えています。その時はほとんど歌詞に注意して聞いていたわけではないのですが、あらためて歌詞を見てみると、たしかに「水面」「夏の風」といった単語が出てくるのですが、湖ではなく海を歌った曲のようです。しかし、その後何度聞いても頭のなかに広がるのは高原の風と、それにゆれる湖の水面の波といった情景です。最近良く着ている白いワンピース風の衣装で、コーラスを担当する3人の優雅な踊りはまるでスワンのようですし、自分の中では勝手に高原の湖の曲として受け止めています。

満を持して登場した初の「夏曲」ですが、この2日間で合計4回披露された際には、ワンマンで初披露された時から大きな変更点がありました。それは、メインボーカルの9割以上をリーダーのMibukiが担当するようになった点です。初披露の際もメインはMibukiが担当していたのですが、変更後は終盤のCメロでWakanaが一部を担当する以外はすべてのパートをMibuki一人で歌っており、3人はコーラスとダンスに徹しています。
思えばグループ名からMibukiの名を冠し、中2組3人に対して一人だけ高校1年生であるリーダーのMibukiは明らかにグループで特別な存在です。しかし、少なくとも自分がMibuki〜を見るようになった4人時代以降は、Mibukiを明確にセンターに置いたり、(多少はありますが)明らかに優遇されたパート割りをあてることはありませんでした。その理由は深いところまではわかりませんが、歌やダンスに関して言えば、素人の自分が見る限りではMibukiが頭ひとつ抜けているということはなく、4人とも高いレベルでまとまっていることが理由なのかもしれません。
そのような状況で、この曲でついにMibukiを誰もが分かる形で中心に持ってきたこの曲は明らかに勝負曲であり、Mibukiにとっても、グループにとっても試される1曲となっていることは間違いないでしょう。現時点ではCD音源化もされていないようにまだまだ未完成での曲であり、披露されるごとに成長し、新たな魅力が生まれてくる過程にあります。Mibukiはパート割りを外されたメンバーの分の期待を背負いながら1曲の大部分を一人で歌いきらなければいけません。そして、Miyu・Nanami・Wakanaの3人は、決してMibukiのメインパートのオマケではなく、むしろこの曲に関してはコーラスのほうが重要なのではないかと思われるくらいに重要な部分を任されています。イントロからサビまで、とにかくコーラスの美しさがこの曲の美しさに直結する作りになっていますし、転調もあり、きっと難易度は高いことでしょう。3人のコーラスが曲全体の美しさとMibukiのメインパートを支え、Mibukiはそのプレッシャーの中で、3人に頼りつつも、Mibukiにしかできないことを一人でやり遂げなければいけない。それはあたかもグループの構造がこの1曲につまっているかのようです。

この夏、すでに毎週のようにイベントが告知されており、メンバーも夏休みということもありその回数はこれまでに比べれば明らかに多くなっています。その中でこのMy Summer Timeを何回聴くことができるのか、欲を言えば、自分がこの曲を聴くたびに想像する高原の野外ステージで聴くことができる機会があるのか、楽しみで仕方ありません。

自分がいままでアイドルを見てきた中で、こんなにも「このひと夏」を意識しているのは初めてかもしれません。振り返ってみれば、これまで自分は、このまま永遠につづくのではないかという錯覚に陥るようなアイドル現場を好んできたように思います。もちろん、心地良い空間が永遠につづくことは決してありません。むしろ、女性アイドルであれば、刹那的な輝きを楽しむというのがふつうであるようにも思いますが、なぜか自分はそこに楽しみを見出すことはほとんどありませんでした。しかし、Mibuki〜には今までになく「今みておかないとダメなんだ」という焦燥感を感じてしまいます。それは、彼女たちの絶妙な年齢構成と関係性にあるのかもしれませんし、自分の個人的な生活環境の影響なのかもしれません。

とにかく、2014年のこの夏こそが「My Summer Time」になることは間違いないのではないか、将来この曲を聴くたびに幸せな思い出としてこの夏を振り返ることができるのではないか、そんな希望を持ちながら、My Summer Timeを次に聴く事ができる機会と、CDの発売を心待ちにしている日々です。

2014/5/17 ご当地アイドルお取り寄せ図鑑 7☆マーメイド vs Mibuki with tutu&Beat's / アイドルを「見つける」ということ

お取り寄せ図鑑

ご当地アイドルお取り寄せ図鑑を見るのは第1章と合わせて今日で3回目。会場は新大久保・TOKYO STYLE→青山・Future SEVEN→秋葉原AKIBAカルチャーズ劇場と順調?にステップアップしている。
神奈川県平塚市の7☆マーメイドと長野県上田市のMibuki with tutu&Beat'sの対決であり、自分のお目当ては後者。
http://map.pigoo.jp/events/view/1043

「ご当地アイドルお取り寄せ図鑑」というのはなかなか刺激的なイベント名だ。各都道府県から「ご当地アイドル」を選抜し、トーナメント方式で競わせて勝負するというBS番組の公開収録だが、アイドルにまつわるトピックに少し(むしろ過剰に?)敏感な人であれば、「ご当地アイドル」「お取り寄せ」「勝負」というワードにひっかかりを覚えるかもしれない。ここ数年のアイドルブームの熱狂の中で、必ずしも良い影響ばかりが語られているわけではない。そのブームの影響により、東京(地理としての東京、巨大資本の集結地としての東京)だけではなく、各地方においても多くの「ご当地アイドル」が生まれ、そして消えていく。それを東京が「お取り寄せ=消費」するのか。その上、アイドルはなぜ戦わなければいけないのか。様々な観点から反発を呼びそうなタイトル・コンセプトである。


アイドルはしばしば「見つかる」という言い方をされることがある。一般的には有名ではないが、一部のファンからはその実力を認められ、あるいは愛されていたアイドルが、何かをきっかけにして一気に多くの人々の目に触れることを指すと思われる。最近ではRev. from DVLの「橋本環奈」の名前を出せばわかりやすいだろうか。もちろん、一般的には良い意味では使用されない。
前述の「一部のファン」がいわゆる古参ファンであれば、彼らはこう嘆くだろう。○○は「見つかって」しまった。これまで自分たちで心地よく楽しんでてきたのに、新参に一気に食い荒らされた。現場の雰囲気は変わり、物販のルールも変わり、かつての心地よさはきえてしまった。会う機会も少なくなってしまった、と。
この「一部のファン」がいわゆる地方アイドル/ご当地アイドルにおける「地元ファン」であれば、もっと複雑な思いが追加されるかもしれない。これまで地元のファンが支え、心地良く楽しんできたのに、一気に東京に食い荒らされた。アイドルは東京遠征ばかりして、地元でのライブの件数が極端に減った、と。地方と都心という大きな構造的な問題やそれに基づく心情的な問題から、何度も同じような話が繰り返されてきたのを横目で見てきた。


そこで、「ご当地アイドルお取り寄せ図鑑」である。
結論から言うと、イベント名が生みかねない違和感はあまり感じず、自分はこのイベントが気に入っている。おそらくそれは、このイベントにおいてアイドルを「見つける」ことの楽しみのバランスが個人的にとても合っていたからだと思う。それはどういうことだったのか、少し書いてみたい。

まず、この番組のレベル感について。たしかにご当地アイドルを東京に「お取り寄せ」してテレビ番組を収録しているのだが、この番組には「資本」の香りがまるでしない。テレビ番組と言っても地上波ではなくBS番組だし、優勝賞品は都道府県にちなんだ47万円(少ない!)と、副賞のアイドルのメンバーが考えたオリジナル衣装作成権。正直なところ、第一期で優勝した宮城県みちのく仙台ORI☆姫隊にしても、結果として今「見つかって」いるかというと、おそらく「見つかって」いないだろう。せいぜいこの公開収録を見に来る程度、あるいはBS放送にわざわざ月額料金を払って見る程度の、少しアンテナの感度が高いアイドルファンが楽しむだけで終わりである。かといって「地方」や「ご当地アイドル」を「搾取」しているというイメージでもない。この搾取感のなさをあまり上手く説明できないが、先ほど挙げたような典型的なアイドルが「見つかる」ことをめぐるいやらしさから少し外れた場所にある現場だ。

ただし、腐ってもテレビ収録である。複数のカメラがセットされ、ステージ下からはカンペが出て、なによりMCに野呂佳代がいる。
野呂佳代をたまに地上波で見るだけだとあまり気が付かないのだが、こういう場で彼女を見ると、やはり彼女は「テレビの人」なのだなぁと思う。決してMCが上手いとも思えないのだが、初めての収録で緊張しきっているアイドルには場の雰囲気をほぐしそのアイドルの良さを引き出そうとし、徐々に慣れてきたアイドルや、むしろ最初からこういう場でのアピールに慣れているアイドルには、彼女が普段テレビで見せるような態度で毒を吐きイジることで、違ったアプローチでアイドルの良さを引き出そうとする。こうやって言葉にすると大体アイドル現場のMC(主に芸人)のスタンダードなやり方なのだが、自身が通ってきた様々な経験からくるものなのか、野呂がどんな態度を取ろうとも、そこには彼女なりの「優しさ」が寄り添っているようにみえる。
この番組においては、地上波でいうところの「DT浜田さんに叩いてほしい」が「野呂さんにイジってほしい」になるバランスがなんともいえない味わい深さを出していると思う。お取り寄せ図鑑に出演するご当地アイドルが野呂をDT浜田のような目線で見ていても、逆に彼女を全く知らなくてもそれはそれでどちらも面白いのだ。


そして、野呂はMCとしてアイドルの良さを引き出す、つまり「見つけ」ようとする。最近のアイドルはみな自己プロデュース力が高く、「弄られポイント」もあらかじめ置いておくようなうまいやり方で持ってくるパターンが多いが、今回の7☆とMibuki〜は共にそのようなタイプでなく、なおかつ、その辺りの性格がまるで逆なところがとても面白かった。
7☆は出だしから緊張している様子が手に取るようにわかり、「純粋!かわいい!」と諸手を上げて叫んでしまいそうなある意味珍しいアイドルだというのが第一感で、野呂も赤子に接するように探りを入れていた。しかし、コーナーが進むにつれ、台本を常に読んでいるような「やらされてる感」が次第に彼女たち独特の演劇的な世界観に広がっていく面白さにMCの2人も我々も飲まれていくのが楽しく、最後の歌コーナーでも、その流れの集大成のような、カツラを被って小芝居を織り込んでくる曲を披露して、我々は彼女たちを「発見」するというより、気づいたら彼女たちのテリトリーの中にいたのだった。

一方、Mibuki〜も出だしから明らかに緊張しており、それを勢いでごまかそうとするのが個人的には愛おしかったが、野呂としても叩いてイジるべきか優しくもっていくべきか明らかに困惑していたようだった。次から次へと繰り出される突っ込みづらい小ネタにも野呂が全て「コメントすることがない」という言葉ひとつで返すことで笑いを誘うという流れになり、トークコーナーでMibuki〜の魅力は残念ながらあまり「発見」されなかっただろう。しかし、それがすべて前フリだったかのように、最後の歌コーナーでMibuki〜は別人のように引き締まった顔で登場し、しなやかに激しく踊り、歌い上げて、彼女たちの見せたい魅力がどこにあるのかを完全に我々に植え付けて去っていった。
セットリストを見ても、定番の『Precious White』や『セピア色のRecollection』をあえて外し、『Moonlight Temptation』『Daring days』『Rising sun』という曲調の異なる3曲を、おそらく初の試みとなるショートバージョンを取り入れることで持ち時間内に並べ、「魅せること」をとにかく意識していたことが伺えた。




アイドルを楽しむことが究極的には人間同士のコミュケーションあるいは情報を摂取する行為に還元されるとしても、そのコミュニケーションや情報伝達の在り方は、地理的・資金的・メディア環境的・社会構造な条件や、イベント主催者・アイドル運営、そしてアイドル本人のポテンシャルといった様々な要素の影響を受け、そして巡りあいがある。巡りあいとは、多かれ少なかれ何かを「発見すること・見つけること」にほかならない。特にアイドルについては、個人的には出会いのきっかけつまり「見つけ方」に、そのアイドルに対する評価が大きく違ってくると感じている。人間の良さを「発見」するという行為への恐れ多さと、それでもより深く相手のことを知りたい、それを超えて勝手に解釈したいという欲望のせめぎあいがアイドルの楽しみ方にはついてまわる。
今回の2組は、彼女たちが自分のことを知ってほしいと思うことと、我々が彼女たちのことを知りたいと思う気持ちが、お互いとてもぎこちないながらも最後には大事なものが伝わった、どこか中学生の恋愛のような、ぐっとくる良さがあった。ファンがアイドルを値踏みし解釈する一方、アイドルはその視線を理解し周到に自己を演出するという闘争が当たり前の世界から少し離れた、心地よい現場であったと感じた。

Mibuki with tutu&Beat's

ここで終わればなんとなく何かを言ったようで「ほっこり楽しかった」以外に大して何も主張していないエントリとしてまとまっていなくもないのですが、それでは言い足りないので言いたいをことを書くことにします。Mibuki with tutu&Beat'sです。

Mibuki〜を一番最初に知ったのは、昨年末〜今年のはじめに『Precios White』という曲の動画を見たのがきっかけでした。妙なクオリティの高さに一発で興味を持ち、2013-2014冬シーズンは「雪の降る野外イベントでアイドルを見る」というよくわからない目標を立てていたこともあり、長野まで見に行く機会を淡々と狙っていました。2月に狙っていた長野市でのイベントは大雪のためになんと長野新幹線が止まるという事態で願いはかなわず、ようやく生で見ることができたのが、3月に急遽決定した名古屋(!)でのワンマンライブ。当時未音源化の数々のオリジナル曲に加え、東京女子流Dream5Folder5といったavexサウンドのカバーを畳み掛け、合計5時間を超えるボリュームの前にただただ圧倒されて一気に虜になったのをよく覚えています。それから何度か長野にも足を運び、東京初遠征ライブにも参加し、今回のお取り寄せ図鑑がMibuki〜にとっても2回目の東京遠征でした。

Mibuki〜の良さは上にも書いたようにまずはそのステージ力や楽曲の良さにあり、「東京女子流トリビュートとして〜」という枕詞とともに最近言及されはじめているので、自分に音楽的な素養があまりないこともあり「凄い」「良い」以外にあまり語彙がないので、その点については他所に譲ることにします。自分がなにより今回のお取り寄せ図鑑で感じたのは、Mibuki〜の面白さに関する魅力です。

まず、Mibuki〜がお取り寄せ図鑑に呼ばれた時点で面白かったです。というのも、これまでMibuki〜は上田市にある菅平高原の奥ダボススノーパークというスキー場のPRソングを歌ってはいたものの、とあるイベントで長野県のアイドルが集合したことを振り返ってメンバーのMibukiが「私達別に「ご当地アイドル」じゃなくて「上田出身」ってだけだしね笑」と妙な自意識を披露してみたり、お取り寄せ図鑑以外のとあるバトル系イベントについても「別に勝ち負けとかじゃなくて、私達の良さを知ってもらいたいよねー笑」と口では言うものの明らかに勝負を意識しており、お取り寄せ図鑑前日でもブログで不安を吐露したり、サイゼリヤでカツを食べたりしていてとても可愛いです*1

そもそもMibuki〜は野呂も「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に言及しいてたように、リーダーのMibukiがかなり前面に押し出される形でMiyu・Nanami・Wakanaの3人とともにユニットを結成しています。年齢もMibukiだけ高1で他の3人が中学2年生ということもあり、Mibukiが3人を従えているようで、実は3人の方がある意味大人で、実力面でも申し分なく、3人がMibukiを支えているような構図がとても気に入っています。
お取り寄せ図鑑では年齢を言わなかったためこの構図があまり意識されなかったので、野呂もMibuki〜について突っ込みどころを探すのが難しかったと思いますが、終盤のコーナーでMibukiが発表している内容に楯突く発言をしたWakanaをMibukiが睨みつけているのを野呂が気付き、「Mibuki」と「with(3人)」の不仲を煽るような方向に持っていったのはさすがだなと思いました。
しかし、他にも野呂が気が付かなかったMibuki〜の面白さの魅力は収録中にもたくさんあって、それを「見つける」のは、野呂が気づいていない事も含めて、正直とても楽しかったです。
リーダーのMibukiはとても野心的で、様々なことに意識が高く、事あるごとに年下メンバーを気にかけ指示を出しています。それがいやらしくならないのは、彼女持ち前の愛おしさと、指示を受ける年下メンバーの寛容かつ従順という態度(あるいはWakanaの自由な態度)と、その野心や意識の高さが結果的にステージ上のパフォーマンスに結びついている点にあると思います。特に最後の点が大事で、アイドルにはなかなか珍しいことです。
収録中にもリーダーのMibukiは7☆マーメイドがコーナーでポイントを稼ぐたびに少し笑っては悔しそうな顔を隠そうとしなかったし、MCの南波氏に「マイクを口元においておくとすぐに反応できるよ」という真面目なアドバイスに対してすぐ実践し年下メンバーにもそれを徹底するようカメラに拾われないように囁き、7☆のコーナー中なので椅子に座っているだけで発言する機会がないはずの場面で常に口元にマイクを置いていてとてもかわいらしかったです。そして途中であきらめて膝においてました(Wakanaは最初から従わず膝においてました)。
そう考えると、アイドルの自己紹介フレーズによる「キャラ付け」というのはほとんど形骸化してそれほんとに意味があるのだろうかと疑問で聞き流してばかりですが、リーダーのMibukiの「歌もダンスも全力少女 リーダーなのに一番甘えん坊なクイーン」というのはなかなか良く説明できているなぁといまさら頷いています。

7☆マーメイドについては、彼女たちの良さがすっと入ってきてとても楽しかったけれども、Mibuki〜に関しては、本人があえて出そうとしていないところをある意味目ざとく「発見」した気になって喜ぶ意地の悪い楽しみ方や、前半部で溜まっていたはずのフラストレーションが最後のステージパフォーマンスで反転して全部いいものに繋げられてよかったなとMibukiの気持ちを勝手に想像する楽しみ方ができてよかったです。先ほど書いた中学生の恋愛のようなコミュニケーションと性格の悪い値踏みの間で揺れ動く、あるいは両立できてしまうのもアイドルの楽しさの一つということでしょうか。


アイドルを「見つける」様々な楽しみについて、未だに自分の中でよく整理できていませんが、時には後ろめたさを抱きながらも、まだまだやめられそうにありません。結局のところ、自分が見つけているようで相手に引き込まれている。その勝手な綱引きの波に身を漂わせるしかないのでしょう。


おまけ 元ネタを「見つける」ことについて

自分は音楽的な素養があまりないので、アイドルの曲を聞いても、ジャンルや、これは○○の系譜だとか、××のオマージュだとかいうことはほとんどわからないのですが、そのような流れ自体には興味はあります。
Mibuki〜は衣装やコンセプトなど全体のイメージから東京女子流の系譜だと言われることがあり、その理解はおそらく間違ってはいないのでしょうが、曲に関しては松井寛率いる女子流サウンドやその裏にあるディスコ・ファンクの系譜に直結しているわけではなさそうです。

たとえばMubuki〜の代表曲である『セピア色のRecollection』や、ボカロ音楽が原曲です。


自分はボカロ音楽を普段殆ど聞かないのでボカロとアイドルの接点についてもあまり詳しくないのですが(他にもボカロ曲を歌うアイドルがいるのを知っている程度です)、Mubuki〜のオリジナルとして編曲し直して生まれ変わったこの曲は、特にサビの部分で二人ずつパートを入れ替えながら歌いお互いがお互いを上へと引っ張っていくかのように曲の終盤に突入していくイメージがMibuki〜のイメージにぴったりで大好きです。原曲のきらめく雪模様を感じさせるイメージを残しながら、しっかりMibuki〜のオリジナルとして成立しています。

また、お取り寄せ図鑑の一曲でも、観客を引き込むための勝負として歌われた『Moonlight Temptation』ですが、こちらもボカロの原曲があります。


D

原曲では中盤にサックスなど各楽器のソロパートがあり、その点が高い評価を得ているようですが、この部分はボカロの声は乗っていません。しかし、Mibuki〜用に編曲されたバージョンでは、同じメロディをメンバーが歌ってからサックス、というパートになっています。WakanaとMibukiはもともとボカロでさえ歌われていなかったサックスのソロ部分を歌うわけで、音の動き方や高低といった点で人間には元々少々無理があるのではないかと思ってしまうようなパートですが、今回のお取り寄せ図鑑では以前より格段にこのパートが上手くなっていて、とても感動しました。


自分のような素人でも少し検索すればボカロの原曲が出てきて、違いを聞き比べられるという楽しみ方は今までにあまりない経験で、こういう「見つけ方」もあるのだなと不思議な気分になっています。
MibukiそしてMibuki with tutu&Beat'sの見てていて気持ちのよい上昇志向と、そこから生まれる面白さや可愛らしさそしてかっこよさにすっかり夢中です。

「香月孝史『「アイドル」の読み方』」の読み方

アイドルを語る楽しみは人それぞれ自由だが、それをしっかりと「論じる」ようと思うと、とたんにいくつもの困難が待ち受けている。アイドルを語りたいという欲望は、多かれ少なかれ(特定の)アイドルが「好き」だという思いから出発していることが多いが、その「好き」だという思いを表現することと、アイドルを「論じる」ことには多くの場合齟齬が生じてしまう。何かを「論じる」からには、その語りには最低限の客観性や論理性、説得力が備わっていなければならないが、アイドルが「好き」という情熱はそれらの客観性や論理性で説明のつくものではないし、論の切り口(方法論)や、なにより論ずべき対象となっている「アイドル」という存在そのものの輪郭自体があやふやであるという、「アイドル論」が抱える致命的な問題が大きく立ちはだかっている。
また、語りの欲望にアイドルに対する「好き」だという思いがない場合ももちろんあり、それはそれで全く問題はないのだが、アイドル好きな読者からすると「アイドルへのリスペクト・愛がない」、あるいは端的に面白くないという評価を受けがちである。

そうしたいくつかのレベルの異なる困難に対して真っ向からぶつかるべく名乗りを上げたのが、2014年3月に刊行された、香月孝史・著『「アイドル」の読み方』である。副題に「混乱する「語り」を問う」とあるように、また、本文の「はじめに」を引用してみれば、本書の意図は明確である。

(略)この「アイドル」という言葉の意味をここできちんと解きほぐしておきたい。「アイドルとは何か」を決めるのが目的ではない。「アイドル」という、わかりやすそうでわかりにくい言葉について、そのわかりにくさの理由をきちんと整理しておきたいのだ。こうした整理があってこそ、アイドルを語ること、またアイドルの何が楽しまれているのかを捉えることもより容易になるのではないだろうか。これはまた、アイドルをめぐる議論が齟齬を来したまま溝を深くしてしまう状況を回避し、互いの主張を理解しながら生産的な議論の積み重ねができる土壌を用意することにもなるだろう。本書がそのきっかけになればいいと思う。*1

こうした明確な意図のもとで、本書は以下のように議論が展開される。
1章ではまず「アイドル」という言葉そのものについて、その言葉が有している意味合いを、1:偶像崇拝としてのアイドル、2:「魅力」が「実力」に勝るものとしてのアイドル、3:ジャンルとしてのアイドル、という3種類に分類しつつ、1のジャンルとしてのアイドル(←→2・3:存在としてのアイドル)にフォーカスを絞ることが宣言される。2章では「アイドルらしさ」というイメージについて議論が展開され、今日的な「アイドルらしさ」のステレオタイプが醸成されてきた歴史を追うことで、アイドルというジャンルについて「自主性の欠如」がイメージ付けされていることを示し、そこから反転して現代のアイドル及びアイドルを享受する営みの特徴が「アイドルの自意識の発露(の享受)」にあり、現代のアイドルたちがステレオタイプたる「アイドルらしさ」を乗りこなしていることを指摘する。3章ではそれらの特徴を「音楽」という観点から着目し、議論を補強する。
4章では、ここまでの章で整理した前提をもとに、自意識の発露を全人格的に享受できる/されてしまう、というアイドルの有り様をインターネットやSNSなどの情報技術の発展が支えていることを指摘しつつ、それらの情報環境のもとで行われるファンとアイドルの間のコミュニケーションの往来の特徴を「まだいろいろなものが未分の状態におかれている」という意味を持つ「饗宴」という歌舞伎*2評論での用語を用いつつ解きほぐし、虚/実といった二項対立では切り分けられないアイドルの「饗宴的」な性格が生み出す楽しさを示すとともに、同時に垣間見える危うさについても指摘する。
そして最後の5章ではこれまでの議論を総括するとともに、饗宴的な性格を持つアイドルという存在を「場」として捉え直している。

本書の特徴をいくつか指摘してみたい。
まず挙げるべきは、とにかく議論が丁寧である点だ。本書の目的が「アイドルの議論を解きほぐす」ことである以上、本書での議論が丁寧であることは絶対条件となる。「アイドル論」自体の弱みである、その蓄積が圧倒的に足りず空中戦になってしまいがちであることについて痛いほど自覚しているであろう香月は、多種多様な一次資料を引用する。それはあたかも学術論文のようである一方で、引用される資料自体がアイドルのインタビューであったりポップな雑誌の記事であったりするために読みやすく、トピックもアイドルにある程度の関心のある者であればニヤリとさせられるものばかりである。特に1章から3章までは、アイドルの歴史を丁寧に紐解き、香月の個人的な「思い」や「情熱」が議論を空疎なものにしないように慎重な手さばきで解体作業を進めていく。
その特徴がもっともよく現れている点の一つが、「アイドルらしからぬ」をめぐる議論である。音楽雑誌の編集長や音楽ライターがももいろクローバーZでんぱ組.incといった人気のアイドルについて、(既存のアイドルと違って)自主性を持っている点で卓越性があると浮ついた言葉で語ることについて、香月は自身の言葉で断罪を行ったり、矛盾を指摘することはしない。それが水掛け論や空中戦になってしまうリスクの考慮の上であろう。香月は、そこで称揚されているでんぱ組.incのメンバーである夢眠ねむ自身がその卓越性を相対化する発言を行っているインタビューの引用を対置することで、「語りの混乱」が自壊するように操作する。ともすればいやらしさすら感じる徹底っぷりである。
また、香月は問題となる議論を解きほぐす際に、決してそれらの議論を単純化することで解決を行おうとはしない。これはある種の読みにくさにもつながってしまうのだが、例えばテレビの時代とネットの時代のアイドルの在り方について、

(略)テレビメディアによって「選ばれる」”必要”はなく、自らアイドルになることを「選びとる」ことが”可能”なのは、こうした「現場」の性質による*3

と述べるように、単純にテレビとネットを二項対立として捉えるのではなく、「必要」「可能」といった言葉が慎重に選択されている。もちろん、アイドルの虚/実など様々な要素が二項対立で切り分けられないことについてはなんども本書の中で述べられている通りである。他にも、「アイドルらしさ」のステレオタイプという“基準”を示した後に、「アイドルらしくなさ」を競う差異化闘争が現代のアイドルの特徴であると簡単にまとめてしまうのではなく、差異化の出発点であった「アイドルらしさ」を自らのものとして乗りこなしてしまう可能性を持っている、という論の運びは、饗宴としてのアイドルの特徴の良し悪しを指摘した後にその悪い面すらも乗りこなす可能性を秘めるという論の運びに通じる部分があるが、丁寧であるゆえに非常に難解な部分であろう。


香月の「丁寧であるゆえにわかりにくい」という特徴について参考になるのが、本書の刊行記念トークイベント*4が4月2日に行われた際に、香月の対談相手となった評論家・宇野常寛の投げかけだろう。
宇野は香月に対し、「香月は優しすぎる。香月はなぜアイドルを特権視するのか。アイドルとファンの関係性は、単なる社会関係であり、他の商行為や家族・友人間の関係性と特段変わるものではない」と挑発的な議論を設定する。宇野はこの手の問題設定方法(二項対立で”敵”を作る方法)に非常に長けているという印象があり、今回もトークショーというイベントの性質を考慮したのだろう、宇野イズムを上手に押し出していた。宇野はアイドルを機能に分解して語り、社会関係の一つとして大きくそのシステムを捉え直す。「身近な人々とのコミュニケーションが最もコンテンツ力に長けている」「ステージでのライブもコミュニケーションのネタに過ぎない」と迷いなく語る宇野のロジックは非常に強力だ。
この問いかけに対して、香月は多くのアイドルが未成年で義務教育過程にあることなどを挙げて回答していたが、宇野の強力なロジックを揺らがせるまでには至らなかった。しかし、「香月がなぜアイドルを特権視するのか」という宇野の問いかけは本書にとって極めてクリティカルであったと考える。香月がトークショーでこの点についてクリアに回答できなかったのは、香月が実力不足であったというよりも、そもそも答えることが不能な、そこより上に遡ることが不可能な問いであったのではないだろうか。
そのヒントは、第5章に隠されている。本書の目的は、何度も言うように、混乱するアイドルに関する議論を解きほぐすことである。そうすると、第5章で書かれている「恋愛禁止」や「疑似恋愛」について、本来であれば本書で踏み込む必要はないはずである。そのことについてはもちろん香月自身も自覚的であり、アイドルと恋愛に関する議論は以下に引用する文章によって始まっている。

本書の主眼は、このような社会一般のイメージと実態とをめぐる議論にあったので、ここまでの考察と指摘で論考をまとめることも可能かもしれない。しかし、旧来のイメージにまつわる考察をしながら、「アイドル」というジャンルが未だに理不尽なステレオタイプから自由ではなく、強く拘束されているように見える部分が存在することが引っかかっていた。その点について、ここまで本書はふれてこなかった。あるいはその点に踏み込むと、ここまでの考察についてのさしあたりの完結が遠のいてしまい、ジャンルとしての「アイドル」が内包する歪さを持て余すことになるかもしれない。とはいえ、それはアイドルが語られる上での古典的かつ論争的な一大トピックであり、それに向き合わなければ重大な積み残しをしてしまうことにもなるだろう。論の終盤にあたり、ここではそのことについて考えておきたい。すなわち、アイドルと恋愛に関する問題である。*5

なぜ香月はアイドルと恋愛について語らねばならなかったのか。一言で言えば、それは香月の「アイドルというジャンルへの愛」故に、であろう。香月も危惧するように、本書でアイドルと恋愛の問題について踏み込むことは本書にとってのリスク・弱みになってしまう可能性があった。アイドルと恋愛に関する議論の中身はここでは触れず、ぜひ本書を手にとって確認していただきたいが、もちろんその議論の中身自体が論理を捨て情念に基づく言葉で紡がれているということでは決してない。議論は本書の流れに沿うものであり、「余談」でありつつもしっかりと一冊の議論の重要なパーツとして納まっている。だが、そのようなリスクを取ってでも、アイドルと恋愛の問題がアイドルというジャンルを脅かす危惧を孕んでおり、それを特別に取り上げて何かしらの見通しを立てなければならぬと香月が強く感じていたから*6こそ、ここで「余談」とも言える議論が挿入されたのだろう。
そして、「アイドルというジャンルへの愛」は、宇野の問いかけへの回答としても同様に妥当するものである。アイドルを特権視しているようにみえる香月の態度は、アイドルをめぐる現象をどこまで機能に還元して記述・考察すべきかという問題についてのある種「矜持」のようなものであり、その還元のレベルが宇野と香月の差として現れていたのかもしれない*7



というように、「『アイドルの読み方』の読み方」として、今回はやや過剰に本書を「アイドル論的」ではなく「アイドル的」に読んでみたのが、今回のエントリの内容である。本書では、アイドルを論じる際に底にある「アイドルが好き」という思いが、「アイドルというジャンルへの愛」として、議論の中身そのものではなく「アイドルと恋愛」についての議論に触れてしまった、触れざるを得なかった点をもって現れているのだ。

もちろん、このような読み方が「正しい」わけではなく、もっといろいろな解釈が可能であるし、あるいは変に深読みせず議論を丁寧に追うことで非常に多くの示唆が得られる素晴らしい一冊であると思う。本書が私のようなアイドル好きの人間だけではなく、さまざまなバックグラウンドや考え方をもった人々の手に届き、「饗宴」の場となることを願っている。


アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.5
アイドル領域Vol.4*8

*1:9-10ページ。

*2:香月は歌舞伎研究者である

*3:137ページ。ダブルクォーテーションは引用者による

*4:宇野常寛×香月孝史「アイドル的想像力をアップデートする!」http://www.seikyusha.co.jp/wp/news/event20140402.html

*5:184-185ページ。

*6:トークショーの中で、宇野がアイドルというジャンルの存続について楽観的であり、AKBに関する恋愛禁止の問題については「恋愛禁止条例なんてなくなればいい」と簡単に切って捨ててみせたのとは大きな違いが見えた

*7:というのも、宇野と香月はアイドルをめぐる様々な事象について、基本的な考えの方向性はおおよそ一致しているように見える

*8:本書の参考として、香月が寄稿しているアイドル評論誌『アイドル領域』を紹介する。vol.4では「アイドルらしさ」と「アイドルらしからぬ」の問題について書かれた論考「アイドルらしさという幻想-拡散する"アイドルらしからぬ"言説」が、vol.5ではアイドルの自意識の発露が全人格的に享受されることが孕む問題について書かれた論考「アイドルの双方向性コミュニケーションに眠る暴力-舞台『クレイジーハニー』が描く極端な悪意と負の可能性-」が掲載されている。vol.6が最新号。

しもんchuまりちゃん・ゆいにゃん卒業スペシャル公演 3月9日@コンドー楽器 /しもんchuとの2年間の日々

2014年3月9日に下妻のご当地アイドルしもんchuからまりちゃん(山田麻里子)とゆいにゃん(大里唯)が卒業しました。
ふたりともしもんchuの初期メンバーであり、2年半に渡ってしもんchuで活動を続けてきた、しもんchuの核というべき存在です。
まりちゃんは次のステージに進むため、ゆいにゃんは歯科衛生士の国家試験合格のため学業を優先ということで、涙と笑顔の卒業式でした。

まりちゃん

まりちゃんはしもんchuで一番のアイドルでした。いつも笑顔でキラキラしていて、ブログは基本毎日更新、イベントもほとんど休まなかったし、レッスンもほとんど皆勤賞だったそうです。しもんchuに固定された「センター」は存在しませず、「型」のなさがしもんchuらしさですが、じゃああえて誰がセンターなの言われればそれはまりちゃん以外に考えられないでしょう。歌も踊りも上手ということもあるけれど、他のメンバーが(使い古された言葉ですが)「アイドルらしくなさ」のギャップに魅力を見せていく中で、まりちゃんだけはどこまでもまっすぐにそしてマイペースに、アイドルでした。

デビューシングル(にして現在唯一のシングルですが)の2曲目として収録されている「pair pear nothing」では、中盤のセリフパートを任され、中央のまりちゃんにむかって他のメンバーが振付としてケチャを捧げ、もちろんファンもそれに追随するなか、
「冷たく冷えた、下妻の、あまい、あまーい梨を、二人でよく、食べましたね」
と甘く語りだすまりちゃん。
「私が梨を剥いてあげて、切ってあげて、楊枝を刺して、アーンして食べさせてあげた時、楊枝が口に刺さっちゃったっけ♪」
と、最後は崩すのがお約束ですが、このパートを任せられるのはいつも恥ずかしがらずにやりきれるまりちゃんしかいません。

アイドルキャラ付け闘争の中で、「アイドルらしくなさ」がスタンダードになっていくなか、「アイドルらしい」と呼ばれるアイドルは、自身の中に一定のアイドル像を強く持ち、それを自ら実践していこうという意志や自己プロデュース能力を感じさせることが多いです。しかりまりちゃんの「アイドルらしさは」は(こういったものをすべて「アイドルらしさ」という言葉で括ることの是非はさておき)、またそれとは少し違った形で僕たちの前に現れていたように思います。

まりちゃんの「アイドルらしさ」がよく現れていたのは、アイドルマスターのカバー曲でした。以前からルックスがアイドルマスターの(一応)メインヒロインである天海春香と似ているなと思っていたのですが、しもんchuが「READY!!」のカバーを持ち歌にしてからというものの、そのセンターで踊り歌うまりちゃんがにあまりにも天海春香と重なって見えて衝撃的でした。
まりちゃんの「アイドルらしさ」ならぬ「アイドルマスターらしさ」は、もちろんルックスだけでなく、特にダンスにおいてそれは現れていました。あまりダンスの技術的なことはよくわかりませんが、普段からステップを踏むときに膝の関節のあたりの動きがまりちゃんはとても特徴的で、アイドルマスターのキャラクターが3Dのモデリングで動き踊るときのまだどことなく生じる違和感が、なぜか現実の人間が踊っているところに現れてくる面白さがありました。アイドルを「模した」アイドルマスターを更に「模して」いるように見えてしまうねじれや、アニメやゲームのエフェクトがかかっているのではないかと思ってしまうようなまりちゃんのキラキラ感。そんなことを考えてしまう、まりちゃんの歌うアイドルマスター曲が大好きでした。

「アイドルらしさ」という言葉によって想起される80年代ソロアイドル的なイメージは、さきほどのアイドルマスター的な「ずれ」と同じように、まりちゃんの上にまた少しひねった形で現れていたように思います。

ステージでも物販でもいつでもドタバタなしもんchuの中で、唯一のしっかりものであるまりちゃん。しかし、まりちゃんはしもんchuをまとめようとは決してしませんでした。もちろんこれはいい意味で、です。卒業の手紙でゆいにゃんがしおりんにむけて、喧嘩ばかりしていた、意見が合わないことも多く気まずい時期も長かったと告白したように、しもんchuの掛け合いの中ではしおりんとゆいにゃんの関係性が非常にスリリングで、さらにそこに2期生のさおりーな・みっちゅの二人がそれぞれ違った形で暴走していた時期はそれはもうてんやわんやでした。結局きんぐが天性の「結局美味しくまとまっている力」を発揮してなんとかなっていたものの、そんなときでもいつもまりちゃんは常に我関せずといった雰囲気でケラケラと笑っている、あるいはきんぐに対して勝手にツボに入って一人でケラケラと笑っているばかりでした。
グループアイドルの中で、しもんchuという力学の中で、まりちゃんの位置はなんとも形容しがたいものでした。ハイスクール・ララバイのカバーでは両脇にきんぐとゆいにゃんを従え二人が殴りあっている横で真ん中にニコニコして立っている「フツオ」はもちろんまりちゃんです。本当かどうかはわかりませんが、こんな時代にもかかわらずLINEもやっていないからメンバーのLINEグループにも入っていない、でも大丈夫と言って笑っていたこともありました。必要以上にベタベタしない、安易な例えですが、クラスの高嶺の花のような存在です。しもんchuのなかでどこかソロアイドルのような雰囲気。卒業式では、仲良しグループじゃない、そんなメンバーだからこそ信頼できたと語っていたのも、実にまりちゃんらしさを感じさせる言葉でした。もちろん、逆にメンバーからまりちゃんの信頼は疑いの余地はないものだったでしょう。

いつでもニコニコしているまりちゃんですが、物販ではふとした瞬間にふっと遠くへ行ってしまうことがよくありました。少し離れた位置から、今にもここではないどこかへ旅立ってしまいそうな、儚い表情のまりちゃんを見るのが大好きでした。



そんなどこかミステリアスなまりちゃんは、1月の1ヶ月の休養期間を経て、4月からは「次のステージに進むため」に卒業を決めたといいます。まりちゃんの悩みは決心はぼくたちにはわかりませんが、あの儚い表情で見つめていた、ここではないどこかへ向かってまりちゃんは進んでいくのでしょうか。
その笑顔で周りの人々をいつも笑顔にしてくれる。そういう意味での「アイドルらしさ」に関しては、これからも間違いなくまりちゃんはアイドルで在り続けるのでしょう。

ゆいにゃん

まりちゃんを仮にしもんchuのセンターとするならば、ゆいにゃんはしもんchuの精神的支柱とでも言うべき存在です。初代リーダーのひぃちゃん(桜井仁美)が2012年8月に卒業してから、しもんchuはずっとリーダー不在でした。全員いつもてんでバラバラで、ゆいにゃん自身もメンバーと喧嘩ばかりしていたそうです。
ゆいにゃんはしもんchuの末っ子で、最初に出会った頃は周りのメンバーが社会人の中、一人だけ高校3年生でした。しかし、年上のメンバーが引っ張っていくのではなく、しもんchuは末っ子のゆいにゃんが噛み付くことでドタバタしながらも前に進んでいきました。
「仲良しごっこでは意味が無い。しもんchuとしてやっていくために、何でも意見して喧嘩した。」卒業式でゆいにゃんはそう語りました。
ゆいにゃんはいつでも損な役回りばかり背負ってきたように思います。年下メンバーだけれども、前述のように年上に甘えることなく噛み付き役でグループを引っ張っていき、後輩が入ったらそちらの面倒まで見なくてはいけない羽目になっている。どんなにがんばってもまとまりきらないMCを回すのもゆいにゃんの役割だし、MCで頑張っても結局オチは意図せずきんぐが持って行ってしまうし、大舞台では度胸のあるしおりんが強い。「田舎娘」や「ヤンキー」といったわかりやすい記号をヲタクが当てはめてからかうのを真に受けて、MCでは必要以上に訛ってヤンキーぶっていたように思います。特にスカパーの番組である「ご当地アイドルお取り寄せ図鑑」にでたあとは、司会の野呂佳代の影響を受けているとしか思えないような不思議な素振りを見せていました。明らかにいろいろ考えてやっているのになんだかうまくいかない、そんなところが可愛いです。周りが見える子だし、野外イベントでメンバーが物販時間に遊びだしてからも、小さい子がサインを貰いに来ているのに気づいて対応するのはゆいにゃんです。
ヲタクは基本的にアイドルとのコミュニケーションが苦手なので(断言)、アイドルを無理に「イジろう」とします。そういうときにだいたい餌食になるのが、わかりやすくゆいにゃんなのです。そしてゆいにゃんも頭がいいのでそれをわかっていて「お約束」として受け取ろうとしてくれます。きっといろいろな心ない言葉を投げかけられてきたことでしょう。自分も反省していますし、もっと素直に可愛がってあげればよかったと思っています。そういうことを思った頃には、ゆいにゃんは歯科衛生士の専門学校の課程が忙しく、しもんchuのイベントに次第に来れなくなってしまい、ここ数ヶ月はずっと卒業のタイミングを伺っているような状態になってしまいました。

ゆいにゃんはとても器用です。とてもまじめに勉強しているとも聞いています。ダンスも歌も器用にこなしてしまうし、ゆいにゃんとまりちゃんにとって最後の曲となった「Go to the YaTaBe Arena」ではしもんchuのmotsuとでも言うべきラップパートを任されています。
しもんchuには未発表曲が数多くありますが、せめてこの歌だけは音源化して欲しい、ゆいにゃんがしもんchuに残した爪痕を形にしてほしいと切に願っています。

自分が勝手に想像するだけでも辛いことがたくさんあったのに違いないのに、一見お気楽にやっているように見えるのは、その裏にもっと見えない努力や根性がないとできないことです。ゆいにゃんは歯科衛生士への道を「夢である」と何度も言ってくれて、前向き卒業であることを強調してくれます。たとえ実際はどうであれ、ゆいにゃんがそれを「夢である」と言ってくれるのならば、我々はそれに向かって「応援する」ことができるのです。頑張っている人にもっと頑張れというべきなのか、頑張らなくてもいいよと言ってあげるべきなのか、私にはわかりません。ただのヲタクに何ができるのかを考え出したら終わりですが、もっとゆいにゃんを甘やかしてあげたかった。最後までゆいにゃんをダシにしてまりちゃんと話していた自分にはあまりに無責任な言葉ですが、まだ若いゆいにゃんの素敵な未来をただ願うだけです。

しもんchuとの出会い

自分がはじめてしもんchuを見たのは、2012年の3月でした。4月から愛媛に転勤する予定だった友人と最後に旅行をしようという名目で、手頃に行けそうな関東周辺の中から彼が好きだという「がきんちょ」のロケ地巡りという理由を適当につけて茨城県常陸大子を目指すことにして、せっかくなのでご当地アイドルを見に行こう!という話になり(転勤する友人も、もう一人の友人も皆アイドルヲタ仲間だったので。転勤先はJewelの北海道がいいかひめキュンの愛媛がいいかなどというくだらない話で盛り上がっていました)、前日の夜に3人でまた別の友人の家に転がり込んで行き当たりばったりの作戦会議をしていたのをよく覚えています。
いまでこそ茨城県には下妻・水戸・鹿嶋・土浦と4つのご当地アイドルグループが存在しそこそこのペースで活動していますが、当時はまだ「茨城のご当地アイドル」というと、「TIF2011に出演していて、メンバーが若いことでちょっと話題の『麦わら☆娘』がいるらしい」という程度の認識で、その麦わら☆娘も2012年3月の時点では活動している形跡がなく、こまったな、でもまぁたまにはアイドル抜きの旅行でもいいよね、と話していたところで、どうやらネットで調べると『しもんchu』という謎のグループが居るらしいとわかり、なんと都合よく旅行の日に定期公演をやっているということがわかりました。

当時の僕たちというと、2010年末からメジャーアイドルから地下アイドルに流れてきたものの、地下で1年過ごしてきていよいよ地下ヲタとしても疲弊してきたというありがちなタイミングでした。いまさら制約の多いメジャー現場には戻れないし、かといってこれ以上地下で「戦い」続けるのも金銭・体力・精神的に持たないのは明らかで、もはや何を楽しみにアイドルを見ているのかよくわからなくなっているような状態だったと思います。そんな中で、メインはいよいよ東京から離れる友人との観光旅行という名目で、そこにあくまで「オマケ」として、みたことも聞いたこともない地方のアイドルが見れるとなればこれほど都合の良いことはないと盛り上がりました。どんなにルックス・歌・踊り・トークといった要素が残念でも、一期一会ですし、むしろひどければひどいほど話の種になるからそちらのほうが都合がいい、なんとも失礼ですが、そんな風に考えながらバタバタと出発しました。

そして出会ったのがしもんchuでした。メンバーの顔も歌も「あえて」チェックせず、出たとこ勝負ではじめて聞く曲でどうやら「きんぐ」というメンバーがいるとわかるときんぐコールをしてみたり、初めて聞く曲でも、アイドル現場の経験があればどのタイミングでどういうコールが入るのかはわかるというのを実践してみる楽しみだったり、初めて見る現場、しかも茨城という土地の現場が東京と比べてどうなっているのかどう「外れて」いるのか観察して楽しんでみたりと、文字にすると自分でもひどいなぁと思いつつもその「ひどさ」が楽しいのは事実であり、そこに乗って、その日だけ楽しめればいいやというまさに卒業旅行気分で参加していました。
初めて見るしもんchuは想像通り踊りも歌もMCもめちゃくちゃだったのですが、今でも感じるなんといえない魅力がありました。特にMCは何をやってるのかまったくわからないけどとにかく本人たちが楽しそうに自己完結してるからまあいいかという感じで、物販の時間になった時も一応その地方のオススメのお店などを聞いてみたものの、「元気寿司!」「すき家!」「ココス!」という有り様。とにかく何もかもが面白く、その日は昼公演だけ見て当初の目的地へむけて出発したのですがその後はずっとしもんchuの曲を聞いて歌ってしもんchuのモノマネをして東京の元気寿司へ行って帰りました。

僕たちはその日だけでしもんchuを「消費」し尽くす気でいたのですが、しもんchuの熱量は身体の中に残り続けていました。夏にサンビーチで行われたイベントに再び皆ででかけてからは、もうしもんchuの虜でした。ゆいにゃんのところで書いたように、しもんchuには隙がありすぎるので、ついそれを安易にいじりたくなってしまいます。それは今でもずっと変わらないのですが、仲間内での「祭り」が一段落ついて一人で毎週下妻に通うようになってからは、しもんchuが愛おしくてたまらなくなり、どんなに客が少なくてもたのしそうにして(くれて)いる彼女たちをずっと見ていたいと思うようになりました。自分は神奈川県に住んでいるので、家から電車で常総線という味のある路線まで乗り継いで2時間半程度、往復きっぷを買うと3000円弱でつく下妻は非常に手頃な「ここではない、でも地続きのどこか」でした。

アイドルとは、ファンとは

しもんchuでは特に野外イベントだと物販であまりファンが居ないので、だらだらとメンバーと話している時間が非常いです。ここ一年は定期公演には多くの人が集まるようになり、相対的にそのような時間は減りましたが、相変わらず取り留めもない話をしたり、メンバー同士で常に出来の悪いコントのような会話をして自己満足して笑っているのを眺めてみたりと自由に楽しんでいました。
そんななかで、半年ほど前から、まりちゃんが笑いながらも笑顔の裏にある苦労やつらさをとりとめもなく話してくれることが多くなりました。メンバーの悩みをヲタクがLINEで繋がって相談に乗るというのも(おかしな話ですが)よくある話ですが、コソコソ話をするような雰囲気でそのような悩みをあくまで物販時間の最中という「安全」な形で聞いて話すというのはなかなか刺激的で、それは笑顔で冗談のように話してくれるまりちゃんだからこその楽しさでもありました。そこを乗り越えちゃいけないなという「お約束」の距離感をまりちゃんはわかっているんだなという安心感があるからこそ、まりちゃんに甘えて楽しんでいた部分がありました。もちろんいまでもまりちゃんの悩みがどこまで本気で深刻なものだったのか、その悩みが深い部分でどのようなものだったかまでは聞かなかった/聞けなかったのでわかりませんが、昨年末からブログの更新が途絶え、2014年1月から1ヶ月の活動休止に入ってしまった時は非常に動揺しました。毎回のイベントでフルメンバーが揃うことは少なくなっていったとはいえ、まりちゃんはほぼ全参加していたので、まりちゃんのいないしもんchuが想像つきませんでした。
まりちゃんが色々な悩みを抱えていることがわかっていたとしても、ただのしもんchuファンである自分には何もすることが出来ません。出来ないというのは、もちろん相手がそれを望んでいるとは思えない、いわゆるファンが勝手に「○○ちゃんを救う!」と息巻いているような笑えない状態になりたくないというのもありますが、損得勘定として、そこに踏み込もうとしたらこれまでの平穏な日々の中にあるしもんchuという存在が壊れてしまうという恐れがありました。
この思いはなにもそのようにメンバーと深く関わりあいを持つという側面に限ったことではなく、しもんchuに踏み込むこと自体の怖さでもありました。というのも、これまでしもんchuを見てきて、「頑張って応援する」「頑張って盛り上げる」ように、必要以上のことをしようとするといつも後悔してきたという経験があったからです。ファンと一緒に作り上げることがもてはやされる時代ですが、しもんchuはメンバーだけで完結してしまう、ファンがいつも置いてきぼりにされてしまう面白さこそが楽しいと感じていました。いつしかしもんchuでは傍観者になりたい、ただそこにいる人になりたいと思うようになりました。そういう意味では、ご当地アイドルに県外からやってくる人という立場はなかなか得です。
しかし、傍観者になりたいといいながら、現実にはしもんchuにわざわざ2時間半かけて足を運ぶくらいには大好きなのも事実です。メンバーと、一般的なアイドルでは聞けない・話せないような話をしている、「友達ごっこ」をしているのはそれはそれは楽しかったです。自分はしもんchuにずっと甘えていました。
ゆいにゃんに関しても同じです。ずっと前から、いずれ専門学校が忙しくなるからしもんchuには来れなくなると聞いていたものの、そのタイミングがいつになるのかはわからず、わかったところで結局何も出来ませんでした。

まりちゃんの休養が決まってからは、これはいよいよかもしれないと思い、下妻に通わなくなる日々について考えてみました。社会人になりお金も少し余裕が出てきたこともあり、ハロープロジェクトの地方公演に遠征してみたり、他のご当地アイドルの現場に行ってみたりしました。それはそれで楽しかったのですが、しもんchuの代わりにはならないという当たり前のことを思うだけでした。

卒業式

正式にまりちゃんとゆいにゃんの卒業が決まってからは、卒業イベントのことをずっと考えていました。これだけアイドルが存在する時代で、前向きに、ちゃんとした卒業イベントで送り出すことができるというのは実は恵まれたことです。様々なアイドルの卒業あるいは脱退を見てきて、あるいは合同ライブでたまたま遭遇してきた日々を思い起こし、自分はまりちゃんとゆいにゃんとの最後の日に何ができるのだろうか、何をするべきなのだろうか、しないべきなのだろうか、ずっと考えていました。
何度考えても、何もしないのが一番いいに決まっていると結論は出ていました。プレゼントも決められず、買いにいけず、手紙を書くにしても何を書いたらいいのかわからず、結局直前の一週間は、仕事が忙しかったこともあるのですが必要以上に仕事を抱え込んで、共生的にになにも準備ができないように仕立てあげて自分自身に言い訳を作ってしまいました。

いままで散々「お約束を外れたお約束」を楽しんでいたにも関わらず、最後もしっかりと卒業という儀式のお約束に乗る心の準備が出来ないままに当日を迎えました。1公演目はあっという間でよく覚えていません。いままでしもんchuでは見たことのないような長蛇の列の後ろの方に並んだ物販では心が浮ついてしまい、出逢った頃のように安易に「いじる」ことで、非常に雑な態度で接してしまいました。お昼をいつものように人気のないお気に入りのお店で過ごしたあと、最後の公演がはじまりました。
これで最後かと思うと、序盤からびっくりするくらいずっと泣いてしまいました。正直自分でもこんなに泣いてたら逆に醒めるだろ・・・と思うくらい涙が止まりませんでした。
「Go to the YaTaBe Arena」では、しもんchuラジコン部のテーマ曲としてYouToube動画でBGMが流れているのを聞くときはこれでもかと言うくらいにベタッとしたユーロビートにゲラゲラ笑っていたのですが、まだ2回しか歌ったことがないはずのゆいにゃんのラップとまりちゃんの大サビが入ると全く別次元の曲に生まれ変わっていて、最後に車が風を切るサーキット音と共に5人がひらりと身を切った瞬間、走馬灯のようにこれまでの思い出がステージを通り過ぎて行ったように思いました。

最後の最後の物販時間ではゆいにゃんに「泣くなよ!」と笑われ、まりちゃんにはこれからも頑張ってねと伝えました。別れは名残惜しいですが、もうこれ以上その場にとどまっても何があるわけでもありません。よく一緒にしもんchuを見に行っていた友人とおなじみの元気寿司を食べて、ビアスパークしもつまで温泉に入り、ゆいにゃんまりちゃんが歌った「3月9日」を聞きながら車で帰りました。



そう、結局特別なことは最後までなにできなかった、何もしなかったのですが、一つだけしたことがあります。それは、今日月曜日有給をとっておいたことです。ゆいにゃん以外の社会人メンバーは働いている(きんぐはいつものように公演終了後仕事に行っていました)にもかかわず、しれっと有給をとって、これまでの日々を振り返ってみようと思いました。
まりちゃんとゆいにゃんのいたしもんchuとの日々を漫然とした思い出として心の中にだけ残しておくのも、それはそれでいいかもしれません。別に有給を取らなくたって、ショックすぎて働けないなんてことはありませんし、一生他のアイドルを見に行かない!なんてこともないでしょう。ただ、最後の最後に、しもんchuに対して何か特別なことをしようとするのではなく、自分自身のなにか区切りとして何ができるかと考えた時、こうやって思いを残しておくことしかないと思いました。これまでしもんchuについてはまとまった文章を書いたことが殆どなく、正面から向き合おうとするといつもおかしなことになってしまうのですが、最後に勇気を出して書いてみることにしました。

いつも以上にとりとめもなく、文体も崩れた私的な文章ですが、そろそろ終わりにしたいと思います。


まりちゃん、ゆいにゃん、しもんchuおめでとう。そして今まで甘えさせてくれてありがとう。本当に感謝しています。とてもとても楽しい日々でした。


2014/1/3 Hello! Project 2014 WINTER / 勝田里奈さんと自己承認について

3年ぶりにハロコンに入りました。

このブログでも3年前まではよくハロコンや新人公演のことを書いていたのですが、2010年末のエッグ解体をきっかけに、ハロプロを直視できなくなってしまい、主にエッグを見に行く場所だったハロコンにもすっかり足を運ぶことがなくなってしまいました。

結果的には、大好きだったエッグ達の中から、きっかこと吉川友が『きっかけはYOU』で華々しくデビューし、譜久村聖工藤遥モーニング娘。に、竹内朱莉勝田里奈スマイレージに加入。実力派の年長組もアップアップガールズ(仮)として名を上げ、その他多くのメンバーが各所で活躍しています。アイドルの下部組織としては(ちゃんと何かと比較したわけではないですが)、驚くほど多くのメンバーがスポットライトを浴びる場所にいるのではないでしょうか。とはいっても、大好きだったエッグの中でも一番心を奪われていた存在だった、ひらっちこと平野智美さんは当然のように表舞台からはひゅるりと姿を消してしまいましたが。
そして、そんな彼女たちを真剣に追いかけるでもなく、どこか心に棘が刺さったまま、ハロプロ以外のアイドルや地下アイドル、地方アイドルを見に行く日々が続いていました。

2011年以降、楽しくもどこか鬱屈した日々に終止符を打つきっかけとなったのが、Juice=Juiceのデビュー、いや、宮本佳林ちゃんのデビューでした。それまでの間、多くの人々に実力を認められながら長らくデビューのきっかけがなかった彼女に、いつしか自分は「実力はあるのにどこか不遇」な存在としてのエッグの姿を重ねるようになり、いろいろな意味で佳林ちゃんはエッグの象徴であると思い込んでいくようになっていたのでした。そんな佳林ちゃんがデビューすることは楽しみでもあり、それ以上に不安でもありましたが、2013年5月に行われた日比谷野音ハロプロフェスが何もかも素晴らしく、それをきっかけにJ=J現場に足を運ぶようになり、2014年はこれまで刺さっていた棘の痛みを感じること無くハロプロに戻ってこれそうな予感がしていました*1

そのような期待をふくらませて参加した2014年の正月ハロコンは、予想をはるかに超える楽しさと幸せに包まれたものでした。佳林ちゃん率いるJuice=Juiceはもちろんのこと、昼公演のシャッフルコンこと【DE-HA MiX】では、熊井ちゃん通学ベクトルの意外性に笑ったり、田村めいめい&佐藤まーちゃんのロボキッスにしびれたり、夜公演のユニットコン【GOiSU MODE】では、頭を抱えるしかないことが多かった過去のものとは一線を画したかっちょいいメドレーで繋がれた、ここ数年でファンになった人々を明確にターゲットにした選曲により攻撃的に仕上がった公演に感心しながら、音楽に合わせ自然と体が動き、色々と楽しむことができました。


しかし、なにより素晴らしかったのは、夜公演の【GOiSU MODE】の日替わりソロ曲コーナーで披露された、スマイレージのかったりーなこと勝田里奈さんの『My Days for You』でした。

かったりーなは不思議なアイドルです。もうすっかりハロプロについて言及していないので、過去に自分が彼女のことをどう評していたっけ、とおもって過去エントリを検索したところ、「ツインテールがトレードマーク、結構目立つ。踊りは下手だが、笑顔が目を引く。何がいいのかわからないけど、なんかいい。」という記述がありました。

過去エントリ:Hello!Project 2010 SUMMER 〜ファンコラ!〜@中野サンプラザ 8/7夜 平野智美とエッグ観察日記
http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100807/1281201023

「なんかいい」とは自分ながらよく言ったもので(別に何も言ってないですが)、この「なんかよさ」は今のかったりーなにもそのまま当てはまる良さだと感じているものです。もちろん、「ばくわらさん」という二つ名を巡るキャラクターの読み込みも個人的に大好きなのですが、それだけには収まらない、ほわほわとした暖かみ*2や、サラリと出るキツイ一言、しかしその全てが許されるわけではないが「流される」ようなつかみ所のなさが愛おしくてたまらないアイドルです。完全に余談ですが、干支一回り以上年上のひらっちとエッグ同期で、ととても仲が良さそうだったのが今でも忘れられません。

かったりーながステージの上での実力面で評価されることはあまり多くないかもしれません。どちらかというと、ステージの上でもダンスや歌という要素よりもついついファンにキャラクターの読み込みに夢中にさせてしまう、そんなメンバーだと勝手に思っています。今日のハロコンでも、時たまどこかやる気がなさそうに思えてしまうような踊りで、シャッフルユニットの立ち位置も右端でソロパートも1箇所だけ。出番以外の時にステージの左右に設置された階段で各メンバーが「GOiSU/DE-HA」を意識するよういわれているのか必要以上にギラギラと腰をくねらせ肘を上げて髪をかきあげ「魅せ」る中、かったりーなはふらふらと不思議な動きをしながら、時には前段にいた中西香菜の動きを笑ったりしていました。

しかし、夜公演のソロコーナー、工藤遥に続いて姿をみせたのは、そんなかったりーなでした。真野恵里菜の名曲、『My Days for You』のイントロが流れ、「止まらない思い 受け止めて」そう歌い始めるかったりーなの姿、スクリーンに映る「My Days for You 勝田里奈」の文字に心拍数が跳ね上がりました。
『My Days for You』は本当に素晴らしい曲です。しかし、同時に歌い手を選ぶ曲でもあるように思います。アイドルであると同時に、女優としてステップアップしてきた真野ちゃんが、アイドルとしてのキャリアの後半で与えられた、20歳を記念した歌です。また、東日本大震災後に発売された曲でもあり、“二十歳の彼女なら説得力があるものになる”という判断の末に出来上がったものであるといわれています*3
かったりーなが真野ちゃんに匹敵するほどの高い表現力を持ち合わせていると言いたいのではありません。ただ、この曲を歌うためには、高い歌唱力といったある程度客観的に判断できる能力よりも、それこそ「なんともいえない良さ」や、聴くものをあたたかい気持ちにさせてくれるような声質、そのような天性のものが必要なのではないかと思っています。そして、かったりーなには、それがありました*4

客席がかったりーなのイメージカラーである黄色一面に染まり、My Days for Youを歌い上げた数分間、本当に幸せな瞬間でした。

再びハロに足を運ぶきっかけとなった佳林ちゃんは、よくわからないエッグへのこじれた思いを浄化してくれて、これからの未来を見ていたい、未来へ連れて行ってくれる、そう思わせてくれる存在です。しかし、かったりーなは、自分の中でまたちょっと違ったところにいるようです。あのエッグ時代が今の彼女につながっている、そして自分自身も、現実を生きる中で、あのエッグを見ていた頃があるから今がある。かったりーなを肯定してあげることで、自分自身を肯定できる。アイドルとは何なのか、「他人」とはなんなのか、そんな深い問いに繋がってしまいそうですが、かったりーなには常に自分を重ねてきてしまいました。そんなかったりーなから、「いつも見ててくれたりがとう 支えてくれていてありがとう 止まらないこの思い受け止めて これからもどうぞよろしくね」と歌われ、勝手に自分を重ねて肯定してきた彼女が、それを受け入れてくれている、そして逆に自分を祝福してくれる*5、そんな幸福が新年早々訪れてしまったのです。

誰しも、承認欲求というものを持っていることでしょう。昨今では特に承認欲求と上手く付き合えるかどうかという点が現代社会においてクローズアップされることが多いように思います。アイドルと承認を巡る問題について、ここで特定のアイドルから自分が承認されるのかという他者承認のレベルで悩んでしまうと、終わりの見えないところへ落ちてしまうのでしょう。
しかし、自分が自分を受け入れられるのか、赦せるのかという自己承認のレベルにおいて、自己の中に生み出された、超越的*6な存在としてのアイドルが自分を肯定してくれる、他者でありながら自己承認の担い手である、自己を越えた他者なのか、自己と混ざり合った他者なのかよくわからないけれど、少なくとも彼女がいるから自分が生きていけるんだと思う瞬間があります。それは、全てが頭のなかで解決してしまいような、もうほとんど妄想と変わらない状態かもしれませんが、それでも、ステージで歌うアイドルによってその状態が生み出されること、そして、アイドル(というまぎれもない他者)が存在することそれ自体は、やはり素晴らしいことだと思うのです。


2014年も、今日のような夢の時間がまたいつか訪れる場所を追いかけてみたいと思います。


*1:この辺りのエッグへの思いについては、What is Idol?というアイドルミニコミに寄稿させて頂く機会があったのですが、すっかり告知をするのを忘れていました。 What is Idol? vol.9 http://whatisidol.jimdo.com/2013/08/09/what-is-idol-vol-9-%E5%86%85%E5%AE%B9%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E3%81%9D%E3%81%AE2/

*2:スマイレージ時代に「ばくわら」や「いつめん」がネタになる以前、新人公演日記を最も多く更新していたのは彼女でした

*3:参考:南波一海 presents ヒロインたちのうた。〜アイドル・ソングのキーパーソンを直撃!〜第15回:NOBE http://www.cdjournal.com/main/special/song_of_the_heroines/645/15

*4:かったりーなには歌唱力が無いと言いたげな文章になってしまいましたが、決してそのようなことはないと思います。低音は少し辛そうでしたが、サビの高音はとても綺麗で、特徴のある歌声が心地よかったです

*5:もうここまでくると何を言っているのかわかりませんが、正確には平野智美が自分自身であり、かったりーなはエッグ同期として精神的共同体なのです。はい。

*6:不勉強なのでこのあたりの用語が正式な用法なのかわかりません